10.8.10

09/08/10 首

月曜日。

最近首が痛い。なんでだろう。寝違えたかとも思ったが、土曜日の昼から徐々に痛み出した。動かなくなってきた。

その前に同僚の一人が同じような症状で学校を二日休んでいた。何やってんだと思っていたが、自分も同じようになってみると非常につらい。寝返りを打つのも痛い。・・それでも自分は休みませんがね。今日も7つのコマをがっつりこなしてヘトヘトだ。一か月ほど病気で休んでいた生徒が戻ってきていたので嬉しかった。

 

土曜日に理学療法士であるオランダ人ボランティアJ。彼とマヌスの日本人ボランティア4人の5人でTwo Islandというリゾートになろうとしている島に泳ぎに行ってきた。Jがアレンジしてくれたのだが、いざ当日の正午、集まってみると、カヌーで行く計画だったらしいが、そのカヌーが準備されていない。電話で確認を取るJ。その傍ら外国人の集まりに「俺がボート出してやるよ!」という人が現れて、結局ボートで行くことに。燃料が2ガロンで合計50キナ。そんなに使っていないといJは怪しんでいたが、一人10キナ、350円でボート一日乗れたらいいと思う。

ボートで海に出ると結構波が高かった。カヌーは無理だったのでは・・。準備されてなくてよかったのかもしれない。ロレンガウからもう目と鼻の先のその島にはすぐに付いた。その時から首に違和感が。ボートか?それともその日の朝にやったバスケが原因か・・・。その時はあまり気にせずに、青い海、白い砂浜、南の島を満喫した。とにかく晴れてよかった。サンゴの中を泳ぐが、結局途中で足がつる。バスケやり、泳ぎまくって・・当然の結果だ。戦時中の船の残骸、1945年のコカコーラの空瓶が見つかる。楽しかったがヘトヘト。それが土曜日だったのでよかった。夜はほとんど首が動かず、お茶を注ぐのも大変なほどになった。

日曜日はリラックス。朝はやはりバスケ。首が全然動かずに、朝起きるのもつらかったが、Jから一日経ったら動かしたほうがいいといわれバスケをすることに。すると、体があったまるにつれて動くようになった。これはいいリハビリだ。学校も休むより、働くくらいがちょうどいい。

夜は人生ではじめて、肉じゃがのようなものを作った。基本的に家にあるレシピ通りにつくった。マヌス州唯一のスーパーにある醤油。お肉は鶏肉。ニューギニア島から市場に来るジャガイモと人参は手に入った。そして、調理酒、みりんはココポという任地から買ってきてもらって、前回上京時に手に入れたもの。とってもおいしくて、びっくりした。ちなみに先週は小豆をゆでてあんこを作った。

カレー生活も悪くはないのだが、せっかくあるから色々やって見ようと思う。日本に居る時よりも料理を楽しんでいる自分がいる。

2.8.10

31/07/10 適応

土曜日。

最近、日々が楽しく過ぎていく。

学校の3学期がはじまって2週間が過ぎた。全く問題ないわけではないが、最初に感じていたような苦しさを感じることなく、心に少しゆとりを持てている。授業の度に震えて緊張して、頭が真っ白になることも最近は無い。長期的な予定に乗っかって物事を進める余裕がでてきた。

週末はもうヘトヘトで、遊びに行ったり、約束を作る元気がなかったが、今は少しずつ変わってきた。まだ日曜日(仕事の前日)に忙しくする気にはなれないが、それでも金、土曜日は外出する楽しさを味わっている。さらばひきこもり時代!である。

金曜日、昨日はマヌスで3回目のクラブ(音楽が流れてて飲んだり、踊ったりするところ)に行ってきた。去年行ったSports club(別称Animal Zoo)は喧嘩騒ぎの印象と乗り切れなかった自分の気持ちのせいであまりいい思い出がなかった同居人のNさんは、活動でも生活でもなかなか満足できないらしく、憂さ晴らしをしたかったらしくなんとしてもクラブに行きたくて仕方なさそうだった。彼は同僚に迎えに来てもらうように頼んでいたが、きっと来ないと踏み、また実際来ずに、Arさんに急きょお願いした。同居組の日本人ボランティア3人と演歌だいすきのMr.Manusでクラブに繰り出した。しかし、それぞれの目的はバラバラだった。かつてクラブでDJをやっていたというAさんは音楽を楽しみたいということだった。私は・・出会い探し。首都でのことをきっかけに、積極的になっていく自分が分かる。可愛い子いないかな~なんて出発前に言っている自分にびっくりした。

今回行ったのはポントゥンと呼ばれている、白人が運営してるクラブ。マヌスには二つしかクラブがない。しかし、クラブのない場所もあるらしい。きっとマヌスの人は音楽と踊りが好きだから・・と勝手に思っている。夜11時、いつもなら就寝する時間に入った。入場料10キナ(350円)。入ってすぐは、クラブというものにそもそもなじめてない自分はずっと周りを眺めていた。踊る人、しゃべる人。・・おっ、きれいな若い女性がいる!と思ったら男性に熱烈に接近されていた。一人の男がそこから去ったと思ったら、すぐに次の男が。その程度というものがすさまじく、その女性は私が見てる間、一度も一人になることがなかった。他の日本人二人からみても。可愛かったというその子は、私も興味をもったがそこでそこに割って入るほどの度胸は無かった。そしてそうやって群がる男たちと同じなんだと思うと、自分が少し醜く見えた。ときどき、自分も踊ってみたりすると、案外楽しい。Aさんは、本当のクラブってのはこんなものじゃないと、厳しい採点もしたが皆楽しんだ。私は、何かしたわけではないが面白い実態がみられて楽しかった。日本に居た時から、今一歩、奥手だった自分に自信をくれた首都のことを思い出す。「よし、今度こそは」っと、一人で反省していた。

最近の悩みは、食材が市場に少ないことだ。キャベツ、玉ねぎ、人参、なすをずっと待っている。しかし、サッカー仲間だった(ずっとサッカーはご無沙汰)Wの奥さんが売っていた、ウミガメの革や貝殻で作ったアクセサリーに見とれて買ってしまったり、出会う人たちを眺めたり、おしゃべりしたりすることが楽しかった。一昔前は一秒でも早く市場から出ようとしていた私が、今の生活を、当たり前として、楽しめている。散歩したり、バスケしたり、可愛い女の子みつけてあれこれ考えたり、買い物したり、映画みたり、本読んだり、おしゃべりしたり。それは特別なことではないけれど、日本という育った場所と全く違う環境でそれを行うには苦労が要ったり、全く喜びの無いものになったりもする。できないことだってある。実際に長い間そうだったのだ。それが今、マヌスに来て一年経とうという頃に「適応」した感覚を味わえていることはとても幸せだ。この感覚を持たずに2年間過ごす人もいるだろうし、赴任した日から適応する人もいるだろうと思う。自分にはきっかけがあった。それにしても、23歳の男が持つ、異性を求める意識の強さに驚いているこの頃である。

25/07/10 三連休

日曜日。

金曜日が祝日だったので。三連休だった。学校は第三学期が無事に動き出した。隣のパピタライ高校、Yさんの活動している学校から教師が加わった。パピタライは現在暴力事件やらで大変・・ということで教師が一部辞めて他の学校に移るという事態が起こっている。

その点、マヌス高校はまだ平和だ。初日こそ生徒の集まりは三分の一程度であったが、もういつも通りであった。

さて、金曜日は久しぶりに運動した。学校のバスケットボールコートでバスケをした。すぐ息が切れる。強い日差し。もっと体力をつけないと。運動するとすぐ頭が痛くなるのはとても悲しかった。そもそも三連休でもないと、運動しようという気が起こらない。

土曜日は同居のAさんの誕生日。ということで、午後はマヌス島で日本語をしゃべれるPNGの方、aさんがパーティーを企画してくださった。彼、その奥さんがお酒やら料理やら・・・なんと大きなバースデイケーキまで準備してくださっていた。

日曜日、オランダ人のボランティアJさんが、滝に泳ぎに行こうと誘ってくれた。日本人ボランティア三人とJさんはとても仲良くしている。一つの機縁は、私の病気だった。私が入院してたとき、彼はその病院で活動しており、私への処置に非常に関心を寄せて、事務所に検査結果を伝えてくれたり、入院部屋を個室にしたほうがよいと勧めてくれたり・・・彼にとっても先進国育ちの価値観が共有できる仲間であり、懇意にしてくれている。入院時に「プライバシー」という言葉をPNGで聞いたときは感動したものだ。大事な仲間だ。ときどきご飯を一緒に食べたりしている。

しかし、今日は私は自宅に残ってゆっくりすることにした。ほかの同居人二人は一緒に遊んできたが。自分は午後ずっと昼寝をしていた。目を覚ましたら夕方だった。きっと必要な休息だったんだ。と解釈し、一人でカレーを作って食べた。どうも日曜日は予定を入れるのが億劫だ。なにもPNGに来たからという訳ではないが・・・。急に身動きのできない性格だから仕方がない、情けない気もするが、仕方ない、といつも思う。

Jさんは私のことを気にかけてくれる。今日のことにしても、今度、土曜日だったら一緒に遊べるかな、と話していたとのことだった。そういう人がいて本当にありがたい。Jさんはそういう私を理解してくれている。貴重な友人を持ったと思う。

27.7.10

17/07/10 首都で

土曜日。

昨日マヌスに帰ってきた。首都に行くのが嫌で嫌で仕方が無かったが、行ってみると案外楽しいものだった。

 

PNGの理数科教師ボランティアみんなで、勉強会を行った。内容は、参加型問題解決の手法である。状況を分析し、問題を発見し、それを論理で並べて、可能な範囲での解決策を導くものである。現在、教師経験もなく、配属先の抱える問題解決に貢献できないでいる自分が歯がゆいと思っているボランティアが多いのである。そのために丸三日間を使って行った。

大事なことがいくつか分かった。我々ボランティアでさえ、3日の参加型ワークショップはかなりしんどいものであった。これは、学校、教師その現地の方々に問題解決に対して大きな動機づけがないと難しいということが明らかになった。気軽には使えないものではある。しかし、それでも、本当に困っている人には効果が上がることが期待できる。そして、本当に困っている学校というのはマヌスにも、他の州のボランティアが配属されている学校にもある。

まだ、言葉、文化の壁、ワークショップの運営というそもそもの難しさから、ボランティアが一人でこの手法を用いて任地の問題に取り組むのは難しいと思う。任地で、マヌスでこれに取り組みたい、そしてその取り組みを全員で共有したいと思う。そのために以前に流れた分科会をもう一度企画してみたい、そういう思いを理数科教師ボランティアで確認した。再確認はなんと勉強会最終日の打ち上げであった。

勉強会終了後、翌日速やかに任地に帰るのが筋である。しかし、マヌスには週四便しか飛行機がない都合で、一日首都に居た。いつも通っている中華料理屋がある。病気で上京したときから一人で通い詰めたお店で、店員さんからもなじみの客になってしまった。そこで働く店員さん、PNGの女性に勇気を出して声をかけた。前から気にかかっていたが全く勇気が出ずにいたのだが、外国人だからって遠慮していたら何も始まらないと思い、夕食に誘うことにした。やましい気持ちは無いし、いつも応対してくれて、いいひとだと思うから。彼女は喜んでくれた。予定があったようだが、快諾してくれた。タクシーで迎えに行った。その中華料理屋の前には数人店員さんが仕事を終えてたむろっていた。彼らも自分にいい印象を持ってくれているらしく、笑顔で送り出してくれた。私が首都を去ることを惜しんでくれた。二人でレストランに行った。お互いのことを全く知らないにもかかわらず、何か近いものを感じた。話は決して表面的でなかった。自分を偽ることなく、飾ることなく。やはり若いもの同士(彼女は19歳)だが、誠実にふるまえたと思う。好意は伝わってきたし、伝わったと思う。しかし過度な期待は持たせてはいけないと、自分の将来のこともしっかり話した。文化や価値観はやはり違うから・・しっかり説明しなければいけないと思った。いい友達でいようと。ここから何か発展するか、しないか、よくわからない。実際、彼女は美しいと思う。また会う約束をした。半年後に。

ただそういう気持ちを国を超えて持てるということがはっきり自覚できたことが嬉しかった。

夜9時には彼女を下宿に送った。自分もドミに帰った。ドミの門限は10時。この事実を知るボランティアたちからは散々に冷やかされた。でも、何もやましくないし、様々な欲求をぐっとこらえて誠実に振る舞えたと思う。。夜にクラブに行って、遊ぶのよりはるかに健全だと思う。逆にPNGでは出会いは無いという人たちよりは、きちんとこの国と本気で向き合っていると思う。

現在はマヌスにいる。ここでは電話回線も切れて、ネットは絶望的・・・だったが、首都で新兵器を買った。携帯電話会社の無線モデムである。携帯電話用の電波でインターネットが楽しめるというものである。またどんどん更新できれば、と願うがこれもいつだめになるやらと、どこかで思っていなければならない。

13.7.10

09/07/10 一年

金曜日。

また首都にいる。任地の電話線は切れてしまっているので、久しぶりの更新になった。

病後マヌスに帰って働いた。そしてterm2を無事に終えた。少し疲れるとすぐ頭痛がする。一か月程度続くらしい。・・復職してから学期末の生徒の評価のために、遅れていた授業をまくために働いた。ボランティアの集まり、隊員総会。

私は、ボランティアが首都に上がった時に宿泊できるドミトリーの管理委員の長を務めている。これがくせもので、私を大いに悩ませた。電話線がいつ切れるかも分からない場所にいるのに、自分がメールで苦情を受けたり、利用の許可を出したりしなければならなかったからである。きちんと自分の任地の状況を説明したにも関わらず、「大丈夫!」と無責任にも役職を押しつけられた。これは良くないということで、規約の改正、全ボランティアがドミの管理委員、長の仕事が良く分かるように明文化することなどを提案したりした。これまたメールでやり取りをしていた。もちろん電話線が切れたらストップ。規約や委員長の役割を変えるべきだと言うと、無責任だとか、社会人失格と散々に言われてしまった。・・結局ドミの規約の一部の変更を議題にして、討論した。一部だけでも、ドミが公平に、皆に喜ばれるようになればいいと思う。

今年で三十周年の協力隊を祝う式典。ボランティアの企画でないので乗っかるだけだった。日本語、ピジンの歌を歌った。ギターを持って行って弾いた。

ボランティアの安全のために開かれる安全対策協議会。凶悪な事件が後を絶たない。やはり首都が危ないようだ。自分も一月に強盗にあっている。気軽に歩ける場所なんてどこにもない。

活動中間発表会、自分が今までやってきたことを10分にまとめてプレゼンした。活動風景の映像や写真を流す人もいるし、任地の問題点を取り上げる人も。自分の同期や他の職種、同職種の人の様子を聞くとヒントを得られることもある。

自分がPNGに来たのは、去年の6月。一年が経った

日本で訓練を受けたときの仲間からメールをもらっていた。勝手に企画した近況報告会をほったらかしにして叱られた。でも叱ってくれるだけありがたい。いい仲間を持った。

大学時代の仲間が手紙をくれた。デング熱だったことを聞いて心配してくれた。就職活動も無事終わったらしい。本当に良かった。

いつの間にかボランティアの中でも古株になっていた。頼られることも多い。皆はじめは何も分からない。自分も未だ分かっているのか怪しいが、それでも少しは経験がある。それをもとに何か後輩にいい影響を残せれば、その思いでドミの制度改善や分科会の改善を試みた。なかなか思うようにはいかないし、疲れて投げ出したくもなる。それでも、なんとかこうして少しずつでも前進している感覚、一緒に頑張ろうと言ってくれる人がいると、まだやろうと思える。

残り半分を切った。ブログも更新できる回数も限られている。細々とでも止めずに続けられたらと思う。

みなさん、心配かけてごめんなさい。それでは!

12.7.10

09/07/10 一年

金曜日。

また首都にいる。任地の電話線は切れてしまっているので、久しぶりの更新になった。

病後マヌスに帰って働いた。そしてterm2を無事に終えた。少し疲れるとすぐ頭痛がする。一か月程度続くらしい。・・復職してから学期末の生徒の評価のために、遅れていた授業をまくために働いた。ボランティアの集まり、隊員総会。

私は、ボランティアが首都に上がった時に宿泊できるドミトリーの管理委員の長を務めている。これがくせもので、私を大いに悩ませた。電話線がいつ切れるかも分からない場所にいるのに、自分がメールで苦情を受けたり、利用の許可を出したりしなければならなかったからである。きちんと自分の任地の状況を説明したにも関わらず、「大丈夫!」と無責任にも役職を押しつけられた。これは良くないということで、規約の改正、全ボランティアがドミの管理委員、長の仕事が良く分かるように明文化することなどを提案したりした。これまたメールでやり取りをしていた。もちろん電話線が切れたらストップ。規約や委員長の役割を変えるべきだと言うと、無責任だとか、社会人失格と散々に言われてしまった。・・結局ドミの規約の一部の変更を議題にして、討論した。一部だけでも、ドミが公平に、皆に喜ばれるようになればいいと思う。

今年で三十周年の協力隊を祝う式典。ボランティアの企画でないので乗っかるだけだった。日本語、ピジンの歌を歌った。ギターを持って行って弾いた。

ボランティアの安全のために開かれる安全対策協議会。凶悪な事件が後を絶たない。やはり首都が危ないようだ。自分も一月に強盗にあっている。気軽に歩ける場所なんてどこにもない。

活動中間発表会、自分が今までやってきたことを10分にまとめてプレゼンした。活動風景の映像や写真を流す人もいるし、任地の問題点を取り上げる人も。自分の同期や他の職種、同職種の人の様子を聞くとヒントを得られることもある。

自分がPNGに来たのは、去年の6月。一年が経った

日本で訓練を受けたときの仲間からメールをもらっていた。勝手に企画した近況報告会をほったらかしにして叱られた。でも叱ってくれるだけありがたい。いい仲間を持った。

大学時代の仲間が手紙をくれた。デング熱だったことを聞いて心配してくれた。就職活動も無事終わったらしい。本当に良かった。

いつの間にかボランティアの中でも古株になっていた。頼られることも多い。皆はじめは何も分からない。自分も未だ分かっているのか怪しいが、それでも少しは経験がある。それをもとに何か後輩にいい影響を残せれば、その思いでドミの制度改善や分科会の改善を試みた。なかなか思うようにはいかないし、疲れて投げ出したくもなる。それでも、なんとかこうして少しずつでも前進している感覚、一緒に頑張ろうと言ってくれる人がいると、まだやろうと思える。

残り半分を切った。ブログも更新できる回数も限られている。細々とでも止めずに続けられたらと思う。

みなさん、心配かけてごめんなさい。それでは!

09/07/10 一年

金曜日。

また首都にいる。任地の電話線は切れてしまっているので、久しぶりの更新になった。

病後マヌスに帰って働いた。そしてterm2を無事に終えた。少し疲れるとすぐ頭痛がする。一か月程度続くらしい。・・復職してから学期末の生徒の評価のために、遅れていた授業をまくために働いた。ボランティアの集まり、隊員総会。

私は、ボランティアが首都に上がった時に宿泊できるドミトリーの管理委員の長を務めている。これがくせもので、私を大いに悩ませた。電話線がいつ切れるかも分からない場所にいるのに、自分がメールで苦情を受けたり、利用の許可を出したりしなければならなかったからである。きちんと自分の任地の状況を説明したにも関わらず、「大丈夫!」と無責任にも役職を押しつけられた。これは良くないということで、規約の改正、全ボランティアがドミの管理委員、長の仕事が良く分かるように明文化することなどを提案したりした。これまたメールでやり取りをしていた。もちろん電話線が切れたらストップ。規約や委員長の役割を変えるべきだと言うと、無責任だとか、社会人失格と散々に言われてしまった。・・結局ドミの規約の一部の変更を議題にして、討論した。一部だけでも、ドミが公平に、皆に喜ばれるようになればいいと思う。

今年で三十周年の協力隊を祝う式典。ボランティアの企画でないので乗っかるだけだった。日本語、ピジンの歌を歌った。ギターを持って行って弾いた。

ボランティアの安全のために開かれる安全対策協議会。凶悪な事件が後を絶たない。やはり首都が危ないようだ。自分も一月に強盗にあっている。気軽に歩ける場所なんてどこにもない。

活動中間発表会、自分が今までやってきたことを10分にまとめてプレゼンした。活動風景の映像や写真を流す人もいるし、任地の問題点を取り上げる人も。自分の同期や他の職種、同職種の人の様子を聞くとヒントを得られることもある。

自分がPNGに来たのは、去年の6月。一年が経った

日本で訓練を受けたときの仲間からメールをもらっていた。勝手に企画した近況報告会をほったらかしにして叱られた。でも叱ってくれるだけありがたい。いい仲間を持った。

大学時代の仲間が手紙をくれた。デング熱だったことを聞いて心配してくれた。就職活動も無事終わったらしい。本当に良かった。

いつの間にかボランティアの中でも古株になっていた。頼られることも多い。皆はじめは何も分からない。自分も未だ分かっているのか怪しいが、それでも少しは経験がある。それをもとに何か後輩にいい影響を残せれば、その思いでドミの制度改善や分科会の改善を試みた。なかなか思うようにはいかないし、疲れて投げ出したくもなる。それでも、なんとかこうして少しずつでも前進している感覚、一緒に頑張ろうと言ってくれる人がいると、まだやろうと思える。

残り半分を切った。ブログも更新できる回数も限られている。細々とでも止めずに続けられたらと思う。

心配かけてごめんなさい。それでは!

15.6.10

16/05/10 小さな世界

日曜日

土曜日。同居しているKさんに誘われ、Aさんも一緒に3人でホテルのレストランに昼食を食べに行った。そこでYさんにも会った。皆さん、毎週ホテルで食事をされているらしい。私は普段そこに行く習慣がなく、家で適当に済ませてしまう。引きこもり体質なのかもしれない。レストランで、ホーランド(?)から今年新しく来たという若いボランティアにあった。現在家が無く、ホテル住まいのようだ。一人でさみしかろ・・。電話番号を聞いたので、今度我が家に招いてあげようと思う。外国人同士、ボランティア同士、何か通じることもあるだろう。

昼はYさんとグランドに行った。我が学校とYさんの学校の交流戦が行われた。Yさんの生徒を見る眼差しは、温かかった。自分はすぐ退屈になってしまった。バレーとサッカーをやっていた。これらのスポーツがうまい人はいいけど、出れるのは一握り。自分の教え子も沢山いた。ツルツルになったスパイクを持ってきている生徒が居た。「ただ持ってきただけ」と言う。観戦してるが、本当はプレイしたくて仕方ないんだ。こんなこと書いている自分も密かにスパイクとストッキングとすね当てをちゃっかり持ってきていた(笑)。でも生徒の試合だから、彼らに出て欲しかったから自粛した。家に帰ってバスケボールを学校に持って行った。幸運にも空気入れを持っている教員が居たので空気を入れてもらって、近くにいたそのツルツルのスパイクを持ってる子どもらと、バスケをした。彼らはルールを知らないので教えてあげた。シュートの打ち方、ドリブルの仕方。ドリブルは叩くんじゃなくて、押すんだよと。指と付け根でしっかり触るように。素足でアスファルトの上でやって、皮がむけていた。

 

日曜日。今日は高校時代の友人Hの結婚式が日本で行われた。おめでとう!

この日に電報が届くように、また別の友人Mにお願いしておいた。今まで結婚式というものに参加したことが無いので、いまいち想像しにくい。高校の同級生もきっと一部集まって祝ったのだろう。

その夜、代打を頼んだ友人に電話した。彼は私のメッセージをわざわざ伝えてくれたらしい。喜んでもらえたなら何よりだ。そして何もできない自分に代わって面倒を引き受けてくれたMに感謝した。結婚式に出席した後、夜に新幹線で彼の本拠地に帰るという切り替えの感じが日本を漂わせた。

結婚式があったその日、私は家の草刈りをして、ネットに接続を試み、しかしうまくいかず諦めた。Mr.Kが我が家に来た。彼は我が家に来て、なんと海外に職を探している。彼の職場にそうやってフィリピンから来た人がいるそうだ。募集しているウェブページを紹介してもらい、一緒に探して、応募した。現在その返信待ちなのだ。しかし、接続できなかった。

そんなときに日本から、電話がかかってきた。かつてマヌスのMr.Kの故郷で彼と一緒に働いていたボランティア、Fさんから突然の電話だった。初めてのことで驚いた。彼は6Wが亡くなったことを聞き、確認するために私に電話した。その場にMr.Kが居たのは奇跡だった。6Wを父親と呼ぶ、Fさんはきっと濃い人間関係をこの地で作ったのだろう。6WともMr.Kとも私もお世話になったし、これからもなるだろう。

いろんなところで世界は繋がっている。本当に世界って狭いと思った。

09/05/10 6W

日曜日。ブログを書くペースが落ちている。

先週の火曜日。カレーを振る舞った日。夕方に近所に住む小学生の女の子が我が家に来た。また理科の質問かな・・と思ったら、思いもよらないことを言われた。

「6が死んだ。」

6、6Wは、我が家によく遊びに来てたおじさんだった。マヌスに来た日本人ボランティアの世話をしてきたと豪語していた。実際私はお世話になった。彼は結構年を取っていた、おそらく60歳くらい。しかし肌はツヤがあって、そのブッシュナイフ(刃渡り50cm以上ある刀のようなナイフ)で我が家の草刈りをやってくれたときなどは、喧嘩したらこの人には勝てない、そう思ったほどたくましかった。

小学生、Sは当日、ハウスクライ(お通夜的なもの)が行われることを伝えに来てくれた。初めてのことで、少し不安だったが、彼のことを思い出すと行かずにはいられなかった。

お隣さん、Pおばさんに事情を話して、何を準備すればいいか聞いた。ここの文化では、そう言うときは食べ物を持っていくのだそうだ。現金ではなく。夜になり、お店もほとんどしまっている。しかし、外国人、バングラデシュの人が経営してる小さな商店は開いているということで、Pおばさん、その姉Mは一緒についてきてくれた。食パン20切れ入りを5袋、バター、砂糖1キロ、お茶を買って、そのまま向かった。マヌスは比較的安全と言っても、周りの人たちは夜に日本人が歩くことをとても心配する。女性2人は、ハウスクライの家まで連れていってくれた。

小さな家の中には15人くらいが、横たわった人間を囲んでいた。家の外にも人が居た。彼らは泣き叫んでいた。娘か、関係は不明だが、その横たわった身体にしがみついて、ずっと叫び続けた。式というより、ただ皆、集まり、囲み、泣く。自分はどうして良いか分からなかった。その身体はスラックを履き、白いシャツにネクタイをしめていた。首にはいつも付けてた黒い十字架のネックレスが。顔の鼻と口には包帯が巻いてあって、それが6Wなのか、良く分からなかった。6Wの脂ぎった感じの皮膚とはまるで別物で・・目もしわくちゃで、自分には信じられなかった。その十字架だけが、6Wの死を私に説得力を持たせていた。泣いていた娘が私のために場所を譲ってくれた。近くで見れば見るほど、彼が痩せこけたことが分かる。何か病気で亡くなったのだろう。蠅がたかりはじめていた。恐る恐る額に触れた。これが、本当にアイツなのか?触ったところで何も分からなかった。

周りの人々からはとても感謝された。来てくれてありがとうと。「残念です、彼はいつも十字架と一緒でした。だからきっと今もそうでしょう。彼をお願いします。」そう残して去った。帰り道も男の子が送ってくれた。話しを聞くと、2週間前から病気になったらしい。片腕、片足が動かなくなり、そのうち、話すこともできなくなったと。食事や水浴びも自分でできなかったらしい。言葉を失った彼はただ、微笑んでうなずくだけだったらしい。病院に行っても、何も分からなかったようだ。どのような病か特定されなかったらしい。

信仰の無い私にも、彼が神様にすがっていたのが分かった。何かあるとすぐに、神の名を出していた。他人のお金が無造作に机に置いてあったとき、彼は神の存在を自分に言い聞かせて、それをくすねることを拒んだ。これはある日本人ボランティアの家に彼が訪ねたときのことらしく、誇らしげににそれを話したのを思い出す。芝刈りも、神がこの日本人を助けなさいというからそうしたらしい。彼は今、どうしているだろうか。うちの猫と出会ったろうか。

私は泣きもせず、叫びもせず。ハウスクライにお邪魔した。6Wは翌日彼の村に運ばれて、葬式が行われたそうだ。そうしてこの週末にはその村では、6Wの娘の結婚式が盛大に行われることになっている。何か終わり、また始まる。

9.5.10

04/05/10 新生活

火曜日。

新しいボランティア、KさんとAさんと同居を初めて一週間が経った。良く言えば新鮮、悪く言えば落ち着かない感じ。それまでとは当然勝手が違う。

 

彼らは住環境の改善にとても積極的だ。自分がどこまでできるのか試したいとKさんは言っていた。州政府の持ち物である我が家の改善に最適な職場、州政府に派遣されていることもあって、住居の改善を要求した。かつて、そのような要求をしてきたが州政府は動かなかったと聞いていた。無いなら無いなりの生活を送ってきた。何もせずその生活を受け入れてきた。しかし、彼らは違った。自ら積極的に動いた。その甲斐あって、州政府の家の修繕を担当する人が我が家までやってきて、視察した。その結果、傷んだ屋根や床などの修繕にとどまらず、壊れた洗濯機の代わりに新しいものを置くことや、エアコンを付けることなど・・様々なことを約束したらしい。

昨日、月曜日。KさんはD社のツナ缶を食べた。私がかつて三度食べ、三度ボイルに罹ったことも伝えたが。その結果、今日彼の足にボイルの赤ちゃん、小さなニキビのようなものが足に出来ていた。私は調理せず食べていたが、彼は加熱して食べた。それでもダメだった。

今日、火曜日。カレーを作ったが、初めて中にバナナ、それも日本で食べるような甘いバナナを沢山入れてみた。処理する為に。バナナが大量に庭になって、お隣さんと分けて、さらに日本人3人で分けてもまだ余るほど。カレーは美味しかった。KさんもAさんもまだ慣れないのもあって帰宅後ぐったりして、料理する元気がないようだ。一度はカレーを作ると言ったら、ぜひ食べたいということで振る舞った。とても喜んでもらった。次カレーを作るときもぜひと。

でも・・かつてはほぼ毎日カレーを食べていた自分。料理をするのは自分も元気があるとき、帰ってすぐ、シャワーを浴びたいのをぐっとこらえてちゃちゃっと適当に作る。勢い、その場の心持ちで決めて作っている・・。大掛かりなことをするほど自分も、準備しているわけでない・・傍から見ると多分すごく簡単に、要領良くやっているように見えるのだと思う。かつて同居していたSさんから見たら相当要領悪そうに見えただろうが・・。何故か、そういうときに料理の頻度が増える。変な自信でも付けてしまったのかもしれない。

28/04/10 新隊員着任

水曜日。

月曜日。2学期の始業開始の日。その日に、新たなボランティア2人が、マヌスに、我が家にやってきた。これから残りの任期、来年の6月まで彼らと共に暮らすことになる。嬉しくも悲しくも一か月の一人暮らしは終わった。

空港まで出迎え。私の提案とYさんのセンスで段ボールで小さな看板「ようこそマヌスへ!」を作り、掲げた。自分がPNG、任地に来たときと他の任国の話の間のギャップに少し悲しみを覚えた記憶があったから。PNGでは特に歓迎会もボランティアは企画する習慣もなく、それどころかボランティア同士の仕事さえも適切に説明されない。PNGのボランティア事情は特殊で、JICAの協力隊派遣国で唯一男性限定の国なのだ。それはその国の治安の悪さが故である。そう言う訳で、今回来るのも当然男性なのだが、私はしっかり歓迎したかった。来てよかったと思って欲しかった。たとえ不器用でも。

その後昼食は唯一のレストランがあるホテルで。このような接待にYさんも私も全く不慣れでであったが。Aさんと、Kさん。お二人とも私より年上で、社会人経験もあり、大人だった。その後、Yさんは帰った。そして、街・・と言ってもとても小さいものだが簡単に案内した。この国のことだって分からない、そんな中で暮らしを始めるのだから大変に決まっている。それでも、二人が働くことになる州政府の人は、「明日7時半ね」と当たり前のように言った。私のときもそうだった。引っ越してきて落ち着くのに数日つかっても良いだろうにな、と思った。それを彼らも気付いたようだが、要求しないあたりが、日本人らしい気もした。買い物にマヌス唯一のスーパーマーケット、中心の市場、先月グランドオープンした薬局に案内した。しかし、スーパーは荷が無いらしく、米も小麦もマーガリンも売っていなかった。2人はさぞ行く末が不安だと思う。貧弱な料理だが、私の日常食、炊き込みご飯を振る舞った。

 

火曜日。授業が始まった。まだ、休みから学校に戻ってきていない生徒も多かった。しかし、授業を進めた。近所の小学校の教員向け理科講習会の日程を話し合って、再来週に決まった。少しづつ、でも確実にできること、したいことが出来ていることがすごくうれしい。自分の能力で、自信を持って、人を幸せにできること。

 

水曜日。AさんもKさんも住居の改善にすごく積極的である。私は、一年弱過ごしたせいか、様々不満があっただろうが、適応してしまっている。雨漏り、ドアが閉まらない、床が抜けていること、洗濯機が壊れていること・・エネルギーがあるときにしか、人はやらない。これは真実だと思った。今の私は、それらが改善されたらいいなと思いながら、簡単に妥協してしまっている。むしろ、二人に満足のできる家を見せられなかったことが残念だったくらいだ。

彼らは州政府で働くという特権を活かして、苦情を伝えている。我が家を管理することになっているのは州政府のなのだ。自分はすぐに、とてもいい家に住んでいるよ、なんて言ってしまう。不満無きところに改善は無いということだ。

学校の音楽の先生に、バロック音楽のギター用の楽譜を見せたらとても喜んでくれた。バロック音楽がカリキュラムにあって、教材が無いから。しかし彼は、必要なときにコピーさせてもらいに行くからそれまで、持っていてくれと言った。自分の部屋は生徒が頻繁に入って物が無くなるからということだ。

 

2人はまだ何もしていないのに疲れてしまう、と言っていた。痛いほど分かる。何故か自分でもわからない。気候のせいか、言葉のせいか、価値観の違いのせいか・・とにかく私も食が大きくなったし、睡眠時間も増えたし、それでも体調が万全でないことも頻繁にあって・・・馬鹿にされるかもしれないが、2年間生き抜いただけでも立派なんじゃないかなと私は思う。

23/04/10 お喋り

金曜日。

昨日、木曜日。小学校の校長Mr.Wには約束はすっぽかされた。これを文化と言って納得していいものではないような気がする。

約束って守られないと不自由な思いをする。

昨日、PaitalaiからYさんが街にきた。久しい。現在マヌス島に日本人は二人。私と彼。

たくさん話すべきことがあった。

分科会のこと。

結局中止になってしまったが、まだ未来がある。これからどうやっていくか。年に2回の上京の機会のうち1回が7月にある。その時、理数科教師ボランティアは何ができるのだろうか。

 

活動全般のこと。

この島には飢餓なんてない。ストリートチルドレンもいない。皆が日本みたいになりたいと思っている訳でもない。責任も無く、のんびり暮らしたい人もいる。世界中にあると言われている発展途上国の中で、このPNGにやってきて・・ささやかな幸せを与える。モチベーションを保つのが容易ではないのだ。日本を離れて、頑張ろう!って思えるのは、自分の仕事が価値があると信じているからである。既に満足だと思っている人たちを、大満足にすることよりも・・今日生きるのにも苦労している人たちに手を差し伸べるべきだと思う。JICAの募集にはそう言う思想が見られない。「発展途上国」をひとまとめにして、同じ様に扱っているがそれでよいのだろうか?

Papitalaiの生徒が近年無かったような荒れっぷりらしい。生徒が授業に来ず、ドミトリーに籠ったり、ほっつき歩いたりしていると言うのだ。教師はいつも通り頑張っているらしいのだが・・。学ぶことを拒んでいる生徒に学ばせなければならない理由は存在するのだろうか。これは学校の在り方を問う、根本的な問題だ。教員志望の身としては、教師の質について考えを巡らせる。「いつも通り」でない生徒に対して、対策を取り、生徒に必要な資質(これが難しい)をつけてやるのが仕事。しかし、村に居る保護者は教育に全く関わろうとしていないのかもしれない。と言うか、寮生の場合は普段その場にいない。これは、日本の高校よりも教師の負担が大きいと言える。教育に対する責任が大きい。家庭や地域の関わりが無い。日本と比べて見えることもあるかもしれない。

 

その他

Yさんのウェブでの調査によって、私たちの今いるマヌスはアドミラルティ諸島と呼ばれるが、太平洋戦争時になんと3000人以上の日本人が亡くなった大きな戦場であったことが分かった。PNGの戦場と言えばラバウルと皆いうが、悲劇は至る所にあったのだ。この島にきた日本人の大多数は観光客でも、ボランティアでもなく、兵士だったのだ。しかもその大半がここで死んだというのが事実だ。だから、マヌスの人、特に年配の方にとっての日本、日本人のイメージは兵士になるのはものすごく自然なことなのだ。

 

 

Yさんは最近、体調を崩したりしたことも重なって、今しんどい思いをしている。ボランティア間の交流はほとんど無いため、他の国のボランティアがやっているように仲良しで集まって息抜きすることもできず、活動の意義も見出せなくなってしまったら・・。彼自身、少し中休み、と自覚しているようだった。

 

 

ずっと書けなかったが、猫、我が家でSさんが飼っていた猫が死んでしまった。その子は新隊員が猫好きか否か判明するまで、Yさんの家に引き取られていた。Papitalaiで彼は果ててしまった。私はまだ、どこかで好き勝手にはしゃいでいるんじゃないかと・・なかなか受け入れられないでいる。SさんにはYさんから伝えたということだった。私は猫をペットとして飼うことに初め抵抗があった。そんな私でも、その子はなつき、可愛く思えた。Sさんの居ないときは一緒に寝たりしたものだ。人の死以外は安っぽいものだから、人以外は何でも食べられるし、悲しむべきものでもない、それを悲しむのは本来日常であった動物の死に不慣れであるが故だと。頭でそれを理解したが、その子の死は、それまで音楽を作ろうにも、途中で必ず挫折していた自分を最後まで追い込むほどのものであった。彼の死は、私の中でずっと生きている。生命の価値というものが、考えれば考えるほど分からない。猫の死にうろたえながら、カスカスを食べる自分。気持ち悪い。でも、誰が何と言おうと、それを愛しく思い、それを失って悲しいと思える対象になり得る。それだけ、ただ生きるということが、劇的なものだということなのかもしれない。

まだ何も私の中で答えは無い。それでも今日も死の上に立って生きていく。

22.4.10

21/04/10 小学校

水曜日。

昨日、火曜日は朝からマヌス州政府に行った。最近よく家に来るMr.Kが教えてくれた、教員の能力向上を目的にした勉強会的なものをする1週間(PISTWeek) への講師としての参加を希望している旨を伝えるためだ。Mr.Kも一緒に来てくれた。彼は一緒に手紙を作ってくれたし、私の現在の活動に対する不満(グチ)も聞いてくれる。彼は教育学で修士号も取り、経験もある、私の大先輩だ。違う学校で働いていることが残念。

ボランティアが去って何がこの地に残るだろう・・私は何が残せるだろう。自分の今居る学校であれこれ、見て、考えてみた。理科の知識か?化学の教師は、自分の専攻を持ち、しっかり指導している。物理も、生物も然り。もちろん、地学のことなら、役に立てる。化学の先生も、物理の先生も、実験や測定を授業に取り入れてやっている。むしろ、自分がその指導に不安なくらいだ。語学面や指導能力の面で。これが絶対いいんだと言う教授法を自分は持っていない。せめてもの救いは私が居ることで、地学がこの学校の生徒が学べたことは幸いだと思う。それだって、良い授業かと聞かれたら胸を張れるものじゃない。しかも、私が去ったらこの講座は無くなるだろう。

何が残る?・・・その気持ちで、考えて、自分の能力とそれを欲している場所を探した。それが小学校だった。小学校の教師はどうも理科、数学の理解に不安があるらしい。何処に行っても。日本ですらその傾向があると聞く。日本での学生時代の小学校の授業補助のボランティアを思い出した。ここでもできることはある。そう言う訳で、小学校の教師を対象に理科、数学の講義を行うことにしたのだ。考えていたのは近所の小学校。それをMr.Kに話したら、マヌスの小学校教員、全員の前でやるチャンスがあることを教えてくれたのだ。教員の理数科理解向上がもし達成されれば・・それは、想像するとにやけてしまうくらいすごいことをやっている気がする。小学校の授業で、間違ったことを言わず、本当に大切なことが学ばせることに教師が集中出来たら、生徒がより良い授業を受けられたらいい。それは、自分が彼らの代わりに教鞭をとることより遥かに良い方法だ。何故なら私は教授法に自信が無い上、効果の持続も期待できる。みんな辞めなければ、きちんと職場で知識が引き継がれれば。

州政府の方々にはとても良い反応をされた。しかし、PISTweekがいつになるか未定という痛恨の知らせを受けた。例年なら次の第二学期終了後の休みの間に行われるのだが・・。お金が問題らしい。しっかりしてくれよ!

その後、自分の学校の校長にもその話をした。快諾してくれた。反対しないよと。道すがら、近所の小学校Pombrutの校長先生に出会った。先週の日曜日、彼は家に来るはずが、来なかった。彼は謝ることなく、忙しかったと言った。理解します。お偉いさんが来て大変だったでしょう。・・それで許される、謝らないのが、文化なのだろうか。と言うより、そこまで本気で考えられていないということを、自分は理解しています。と心で思いながら、学校の中に招かれた。

その日と翌日で教員にパソコン講座を行っているということだ。将来、パソコンを学校に買うつもりらしい。そこで、明日の集まりで講師をやってくれという、なんとも急な依頼を受けた。助手で良ければということで引き受けた。

 

水曜日。今日。朝から小学校に。教師に課題を与えて、各自にやらせる。パソコンは全部で7台。受講者も最大で6人。十分だった。自分に教えられることがあるのか、不安だったが、教えることが多すぎた。こうやったら表が作れますとか、クリックしないと動かないよ!とか、様々な難易度の疑問に対応した。講師のはずの校長は不在がちで、自分がそこに。文書やスライド、修了書、広告などを思い思いに作っていた。この知識が彼らの仕事の向上に繋がると良いのだが・・学んで満足が一番痛い。そしてありがちなケースなのだ。自分の講義(教員向け)も、そう言うことに気をつけないと。

明日、校長とデートだ。一緒にラウン(ぶらぶら)しようと誘われた。ちなみに、男性です。朝8時から。今少し後悔している。ゆっくりしたい病が襲いかかる。彼は8時に来るのだろうか?ここの人と約束をするのは本当に面倒だ。

このブログに浮いた話が出てこない。そういう話が嫌いな訳ではないのだが。小学校の教員は、平均して若い人が多い、そして女性が多い。少しドキドキしたが、この人きれいだなと思う人は、既婚者しかも子持ちだった。こちらの人、結婚、出産がすごく早い。そりゃ人口も増える・・。皆家族(ワントク)と暮らしているから仕事していても、誰かが(絶対無職の人間が居る)面倒を見てくれる。ともあれ、お陰で自分も仕事に集中できた。既婚者、男の居る女性に手を出すことは、本当に生命の危機を招くことだ。男女関係のもつれあいで、ナイフで切り合う、格闘しあうことは多いらしい。話せば分かる・・のだろうか。

真面目に仕事しよう。誠実に。

20/04/10 お偉いさん

火曜日。

一学期が終わって一週間の休み。全四学期のうちの一つ。

先週は色々あった。

国の教育のトップたちが、マヌス島にやってきた。教育省の大臣やら何やら。毎年何処かに行って、会議を開くことになっていて今年はここと言ううことだ。

先週の月曜日。我が学校の生徒たちに限らず州都ロレンガウの生徒は熱烈な歓迎をするはずが、大臣は飛行機の遅延のために遅れてきたために、翌日された。授業は無くなった。自分はこの企画にかなり否定的だった。何故マヌスに来るのか、理解できないからだ。その接待や航空券に消えるお金を考えても意味があるのか。教師も生徒も接待の準備、予定の変更に踊らされている。何故接待するのか?お偉いさんは会議を開き、我々は勉強する、それでいいじゃないか。教師にそう言う話をすると、教育に関心のある人はその場に居なければならないという。「教師はそこで何か意見を言うの?」「NO、眺めるだけ。そこに居て、私は聞きました、話したことを証明できる、証人になるために行くんだ。」・・・・・・絶句した。何十人、何百人もの証人が必要なのか?ただでさえ会場のマーケットには沢山人がいるのに。要するに、誰も、何も変えようと思わないんだ。「残って仕事しても大丈夫かな?」私は尋ねた。同僚は「事務所(JICA)の人が起こるんじゃないの?」と心配したが、それは杞憂。誰も私の一挙手に注目していない。「でも、君は大使なんだからね。マヌスの中で日本を代表しているからね、教育のことに関心がありますよ、って皆が君を会場で見れば納得すると思うよ。」この発想は自分には無かった。確かに、日本を背負っていると考えることは多々ある。稀だが、道でガキに中国人に間違われてからかわれたら、はっきり諭してやるようにしている。君らを助けるためにきた日本のボランティアだと。日本代表として、翌日会場に行くことにした。

 

翌日。火曜日。ロレンガウの広場と言えば、マーケット。ここで生徒は行進をしたり、伝統的な踊りを披露した。お偉いさんのために。今まで練習風景をちらと眺めていたが、本気の踊りはすごかった。各地の踊り、シンシン。マヌスのシンシンは激しくて性的アピールが強いと、PNGの各地を紹介する冊子に書いてあったが、自分には良く分からなかった。でも、今年、生徒が踊ったのはバルアン島という自分のかつてステイしたロウ島のお隣の島のものだ。バルアン、ロウ、パームというご近所3島のバロパ地区の生徒が我が学校を代表して踊っていた。何が言いたいかと言うと、知っている生徒が多くて、彼らがとてもかっこよく、美しく見えたということだ。

お偉い方はその後マーケットで演説を行った。去年の卒業式で知ったマヌスの大臣さんもそこで、歓迎のために演説を行った。少し彼に期待していた。「みんな教育に関心がある。このマーケットで働いているお母さんは、子どもの学費を稼いでいるんだ。でも、様々な問題を抱えている。それを何とかしてもらいたくて、マヌスは会議を誘致したんだ。」と。彼はブアイを教育大臣に渡し、それで、人々のと関わってくれ言った。人々の声・・自分は聞けているだろうか。大臣と数名のお偉いさんの話を聞いて、その場を去った。彼らの仕事が市場にあるなら、私の仕事は学校にある。山ほど。どんなに彼らの地位が高くても、子どもの学ぶ機会を数日に渡って奪っていいのか?そういう考えを誰かに持って欲しかった。

 

水曜日。授業は無かった。朝、全生徒に一学期終了が告げられた。昼には接待のための生徒を除いて、寮も空っぽになった。翌日木曜日にお偉いさんが学校に夕食会に来るということで、教員は準備を行った。自分は自分の仕事、次タームの計画を作っていた。帰り際、校長に日本の料理を作って持ってきてくれと頼まれた。・・まずいな。

 

木曜日、朝からその準備は始まった。豚一匹をムームーに。葉っぱに包んで、熱した石とともに地面に埋めるというPNG伝統料理。豚は葉っぱの水分によって蒸し焼きにされる。・・という訳で、朝そこに行くと、生徒が豚の皮を果物ナイフ剥いでいた。お湯をかけて、剥ぎやすくしながら。自分もやらせてもらった。自分のヒゲでも剃るかのように。豚は死んでいるようだが、聞くと、斧でおでこを殴って殺したらしい。すさまじい。全身の毛と皮を剥いだら、次は内臓を取りだす。初めて豚の解体を見た。生き物の体には隙間が沢山あることを知った。内臓もスープにするため、中身をきれいにした。一瞬気が遠くなったが、何とか立っていられた。このとき、尽力した農業の先生と助手の私2人は、運悪くそのスープを食べ損ねたが・・。そして、自分は夕方、に備えて下味を漬けておいた鳥を揚げた。唐揚げを作ることにしたのだ。Sさんは去る前にこの技を伝授してくれた。片栗粉も、調理酒も庭の畑の生姜も、彼が残したもの。それを持って夕食会へ。バロパの生徒はその露出度の高い服装で、お偉いさんが来るのを待っていた。教員も待っていた。州政府からのお客さんも。自分の家のお隣さんは州政府で教員の給料を管理しているおばさんなので、お客さんとして来ていた。ロウの子から写真撮ってとせがまれていたのを思い出して、カメラを持ってきた。美しい彼らの存在の証明を、今私がするべきだと思って、沢山写真を撮った。

そしてお偉いさんはやってきた。彼らは食って、話して、踊りを見た。本当に生徒は長い間踊っていた。その激しいステップ。ダイエット法になっていいくらいだが、長時間踊れるものではない。途中、休憩が与えられた。私はお偉いさんに、ボランティアとして日本から来ていることに感謝された。来日の経験がある人から日本の話などをされた。・・なぜ、学校の話をしないんだ!何のためここに居るのか、考えて欲しかった。私は、「ここで少しでも教育の発展に寄与するために最善を尽くしています」と述べた。そして、待機している生徒の方へ。大人たちは彼らのことを忘れている。「晩御飯は?」彼らには御馳走は振る舞われることは無かった。学校で生徒は当たり前のようにパシリにされている。その時も。普段教えていない生徒もそこにいた。「本当にかっこよくて、美しい踊りだね、今度教えてよ。」少し、その場で教えてくれた。意外に単純ですぐ覚えられそうだった。日本の話を聞いてきた。日本の人は時々、ものごとを真剣に考えることがある。だから自殺する人も沢山いる。もし、私が君なら、この無視されてるこの状況に怒ってるね。この待機の間も生徒は本当に呑気に時間を過ごしている。その時、遠くから声が。踊りの出番が来た。お偉いさんの見送りだ。

去年は特にシンシンを学びたいという気持ちは起こらなかった。頻繁に過去に居たボランティアは踊ったんだからと勧められたが、自分には自分の仕事があって、それを優先したかったから断った。彼らを知るためにと言うが、別に一緒に踊らなくたって、触れあうことはいくらでもできる。授業を、生徒を大事にしてれば。生徒と友達になる必要はない。生徒と教師としていい関係が作れたらそれが一番なはず。でも、急に踊りたくなった。別に生徒と触れあうためとか、そう言う思惑は無く、その踊りを踊れるようになりたいと思った。

勝手な大人たちの接待に駆りだされた生徒たち。別に彼らが天使だと言っている訳ではない。生意気なことはある。でも、彼らは子ども。大人が何か言えば、それに巻き込まれない訳にはいかない。

自分は何をすべきだったんだろう。

から揚げは喜ばれた。家庭科を教えている教師からレシピを頼まれた。

12/04/10 歌づくり

月曜日。

土曜日。耕した畑に、Pおばさんが用意してくれた種を播いた。ナス、トマト、チンゲン菜。新しい生命。畑、しんどいなと思っているが、少しワクワクした。

私は、歌うことが好きだ。ギターを弾くことが好きだ。日曜日は引き籠ってギターを弾いた。小学校の校長先生が来るというから待っていたが来なかった。ギターを使って作曲に挑戦している。断片だけが出来上がる。作詞も。なかなか完成しない。

中学校の卒業間際、好きだった子に歌を歌いたくて初めたギター。何故か高校では皆がフォークギターをかき鳴らすなかでクラシックギターを手に取った。言葉の無い世界、そこに一つの真理があるような気がした。部室で寂しくつま弾いてた頃が懐かしい。高校生になってお金を貯めて、自分のギターを買った。いつも自分と一緒だった。永遠の素人と言われたことも。でも歌うことも相変わらず大好きだ。地元のアーケードで、友達と二人で迷惑も顧みずに歌った頃が懐かしい。

先週の金曜日。放課後にギターの音が聞こえた。職員室で二人の教員がセッションしていた。ここにはピアノはなく、主な伴奏楽器はギターなのだ。なので、ギターを弾ける人は多い。学校の授業も使う楽器の定番はギター。朝礼のときの国歌の伴奏にも。私が部屋に入ると、一人が日本の歌謡曲、ナガ?チツ?シの曲を弾き語りしてくれた。かつてのボランティアが教えたらしい。そして、二人はマヌスの音楽や、懐かしい洋楽を演奏した。僕もお礼に、日本の人が作曲したものということで、昔覚えたオシ?コー?ローのしっとりとした曲を演奏した。PNGの人は落ち着いた曲は喜んで聞いてくれるのか・・ずっと疑問だった。が喜んでくれた。毎週ギター講座やってくれと言われてしまった・・。

残念ながら、今はクラシックギターの先生につくことはできない。仕方が無い。できないことももちろんあるが、出来ることは沢山ある。力を抜いて、耳を澄まして、練習曲を弾く。

その一方で、PNGで歌つくって、溜めて、道ばたでも、どこかの機会でも見つけて歌ってみたいと考えている。何故か。それは、将来日本でもそうしたいと思っているからだ。歌というのは、普段考えているけどなかなか言えないことがすっと言えたりする魔法を持っている。常識を疑われるようなすごくロマンチックな発言でも、真面目に言える。すごい説教くさいことでも、流れたりする(良くも悪くも)。本当に人に伝えたいことを、歌に載せることで、伝えられる。でも本当に伝えたいことが、誰も歌わないようなことだったら自分で書くしかない。もちろん人の歌を歌うことにだって、大きな可能性が秘められている。でも、自分で歌を作ることは自由だ。それゆえにとんでもないものが生まれる可能性もあるが。奇抜で無くても、万人に聞いてもらえなくても、立ち止まった人、共感してくれた人に何か大事なことが届く歌を作りたい。

もしできるなら、今、やればいい。日本に帰ったら、とか言わず。そう言う訳で、なんと今日人生で初めて、一曲の歌を完成させた。やればできるもんなんだな~。故郷の相棒に聞かせたいところだ。

人生最初の歌は猫に捧げた。絶対にその歌を理解し得ない猫に歌を捧げること、もう私の自己満足以外の何ものでもない。

11/04/10 挫折

日曜日。

この1週間で気付いたことがある。

日本にいたときに比べて頻繁に頭痛がやってくることだ。特に今週はずっと頭痛に悩まされた。これが標準状態だとでも言いたげに、ずっと改善しなかった。

学校は一学期が終わろうとしている。後半になって、病欠の教師が急増した。30人の教師が居て、最大一日で5人病欠がいた。自分は休んだ教師の埋め合わせを行った。自分が行かないと、誰も行かないからだ。

水曜、木曜には頭痛、熱に襲われたが、それでも授業は休まなかった。はっきり言って意地だった。そして今週から革靴で勤務することを止めて、通学は革靴だが、学校ではスリッパで過ごすことにした。足が蒸れて水虫に罹ってしまったようなのだ。普段はいいのだが、時々猛烈に痒い。オフィスではこっそり靴を脱いでいたが、面倒だった。ちなみに周りは靴を履いているときもあれば素足で歩いている時もあるといった具合である。意地出すところは意地出して、妥協するところは妥協する。

学校も大変だったが、分科会も。残念なことに、中止が決まった。開催予定日を今月末に控えてのことだ。事務所の援助を受けられなかった。学校の先生方は楽しみにしていた。・・大勢は日本のダンスや何か食べることを、一部は興味深い実験を見ることを。

この分科会に関する一連の出来事を振り返って、一瞬何かが萎えていくのを感じた。1月末からやれることはやったと思う。どうにもならなかった。

ではどうするのか、止まってこうやって落ち込んでいるのか。

よく思ったものだ。自分は何か重大な欠陥がもっていて、自分を含めて人を満足させるような仕事ができないようにできているではないかと。そういうときはとにかく誰かに甘えたくなるが、それをすると一時は楽だが、結局さらに苦しくなることを知っている。自分で自分を認めてあげるしかないんだ。どんなに仕事ができなくて救いようがなくたって、それはその人自身の価値を全く落としはしない。そう自分を慰めていたら、人にだって優しくなれる。と言うより、怒ろうという気すら起きない。

まず、小学校に謝りに行った。理解してくれた。自分たちでできることをやりましょう。ということで、自分がこの小学校で、教員向けの理科の講義をすることを提案した。Mrs.Kは日本に行った経験があり、日本をべた褒めし、そして言葉のことなど、私のことも心配してくれた。辛い経験があれば、人にだって優しくなれる。

自分の高校では、職員会議で全員に報告した。この職員会議、私は大嫌いなのだ。いつも予定時間に終わらず、生徒の授業時間が潰れる。会議もトゲトゲしい雰囲気の議論で、血が通っていなくて、出来の悪い人間はクズだと言わんばかりの攻撃をする。「お前が問題を作っているんだ!」なんて指をさして言われたら、誰だって傷つく。本当にそうだとしても言い方なんていくらでもあるだろうに・・。そして自分の番。予定の会議の時間ではもう5分しか残っていなかった。

JICAセッションはキャンセルされました。今、ボランティアは新しい試みに挑んでいます。全員集まってセッションを開くのには大きなお金が掛かります。このお金は日本の税金です。日本の人たちに納得してもらうために、それに見合う成果を出せるものをと努力しました。しかし、事務所の援助を受けることができませんでした。これからも開催に向けて努力を続けていきますが、今後いつ開かれるかは不明です。本当に申し訳ありません。

みんな理解してくれたようだった。誰も私を責めるものは居なかった。むしろその悲愴な顔は同情の念で溢れていた。

校長とは個人的に話した。「前回のセッションは大成功だった。皆楽しんでいたし、アウトカム(効果)も大きかった。」自分も分科会の効果について考えていた。アウトカムという言葉は・・難しいが、セッション前後で教員の仕事に変化がなければ、少し悲観的になるべきだ。

理想は高く。でも出来ることをやろう。もちろん、壮大な計画を立てることは悪いことではない。でも、もし援助が無かったときは無いなりにやるしかない。Sさんの言葉を思い出す。次の学期は小学校でも活動ができる。彼らは私の能力を欲しがっている。高校では、悲しいことに自分が授けられるものが無いように見える。ベテランで、きちんと大学で専攻を学んだ高校教師は、指導力も専門知識も私には申し分無いように思えるのだ。そんな自分の存在の無意味さを感じる状況だったから、分科会という起爆剤を欲した。それは不発だったが、新しい種を蒔いた。

分科会の方は、どうなるか分からない。数人とはメールでやり取りしていたが、十分煮詰まっているとは言い難い。企画の作り方から、変えていかなければならないと思う。挫折した。でもそれはまだ、成功してないと言うだけであってまだ自分たちは道の上にいる。まだ終わっていないんだ。半年後にでもまたチャンスはある。そのときに、これが成功だ、と言えるものが出来ればいい。PNGのボランティアがみな、目標を共有して働けたら、個人プレーのときよりもっとはっきりと、いい影響が出るはず。そのためには、やはりこの分科会を改善していかなくては。今から動き出そう。

辛いことはある。でも人は優しくなるために生きているのかもしれない。沢山辛い経験をして、優しさを人に与えよう。PNGに来て、いろいろあった。全て日本に帰ってから、配るためだ。世界中の人に配れるくらいの優しさをここで培って帰れたらいいのに。まだ1年以上ありますが。

4.4.10

04/04/10 お便り

日曜日。

週末に郵便局に行った。自分の私書箱を確認しに。

こちらの郵便物は各家に配達されない。郵便局にお金を払い、自分の箱(私書箱)を買って、それに郵便が無いか確認しなければならない。基本的に何も入っていないのだが、その日はなんと3通も入っていた。

ソロモン諸島(PNGの隣の国)で活動しているボランティアから。

ベナン(アフリカ)で活動しているボランティアから。

日本で必死に生きている友人から。

私書箱を空けるとき、たまたまそこにいた警備の人たちが、話しかけてくれたので、受け取った郵便を見せた。「これはアフリカ、これはソロモン、これはジャパン」と。「いいね~、すごい。」彼らは外国から郵便を受け取ったことなんてないだろう。日本だって同じだ。

場所が違えば考えることも異なる、いや、人が違えば考えることも異なる。それぞれの関心事は全く異なっていた。新しい視点を与えてくれる。この2年間という任期も確実に短くなってきている。自分の国のジェンダーはどんな状況なのか、任国外に出て学びたいことがあるのか、PNGでも日本でも必死に生きていられるということ。

アフリカからたった20日で届いていることに驚いた。日本に送っても同じくらいの日数がかかる。南米や中央アジアには数か月かかったりしたのに。どれくらいかかって届くか、もしくは届くか・・結構不安定なのかもしれない。すぐ届くこともあるし、何か月もかかることもある。届かないこともあるかもしれない。

一時期、電気(電圧)が不安定だった。勝手に扇風機が強くなったり、弱くなったり、蛍光灯がついたり消えたりした。日本では考えられないことは起こる。様々なことが「不安定」・・何かが突然やってくるというのが、ある意味規則なのかもしれない。

話しは変わるが、前回(22/03/10)に書いた「カスカス」は「クスクス(Cuscus)」であることが分かった。ソロモンからの切手に同じその動物の絵と名前が載っていて、英語の綴りが判明したのだ。ピジン語の綴りしか探ることが出来なかったからとてもありがたかった。自分の辞書に載っていた。なんとそれは有袋類だということも判明した。

01/04/10 イースターと哲学

木曜日。

今日は学校が早く切り上げられた。自分の授業はつぶれなかったが、同僚の一人がテストをやるつもりだったらしくすごく悔しがっていた。

分科会のことを小学校に打診するととても喜んでくれた。専門の科目ではないから、理科や数学に不安があるという。そのため小学校教員に向けての理数科知識や実験の紹介を行う計画でいる。

さて、学校が早く切りあがったのはイースターというキリスト教の中で重要な行事のためである。これのために金曜日と翌週の月曜日が祝日になっている。キリストの復活を祝うのだ。お隣さんに誘われて教会に。教会には夜たくさんの人が居て(多分500人くらい)外に溢れて窓から覗いている人も沢山いた。自分も外から覗いた。ずっとは多分聞いていられないだろうと思ったからである。日本でも、旅行先の韓国でも、PNGでも何度か教会に行く機会があったが、すごく疲労してしまう。緊張するからだし、あれこれ考えてしまうからだろう。

自分はキリスト教徒ではない。よく聞かれるが神道、仏教を信仰しているわけでもない。こちらの人にはヒンドゥーかとも聞かれるがそんなこともない。もちろん、何がしの宗教を背景に持った文化の中で育ったのは間違いないし、価値観のどこかにその影響を否定することはできない。「スタップ タソル(居残り)」という人がPNGの中で自分と近い。教会に行く人はまじめで、ちょっとアウトローは居残りで教会に行かないというのが通念になっている。自分の考えは宗教とは別に存在している。世界に対する解釈を自分なりに持っている。自分なりの思索で。

私は神を否定する気は全くない。自分の考えでは、自分が感覚で知覚できなかったり、科学観測できなかったりするものは存在しないと思っている人も、存在するに違いないと思っている人も同様に自分とは違う。「あるかもしれない、無いかもしれない」というのが自分のスタンスだ。今まで人間が復活するところを見たことはないが、もしかしたら一度くらいあるのかもしれない。死んだあとは「無」だと思っている人もいるが、実はものすごく快適な状態に移行するかもしれない。自分の死後、自分の意識がどうなってしまうかを経験した人は現在生きていないので分からないのだ。意識の正体だって良く分からない。宗教に対して強い抵抗を持つ人が多い日本だが、そういう人たちも同じくらい「信仰の否定」に固執しているようにみえるのだ。分からないということを自覚している。でも、こういう可能性もある・・って考えることは面白い。宗教のそういう世界観は豊かだと思う。

想像を超えるが、この意識の喪失、「無」かもしれない。でも、もしかしたら死と同時に目を覚まして「どうだった?俺の作った世界、結構面白かったでしょ?感動的だよね~。」なんて、変なおじさんに言われるかもしれない。感覚を失って、ずっと暗闇の中で意識だけが漂っているかもしれない。実は死んでしまった人たちが自分の全ての行動に注目しているかもしれない。死んだらいっぱいダメだしされてしまう。肉体を失ってもなお、肉体を持っているつもりでいるかもしれない。地雷で足を失った人が、失った部分の痛みを感じることがあるという話を聞いたことがある。

死ぬときに後悔しないことが目標。

今生きている世界との関係の断絶がある可能性はある。その世界には他者がいて、食べ物があって、自分の体もあって、ある程度自由に動けて、痛みもあるが、美しいものもある。こういう理解は言葉によって行われるが、言葉には表現されないような、何か大切なものだってあるかもしれない。とにかく様々なもので溢れているこの世界に生きる機会を得たから、それを大切にしたい。こう前向きに世界を捉えられるのは、よっぽど恵まれた環境に居たからからかもしれない。毎日空腹で、誰かに殴られて、明日の我が身も分からない人の見る世界は恐らく違う世界を知っている。世界は幸せで溢れてるなんて言ってもきっと理解されない。

生きるのに値する世界か、決めるのは自分。「価値」って価値観を持つ主体、価値を欲する人にによって与えられるものだから。だから、真に客観的な価値なんてそもそも存在しない。人は価値ある人生を求める。価値はあるものでなく、作るしかない。人は満足しようと必死なんだ。その欲求を認めたとして、自分をどういう世界に身を置き、その世界とどのように関わるかは自分で決められると思っている人もいるし、決められないと思っている人もいる。私は幸運にも生きるのに値する世界に近づけるために、自分が出来ることがあると思えている。

私は誰かに後ろめたさを感じることなく本気で笑っていたい。

そんな世界にしたい。誰かは近所に居るかもしれないし、地球の裏に居るかもしれない。

まだ未完の哲学だ。現実世界は自分にいろんな新しい問題をふっかけてくるからだ。まだ途中。でも・・ミサは疲れた。いつも、行ったらもう最後かな~と思う自分がいる。頂いた長い週末をのんびり過ごそうと思う。

エイプリルフールですが、相変わらずまじめでした。

31.3.10

29/03/10 畑

月曜日。

最近、お隣さんと畑仕事のことでやりとりしている。

もともとは去ってしまったSさんが隣人Pと始めた共同菜園である。自分はほとんど関心を示すことはなかった。正直学校のことで頭がいっぱいだった。土と会話する時間とエネルギーがあるなら、人と繋がっていたかった。畑仕事は見ていて楽とは思えなかった。

しかしSさんが去り、畑は藪になりつつあった。Pおばさんは「私たちの畑」と呼び、そこで収穫したカボチャ、ナス、オクラをくれた。ナスとオクラは食べないらしい。自分は何も働いていないのに。なんだか気が引けたので断ったが、分けるのが自分たちの文化なんだと、折れない。仕方なく受け取った。もちろん嬉しいのだけれど・・。

こういう気分をずっと続けるのも辛いので、一緒に働くことにした。藪を畑に戻さなくてはならない。Pおばさんと最近一緒に住んでるそのお姉さんが土曜に畑で働いた。おばさんたちは働こうとする私に「肌が弱いんだから任せなさい」と言う。耕す段階になったら呼ぶから、その時一緒にやろう。ということで待つことになった。めっちゃ甘やかされている。

日曜日にいつも通り、カレーライスを作った。具はいつも入る玉ねぎと豆に加えて、もらったナス、カボチャ、たまたま売ってたニンジンとジャガイモ。なんて豪華なんだ!肉は冷凍の豚肉。作ってPおばさんにもおすそ分け。

辛い料理が好きだと言い張る彼女曰く、美味しかったらしい。喜んでもらえてよかった。

22/03/10 カスカス

月曜日。

先週の土曜日。カスカスという生き物の燻されたものを買った。このカスカス、全長約30cm以上あるサルのような、ネズミのような動物である。燻製は、前面を首から下をまっぷたつにされて、内臓が既に取り除かれていた。体の中は木が差してあって、中が丸見え。彼は大の字を広げていた。そのままでも食べられそうだが、市場のおばさんたちは茹でて食べろと言っていた。すこしグロテスク。燻製は美味しそうなにおいであった。結局買うことにした。15キナ、大体600円。Sさん曰く、最近円が高いらしい。

日曜日。さて・・どうしたものか。まずは自分で分解してみた。皮を剥いだり、骨をちぎったり。最初は抵抗があったが、自分の中の野性に助けられた。腕や足は比較的簡単だったが、背中回り、肩の肉は薄く、ナイフで取るには限界があった。

腕など、大きな塊はカレーにした。薄くなった肉は炒めた。残った頭とか背骨周辺は茹でてみた。

炒めた肉は脂肪が少なく、固かったが、なんだか豚肉を食べているようだった。茹でたものは・・仕方がないのでかじりついた。カスカスの背中にかぶりつく自分のその野性。あばら骨から肉を貪る自分。まあ貴重な体験といことで。カレーはまあ、カレーだった。何を入れても大丈夫というのはこういうことか。しかし、固い。

一部の村では猫を食べると聞いた。Sさんの村人がSさんの飼い猫(やや太り気味?)を見て、開口一番

「グッペラ アブス (お肉(食用))」

と言ったらしい。さすがに共に暮らした猫にそういう感覚を持てないが、でも、猫も食べられるんだな~とカスカスをさばいてみて、思った。

日曜日の朝、Louでお世話になったJ(生徒)が家に来た。この生き物のカレーを振る舞おうと思ったが、彼は宗教上の問題でこいつが食べられなかった。SDAというカトリックとは違う宗派で、豚も食べられない。あらま・・。しかし、帰り際、カスカスの話をすると、彼は食べてみたい、と言い出した。「えっ!食べれないっていったでしょ?」そう思いながら差し出すと、彼は腕をちぎって、自分も初めてだと言いながら・・・食べた。しかも美味しかったらしい。

そんなものなんだな。

17.3.10

16/03/10 散髪(リベンジ)

火曜日。

先先週の日曜日のことだ。暑い。何かむしゃくしゃする気持ちを抑えられずに、髪を切った。PNGに来て4度目の散髪だ。

1度目はYさんに切ってもらった。それ以降は自分で。うまくいったか否か・・それは周りの反応で判断するしかしない。特に見えない後ろ側は冒険だ。世の中には器用な人が居て、櫛を上手に使ってお洒落さんになる人もいる。自分は面倒くさくてできない。前面だけいつも通り、しかし後ろは文字通り手探りだった。

今回はひどかったらしい。生徒が爆笑。心配して切りなおしてあげるという者も。同僚も次は相談しなよと言う。生徒たちには「観察」の重要性を語った。自分が何をしているか理解せずに何かをする危険性について・・。さらに他人の反応を観察することで、自分の見れない後ろ側の様子に見当がつくことも。

先週の金曜日。結局、放課後に生徒に髪を切ってもらった。

根本的に髪の質が現地の皆様とは違うので、生徒も苦戦していた。彼らの髪は立体的に増えていくアフロに対して、自分の髪の毛は伸びて垂れていく。側面、後ろは刈上げられ、上は残された。その境界は実に直線的で明瞭なものである。さっきまで紙を切っていたそのハサミで華麗な線が引かれた。今まで何度も恥ずかしい髪型を経験してきたが、今回もまた記憶に残るものになった。最高だ!という評判もあれば、大丈夫か?全部剃ったほうがいいんじゃない?という声も・・。とにかく言えることは物議を醸すだけのヘアスタイルであるということが分かった。こちらの警察官や軍隊の人がする髪型らしい。

せっかく切ってもらって、結局坊主にするのも何だか切ってもらった生徒に申し訳無い。しかし、切ってしまえという人は普段から気を遣ってくれる人たちで、本気で心配されているようにも聞こえる。

「ホワイトマンは皆ナイスな髪型をしているのに、Smileのはひどいぞ!」

自分としてはそんなに悪くないと思っているのだが。

14.3.10

14/03/10 Sさん

日曜日。

今日、同居していたボランティアSさんが任地を離れた。もう2年間の任期を終えたのだ。

彼は村落開発普及員として、パプアニューギニア、マヌス州政府に配属された。彼の2年間は決して平坦ではなかった。仕事をしても同僚の協力が得られないこともあった。しかし彼は自分の信念を強く持っていた。村に行ってプロジェクトを立ち上げた。しかし、決して企画を与えるのでなく、村人自身の問題意識ややる気を大切にしていた。

いつも彼の食卓にはいい匂いが漂っていた。私に幾つかの料理を教えてくれた。仕事の話で相談にのってもらった。彼の冷静な目線は夢見がちで感覚的な自分の考えに足りないものだった。全てにおいて無精な私だったが、とても可愛がってもらった。苦しいときは、大体彼に頼っていた。

そんなSさんも苦労なさっていたことは話に聞いている。最後まで実感が無いと言っていた。ずっとここにいたから・・。

金曜日の夜は、私と隣の学校のYさんと分科会の調整をしていた。PCMの勉強をするということで、実際に使ってみたのだがなかなかすぐにできるものではなかった。Sさんは真夜中3時まで付き合ってくださった。荷づくりで忙しいにも関わらず。

土曜日は、地元の方が開いてくれたお別れ会に呼ばれた。私もYさんも同席した。仕事で関わった方々も居たが、皆がSさんの仕事を評価しているようだった。自分のお別れ会でもただ祝われるのでなく、自分で料理を持って行った。いつも世話になるなら、世話をし返していた。借りは作らないように努めていた。

日曜日。嵐がやってきた。ずっと雨。風も強い。飛行機は来るのか心配される天気だった。そんな中、彼の知り合いが見送りに来た。彼は幾つものお土産を周りからもらっていた。愛されていた。

「一期一会」そのとき限りだと思えるから、出会いを大事にできる。そう言っていた。また新しい地でまた新しい出会いをする。その一つ一つに全力で当たっている彼の生き方は潔さを感じさせた。

自分とは違う・・。

彼に引き換え、私は過去に引きずられて生きているように見える。

私は過去の人間でなく今を生きている。色んな場所に居る私の大切な人たちはとても大切な思い出の一部である。思い出はとても甘く、美しくて、その世界に浸りたくなる。心の中の日本はとてもきれいで、温かい。

しかし、その人々は同時に今を生きている。彼らを止まった思い出にすることも、今を共に生きる仲間にすることもできる。私は、つい忘れてしまいがちだが、目を閉じるためでなく、目を見開き、世界を味わうためにこうして必死に生きているんだ。だったら、仲間たちと古き良き話をするのでなく、私たちの今見ているもの、今感じているものの話をしていないといけない。仲間たちは私の世界を大きく、豊かにしてくれる。私一人では気付かないことに気付き、見えないことを見て、考えないことを考える。Sさんはそれをもう一度確認して下さった。私はSさんのおかげで多くのものに触れた。

ありがとうございました。

その時を全力で生きる自分が再びSさんの前に現れることができたらいいと思う。

それまでお元気で!

7.3.10

07/03/10 国際協力と教育

日曜日。

まだ地学が時間割りに載らない。もう1学期の半分が終わろうとしているのに・・これでいいはずはないので、自分と生徒が空いている時間に授業を持っている。しかし、予定の内容をカバーするには時間が足りない。

 

毎週隣の村からYさんが街にやってっくる。分科会について話し合うためである。金曜日の夕方やってきて、私のバリエーションのない手料理を食べて、語り合う。夜3時まで話し込む。バスが日曜日は無いので、土曜の昼に帰ってしまうからだ。こんな生活がずっと続いている。私の作った企画書の足りない部分を補ってもらう。先週は全員に企画案の粗いものを作って送った。任地によってはメールを読めない人もいるのでファックスも使わないといけない。全員の意見を調整するのは楽ではない。もう全員が合うのは本番のみだからだ。

そういう訳で、金曜の夜からずっとパソコンに向かって企画書を作っている。今回の分科会は、今まで開催されてきたものと大きく異なるものにしようとしている。それは簡単ではない。

 

私は国際協力をするために派遣されている。PNGの発展を支えるためにである。お偉い方が、教育分野での援助が必要だと考えているから、自分を含めて10人が理数科教師として派遣されている。ボランティア一人一人は大義を考えずに教師をしていればいいのか?それは間違っている。大義、自分の目的を理解せずして成果は出せないからだ。成果とは要するに、目標に近づいたか遠のいたかということである。そして「教師をする」と一言で表しても、やり方は様々なのである。ひたすら生徒の進学実績を良くするために教えることもできる。そうやって働いているボランティアも居ると思う。日本みたいな学校にしようとして働くボランティアも居ると思う。それは、大義・・我々がすべきことと一致しているだろうか。

もっと細かく言えば、一つの授業の目的が決まらなければ、良い授業か否かも決められない。「実験はすべきである」というのは絶対的なものでなく、目指す教育に依存する手段なのである。自分は生徒が「よりよく」生きていけるように必要な力を付けること、彼らが「よりよい」国、世界をつくるのに必要な力をつけることを目標に授業を作っている。彼らが「よりよい」人生ってなんだろうかと彼らなりに葛藤して答えを見つける、でも多分ずっと考え続けなければならない。葛藤の過程には様々な力が必要だ。論理的に考えること、人の言うことをただ鵜呑みにしないこと、歴史から学ぶこと、本から学ぶこと、自然から学ぶこと・・。彼らが答えを見つけたら、それの実現のためにまた力が必要だ。説得すること、諦めないこと、ときには諦めて別の答えを探すこと、助けを借りること、自分で頑張ること・・。彼らが付けるべき力は沢山ある。そうと分かれば授業のやり方も変わる。授業以外にも方法があることも分かる。教師もボランティアも本当に目指したいものについて考えていないと、成果が出せない。この国の発展とは、高層ビルが立ち並ぶことなのか?日本みたいになることなのか?もしそうならそれなりのやり方がある。でも日本には日本の課題があって、真似するべきでないことも沢山ある。私は、PNGの人が、子どもたちが自分で目標を決めて、そこに向かって歩き出してほしい。一緒によりよい世界ってなんだろうって考えたり、その実現に向けて動く仲間になって欲しい。日本だってまだまだ。

実際、私たちボランティアの活動の成果と言うのは、陽の目を見ない上に誰も気にかけない。報告書は厳重に保管されている。働いて、無事に帰ってくれればそれでいいという具合。だれも評価しないから、自分たちできちんと「国際協力」するしかない。

 

ただがむしゃらに授業するのでなく、現場の抱える問題をきちんとみつめて必要なことをやってはどうかというのが今回の分科会のコンセプトだ。例年なら10人集まって、任地の人々を巻き込んで研究授業、日本文化紹介をする。今回は、村落開発しているSさんの使っているPCMという、参加型の問題発見、解決のツールを学び、使ってみようという内容を提案している。

この企画が通るか否か・・。自分の企画書に懸かっている。やってやる!

07/03/10 morning glory

 

「もうダメだよ・・限界だ!」

毎朝、ベッドの上で、そして朝ご飯を食べながら、シャワーを浴びながら、靴ひもを結びながら思う。

「こんなに辛いと思いながら、それでも自分は生きなければならないのか」

「誰か、タオルを投げてくれ!自分はもう闘えない。」

昔からずっと朝が苦手だった。早起きが出来ない訳ではない。毎朝6時前には起きている。全てから逃げ出したくなる。でも逃げたらもっと辛いと分かっているから逃げられない。こんなことを考え始めたのはPNGに来てからでなく、ずっと前、日本に居るときからだ。

「死にたくないから生きている」

私の友人がかつてそう言った。分かる。本当に良く分かる。死んでしまったらもう戻れないのが恐いんだ。その恐怖を越えたら人は簡単に命を捨てられるだろう。不可逆性の恐怖・・自分には越えられない。

今は、辛い。でもいつか来る morning gloryを信じているから生きている。あるのか、無いのか、分からない。でも、探さない限り見つからないそれのために生きている。どっかにこの生の意味があると信じて。無いと言った途端に終わる旅。しかし、どんなにしんどくても、壁に頭を打ちながら、その先に向かって飛んでいく。それが出来るのは、自分の変化、世界の変化を感じているからだ。自分は1年前の自分とは違う場所を飛んでいる。そして、そんな自分が見る世界も同じではない。いろんなことを繰り返し、繰り返し・・でも違う場所を飛んでいる。「生きることは変わることだ」、ある映画の原作で主人公が叫んだ。

morning gloryこの単語には大学時代の教職の授業で出てきた教材例の一つ「朝顔」のことを学んだときに出会った。それ以来、ただ朝を恐れるのでなく、毎朝それを探している。また朝がやってくる。それは今の自分にとって最も恐ろしい瞬間であると同時に、そのゴールへの期待の瞬間なはずなのだ。

まだ飛べる。そう自分に言い聞かせる。

2.3.10

28/02/10 スパムメール

日曜日。

スパムメールを自動配信する悪質なサイトの被害を受けている。自分の知人の名で招待メールが来た、軽率にもそれを信じ登録してしまった。その知人は既に被害者で、登録した直後、その後も自分のアドレス帳、履歴の中にあるアドレスに無差別にメールを送る。パスワードを変えても、そのアドレスを名乗ってメールを送り続ける。

全知人にごめんなさいというメールを送る破目になる。これはなんとも自虐的で、情けなくなる。PNGにまで来て、なにやってんだ・・当然自分を責める。そのメールを受け取ったときの歓喜はもう思い出したくない。しかし、もちろん自分の不注意が原因なので仕方がない。とにかく被害が拡大しないように努めるしかないのだ。自分の過失を速やかに認めて、対処すること。その大切さをその知人に教わった。

この場を借りて、関係者の皆様にもう一度注意を。

thousandsmilesを名乗る怪しいメールにご注意をお願いします。

14.2.10

14/02/10 熱さ

日曜日。

来客があった。Tという現在別のハイスクールで教師をしている男性だ。彼はかつてKaliと呼ばれるマヌスの真ん中、山の中の田舎の小学校で日本人ボランティアとともに教師をしていた経験がある。

彼はその後、大学に行き、特別支援が必要な子ども達への教育を学んでマヌスに帰ってきた。彼は使命感に燃えている。障害を持つこどもはこのマヌスにもいる。彼はそんな人々のために自分の知識を活かしたいということであったが、そのような施設はマヌスには無い。そのため現在近所にあるエレメンタリースクール(小学校低学年が学ぶ学校)にそのような場所を作ろうとした。しかし、エレメンタリースクールの人々は受け入れはしたが、協力は全くしなかった。Tに仕事をさせなかった。エレメンタリースクールの教師は学位を持っていないことが多く、大学を出て、指導者的な立場にTが立つことになる。これを職員たちは嫌ったとTは言っている。嫉妬。PNGではこういう問題がよく起こるらしい。

彼は仕事が出来ないので、Ecom high school(Grade9/10の二学年が通う学校)で教師をすることにしたのだ。

障害と言っても様々。外見ですぐ分かるものから、観察が必要なものまで。特に学習障害と呼ばれるものは、教師が注意深く一人一人に目を向けていないと気付かれることなく、ただ授業から脱落するということがある。自分には、実際多くの教師にもそのような生徒に対応する技術がない。彼の知識はきっと高校でも活かされる。Tは例えば目の見えない人を例に挙げた。

「目は閉じているが、脳が閉じている訳ではない。教師が適切な援助をすれば、彼らは学び、様々なことが出来るようになる。」

熱い人だった。PNGにも本気で生きている人がいる。それが嬉しかった。

そういう人には私も心からぶつかれるから。

自分の周りにはそういう人がいる。こういう人たちを大事にしたい。

13.2.10

13/02/10 頼みごと

土曜日。

あることを頼まれた。自分の作ったカレーを、かつて食べに来てくれなかったサッカーのチームメイト。夜中10時、眠ろうとしていたところ突然訪ねてきた。学校の修了証の偽造だった。明らかに違法行為。ダメでしょ。「日本だと捕まるけど、PNGなら誰も気づかないから大丈夫」と言う。警察になりたいから応募するのに必要らしい。彼は自分の甥っこの修了書を持ってきて名前の部分を変えてくれと言っていた。

「自分には出来ない。君が嫌いな訳じゃないんだけどね。」

今日、またあることを頼まれた。同僚のMr.P。市場でばったり。私を探していたらしい。Emailの送信だった。彼の話によると、携帯電話(この国ではかなり普及している)に、何かのクジのようなものが当たったというメッセージが来たという。何でもイギリスから。そのイギリスの人がMr.P(正確には彼の奥さん)の銀行口座の番号を知りたがっているから、それを伝えたいという状況らしい。メールで送るように指示されたらしい。Mr.Pは嬉しそうだった。私は詐欺では?という疑いを捨てられなかった。それを正直に告げたが、彼は大丈夫と言い張る。送ってくれという手書きの文面には本当に親切に感謝して、銀行口座が書いてある。前、銀行に行ったとき、銀行口座からなんと講座番号とサインだけでお金が下ろせた、という事実がある。(いつもはカードと暗証番号だが、現在カードは強盗被害時から紛失中)。やはりまずいと思い、番号を載せることだけは何とか思いとどまらせた。この島でネットを使っている人なんてほとんどいないと思われる、そんな島に居る彼らにウェブの世界の厳しさなんて必要なかったのだろう。しかし、グローバル化は進んでいて、避けては通れない道にある。誰でも信頼していいわけじゃない、やったらまずいことがある。

そういう知識はこの世界を生きるための一種の技術だ。海に浸食されつつあるLou島の村の人々を思い出した。勝手にやってくるこの波にいかに向き合うか、長い歴史、きっとこれからも心無いひとによってもたらされうる、様々な波にただ流されるのでなく、それに対して立ち向かえるような知恵を付けて欲しい。

 

一部の人の心の中に私が居るのだな、それは今は「便利屋さん」のように映っているかもしれない。でも、モノのやり取りと心の通い合いを区別することは簡単ではない。今朝、市場でムームータピオカ食えよ!、と売り手に差し出された。無料でいいと言う。この国、ある人が無い人に与えるのが当たり前。親切と気持ち悪い行動は紙一重という日本とは違う。当たり前のように親切に出来て、されたらお礼を言う。お礼をする。

Louの村人はよく知らない外国人である私を3週間も面倒み続けた上に土産まで持たせたのだ。Lou特産の鳥の卵。バスの中でこの卵は不運にも私の荷物を手伝おうとした男性の親切行為によって割れてしまった。残念だったが気にしてなかった。しかしその男性はそれから1か月後になんとその卵をわざわざ島から私に届けに来てくれた。

 

当たり前のように親切が出来るところ、PNGの好きなところだ。

12/02/10 Term 1 始動

金曜日。久しぶりに書く。

1月最終週から学校の教師だけ先に働き始めた。大体の教師はきちんと来て、今年から始まるという新カリキュラムにどのように対応するか話し合っていた。同僚のうち、理数科教師が一人去った。Mr.N、不満はお互いあっただろうが、一番話をしてきた同僚だっただけにさびしい気持ちもある。

ともあれ自分の授業数は2倍になった。再びgrade9の理科を教えるほか、Grade11のGeology(地質学)という科目を持つことに。実際は日本の地学にあたる。新カリキュラムによって増えた科目、前例も教科書も無い。うすっぺらい指導要領・・にあたるカリキュラム。しかしそれには方針が示してあるだけで、具体的に何を教えれば良いか書いていない。

「S(私)は地学を専攻してたんでしょ!じゃあ、きまりだ。」

これを引き受けたとして、多分誰も引き継げないだろう。知識も教科書もなければ、こちらでは授業は作れない。私から言わせれば、生徒用の教科書で勉強して、それで生徒に教えるのは勉強不足だ。僕の居る間だけのレッスンになる・・。長期的な学校の変化には貢献できないだろう。それでも引き受けた。数人でも地学を学びたいという生徒が居て、自分が提供できる。それで十分と思った。国全体を変えられないようなこと以外しない、学校全体を変えられるようなこと以外しないということも可能である。

目の前の人にとって、何かいいことが出来るならそれで立派だと。自分に自信のないことが山ほどある。教員不足について疑問を持っていることには変わりがない。しかし、自分は少なくとも彼らのような大量の授業をこなせないし、寮の世話や学校の運営にまでなかなか手がつけられない。彼らはそれをなんとかやっている。やり方、マネージメントに問題があるのかもしれない。でもそれを自分が改善できる自信も無い。

というのも、2月で学校が始まってもう2週間が過ぎた。

第一週は生徒たちが来て、登録、授業料支払いなどの事務的作業を手伝った。親御さんも生徒についてきたが、アルファベットが読めなかったりする人もいる。書類の内容をピジン語で説明。そしてここにサインして下さい。「サインが書けない・・・」。字が書けない、読めないと、政治家のひどいお金の使い方、教師の怠慢、新サービスの提供など、彼らの生活は届かなくなってしまう。

grade9の新入生には比較的すぐに授業を始められた。しかし、grade11は1週間以上授業開始を待たされた。それは時間割りが出来ていないからであった。grade11も新入生である。選択科目が多いが故、それをマネージできなかった。というよりまだ完成していない。1学期の学習計画を作った、そうとう余裕を持って作ったが、それでもこれだけ授業が無いと、現実に運用するのは難しくなっていく。

隣の高校のYさんが来て、今度4月にこの島マヌスである青年海外協力隊のPNG理数科教師の集まり、分科会について語った。沢山日本の教師が来るのだから、普段突っ込まないような本質的なことを現地の教師と共有する機会にしたい。首都では他の州のボランティア教師に「マヌスの空気はなんかすごい」と言われた。私とYさんにある問題に本気で取り組もうという熱さに対しての褒め言葉だと理解している。

24.1.10

24/01/10 帰任

日曜日。帰ってきた。落ち着く。

首都から帰ってきたのは金曜日。留守の間、Sさんの友人であるLに家のことを頼んでいた。変わらない我が家があった。初めはそう思えた。

しかし、バケツが一つないことにSさんは気付いた。Lは今朝使ってここに置いたというが、そこに無い。あらま・・と思っていると。Sさんはさらに靴が無い、シャツが無いなど、おかしいことに気付き始めた。私もよくよく探してみるとバスタオル2枚が紛失していることに気が付いた。この日、空き巣に入られたようだ。

カバン×2、靴、バスタオル×2、シーツ、シャツ、バケツ

さらに床下のバイクも荒らされた。かつて2回工具が盗まれている。

また犯罪被害だ。警察に報告しなければ。警察は来てくれない。自ら出向いた。現場を彼らは決して見ない。

犯行はLが家を出た10時から帰ってきた夕方4時の間である。我が家はフェンスに囲まれている。上にはトゲが付いている。このフェンスの入り口は2か所。我が家の前と現地人の隣人の家の前。隣人のほうの入口はいつも開いている。つまり私たちボランティアが施錠してもフェンスの中に入れるのだ。その次の防衛線は我が家の玄関。我が家は高床式。階段を上ると鍵のついたドアがあるが、このドア金属の格子なので、格子の隙間に手を入れれば内側からドアノブを回せてしまうのだ。普通の人にはこの格子の隙間に手は入らないが、子どもには可能。実際過去に近所の少年に入られたことがある。そういうわけで玄関に入られた。その結果そのスペースにあるものを持っていかれたというわけだ。幸運にも各寝室やキッチンなどは鍵をしていたため侵入されなかった。

報告後、家の周りを歩いてみると、フェンスの外に盗まれたもの全てが藪の中で、わざわざビニル袋に入った状態で見つかった。暗くなってから取りにくるつもりだったのだろうか。

「ダミー置いたら取りに来ますかね?」

そう言うとSさんはすごくやる気になって罠を作ろうと言い出した。靴などを入れたビニル袋を置き、それにブザーを仕掛けた。鳴ったら素早く作戦開始。SさんとLは戦うというが、私は弱いのでライトを焚いて写真を取る。

結局来なかった。

土日はゆっくり過ごした。庭の中の木々を隣人Pと切りまくった。外からよく見えるようにと。腕が痛い。夜は帰国が近いSさんの活動、村落開発普及のこと、それに用いる手法について話を聞いた。これは、学校でも使えないだろうか・・学んでみようと思う。「人間の安全保障」に関する本を読んでいる。紹介したいLou日記もまだ溜まっている。明らかに飽和状態だが、ギターを弾くことも忘れない。

明日から学校。長いクリスマスホリデーは終わってしまった。生徒はその1週間後からやってくる。この1年、モチベーションを維持するのに苦労しそうだが、人生にまたとない機会、やるだけやってみようと思う。きっと世界中の仲間たちも色々感じ、考え、活動しているんだろう。自分だけ停まっている訳にはいかない。

日本に帰って胸張って、「やるだけやった」と言いたい。

22/01/10 日本人、大集合

金曜日。

先週の金曜日から丸一週間、首都Port Moresby に滞在した。これは私が日本国際協力機構(JICA)の派遣するボランティアであるからで、年に2回、50人程度いるPNGで働くJICAボランティアが集って自らの問題や、活動における問題を共有する。

先週の金曜日。遅れる、ダブルブッキング。そんなことが平気で起こるPNGの飛行機らしいが、無事に乗れた、そして予定時刻に到着した。首都PoMには事務所、ボランティアのドミトリー、大使館など色々ある。私は離れた田舎から来る都合、毎日飛行機はないので、他のボランティアより一日早く首都にきて待つことになった。しかし、ドミトリーにはこの1月に来たばかりの新ボランティアが滞在していたため、全く退屈することはなかった。これからのPNGに希望や目標を持つ彼らに負けず、自分の夢を語った。彼らはなかなかハードスケジュールの中生活しているが、楽しそうにしていた。まだPNG三日目の夜だったようだ。

土曜日。事務所に行き報告書を提出。青年海外協力隊として活動するボランティアは2年間に5回ほど報告書を提出しなければならない。配属先の高校での活動をメインと考えがちになるような体裁が用意されていたが、私にとって、否、海外ボランティアにとって本当に大事なものは必ずしも配属先にあるとは限らない。私の場合、直前まで滞在したLou islandで見たものこそ「草の根」を謳う青年海外協力隊が注目しなければならないものだと考え、強調した。私たちが見たものが、国際協力に携わる人や日本に居る方々の知識となれば、私たちのここに居る意義がはっきりする。

この日からホテルに移った。ボランティアは50近く居るが、ドミには13しかベッドがないためである。高級感溢れる内装だが、金庫が使えなかったり、そのために荷物を預けたら二日間取り出せなかったりと、色々不便だった。他のボランティアと相部屋なのでひたすら話し続けた。

日曜日。懇親会ということで、パプアニューギニア大学のグランドを借りてソフトボール大会が行われた。集まったボランティア、JICA事務所で働く方々で和気藹藹と汗をかき、曇り空にもかかわらず皆さん顔を真っ赤に焼いていた。

 

月曜日。総会が開かれた。ボランティアの生活改善がテーマらしかった。ドミ管理委員の長になってしまった。みなさん、人の気持ちになってドミトリーを使って下さい。私は自分がPNGに来たばかりのときに、ドミの生活が辛かった記憶がある。右も左も分からない、買い物したくても危険だから出るなと言われ、先輩隊員が来ると、居場所が無い・・。しかも事務所でひたすらオリエンテーションで時間も無い。そんな訳で、後輩隊員に愛を持って接して欲しいという願いがずっとあった。

 

火曜日。ボランティアの活動の報告会も開かれた。PNGに来て大体一年経過したボランティアが現状を報告した。ボランティアには私のような若い人、青年海外協力隊もいればシニアボランティアと呼ばれる別枠でボランティアに来ている方々の居て、同じ職種の人たちの中でも貴重な情報交換が行われた。全く違う職種でもこの国の状況理解の助けになった。病院や保険、医療関係の省庁で働く人の話は、豊かだと思っていたPNGの影を感じた。乳児死亡率が高い(U5MRが65%)こと、マラリア(540万人、全体の87%が汚染地域に住む)、結核の被害が深刻であることは開発途上国であることを改めて認識するに十分だった。マラリアによる死者の数が、PNGの報告(約630人)と赤十字の報告(約3000人)で大きく違うことも、調査が出来ていない現状があると考えられる。

私の居る国パプアニューギニアはJICAがボランティアを派遣している国の中で最も危険な国とされている。それはJICA関係者の犯罪被害件数、犯罪遭遇率ともに最も高いというデータに基づいている。要するに治安が悪いということだ。実際現在いるボランティアから犯罪被害の報告を聞いた。顔面や後頭部に怪我をされて、見るからにとても痛々しい方にお会いした。訳も分からず集団暴行を受けたという実例や真夜中に家に侵入されたという実例を聞いた。私の島に居ると分からないが、この国は間違いなく危険なのだ。50人のボランティアが全員男という他国に例がないこの状況からもそれはうかがえる。

この安全対策の会議の翌日、水曜日。朝に私ともう一人で人通りの多い道を歩いていた。すると突然すれ違った男に腕を強く掴まれ、停車中の車に後ろから押しつけられた。

Bag, bag.

人生で初めて強盗にあった。周りにこんなに人が居るのに誰も反応しない。3人に後ろから囲まれた。私は肩にかけていたバッグから財布いを出し、速やかに渡した。しかしもう一人のボランティアは殴られた上で、パソコンや電子辞書など貴重品の入ったバッグを丸ごと奪われた。周りは「何があった?」「怪我はないか」「かわいそうに」「警察に行きな」・・などなど様々な言葉をかけてくれた。しかし、後の祭り。とりあえず事務所に行って報告。警察署に行って報告。銀行のカードを止めた。幸運にも生きている。だから言えることだが、私は学んだ。もっと気をつければこのような被害は減る。私は明らかに用心が足りなかったと思うのだ。もっと周りを見る。早足で歩く。この街は危険だと自覚して、それらを実践していれば違ったと思う。自分の居る田舎の島とも、日本とも違うのだ。自分のポジティブな考え方に驚くが、次から気をつければいいと思う。死ぬような大事件に巻き込まれる前に貴重な体験をしたのだ。実際現場のすぐ近くの中華料理屋に銃を持った強盗団が入って警察と銃撃戦を繰り広げたばかりなのだから。つい数日前に12人の凶悪犯が脱獄したばかりなのだから・・不幸中の幸いなのだ。

銀行に行った後、気を取り直して、分科会に出席した。分科会とは同じ分野で働くボランティアの集まりである。私の場合、理数科教師の分科会に参加した。毎年どこかの学校に行って行う勉強会的なものについて話し合った。かつて私の配属先のManus Secondary Schoolはこれのホストだったことがあり、その報告書を読んだことがある。私は強い反感を持っていた。授業参観、理科実験の紹介、日本文化の紹介を行ったようだった。主な目的が「ボランティア同士が学び合うこと」であるということであった。理科実験はただの見世物であり、どうやって授業に取り入れるのかという考えなしのものであった。日本文化はウケた。その結果、同僚や生徒の記憶は「面白かった」「ジャパニーズダンスは最高だ!」に終始する。だが、彼らの勉強、仕事に何も変化を残せていないのだ。・・このようなものに自分の全力投球しているものを邪魔されたくなかった。今回の会議では、そのような話に本気でぶつかれた。現地の教師の方に「学んでもらう」ようなものを目指すことでまとまった。それならば、と思い私は今年の「勉強会」を自分の任地でやることを提案した。これはとてもエネルギーがいることだと、常々言われてきた。出来れば自分の学校は避けたいという空気が蔓延していた。私の学校は経験がある、誰かがさせられるよりも負担は小さいだろうと思った。そしてなにより、自分一人での活動の限界を感じていたからだ。これを機会に配属先に何かもたらすことが出来ないか、という淡い期待からである。

私のことを「何でも積極的にやる人」と思う人がいるかもしれない。実際、そんなことはない。私は変わったと思う。みんなが「みんなのために」働く場所に出会えたからだ。自信はまるでなくても、周りが自分を支えてくれた。そのような場所なら仕事を引き受けることが恐くないということを経験してきた。今それを確信しつつある。大学時代、日本での訓練期間に私を支えてくれた人が、私を走らせているのが分かる。

夜は大使官邸に食事に招待された。立派な家、玄関には大きな菊の御紋が。美味しい料理を沢山御馳走になった。しかし、帰ってから頭痛腹痛とひどい下痢に襲われた。夜1時間おきに目を覚ましお手洗いに駆け込んだ。コレラを疑った。翌朝熱を測ると37.8度。そんななか健康診断に行き、5時間待ちを食らった。マラリアもチェックされたが陰性。抗生剤を処方されたが、様子を見るうちに回復した。

こうして、気が付けばもう金曜日。任地マヌスへ帰る日だ。同任地の隣の高校のYさんはオーストラリアへ行く。彼に2通の手紙の投函を頼んだ。青年海外協力隊は2年間の間に、特別な理由がない限り日本に帰れない、隣国など限られた国への出国は認められているが20日まで。その制度が変わって、日本に帰れるようになった。任国外の旅行も年間20日、つまり2倍になった。

日本が近くなった。沢山の日本人に久しぶりに会って・・・恋しくなった。帰りたい、でも2年間必死に頑張ってみたい。心が渦巻いている。

PNGが嫌いなわけではない、でも将来住むなら絶対日本がいい。今は豊かだが、日本が貧しくなるかもしれない。それでも日本に住み、日本を見捨てたりはしないだろう。好きなんだ。これが愛国心というのだろうか。

21.1.10

21/01/10 上京

木曜日。現在首都、Port Moresbyにて日本のボランティアが会議や健康診断を行っている。

首都の事務所のネット環境は非常に良い。

多くの人が集まって様々な情報交換が出来る。

首都でしか買えないものを買う。

やりたいことは沢山あって忙しい。今回、このブログに写真をアップしてみる。

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上の3つはマヌス本島、私の住むLorengauの街。左上は学校から海を眺めた風景。小さな街だ。

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これはハワイ島の海。きれいな海、以外に何もないのだ。

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Lou island の写真。左上は村と村の間、ハイウェイと呼ばれている道(?)。右上は新年のパーティーのために放し飼いの鶏を捕まえるところ。左下はおばあちゃんがムームーという伝統的な焼石で行う蒸し焼き料理が完成したところ。右上は地熱ふ化を行う鳥の卵を掘りまくっているところ。大きな穴。

paradiseと呼べるか否か、それは今後の生き方に懸かっている。写真を通してみせるPNGの一端である。もちろん、全てのPNGがこんな感じという訳でもない。

書かなければならないことがとても溜まっている。忙しい。

10.1.10

13/12/09 LRTの準備

日曜日。Lou Island Ragby Touch (LRT) なる大きなイベントが控えていた。PNGはオーストラリア領だった歴史もあり、ラグビーが盛んである。オーストラリアのプロリーグの中継もやっている。もちろん、この村にはテレビは無いが。Touchとはタックルの代わりにタッチで済ませるラグビーで、ケガをせずに済む。そして何故かこの辺境の地で、ラグビーの大きな大会が催されるのだ。それはわざわざ首都や他州の都市からチームが集まるというのだから、驚きである。この村Solangからもチームを出す。ここにはこの島唯一のラグビー場がある。つまり、Solangが会場になる。男らは朝5時に起きて練習開始。自分は何度も鶏に起こされながら6時半まで眠った。

朝起きて洗濯させてもらった。街では水浴びは一日2回する習慣が付いていたが、水が少ない今、そんな贅沢は言えない。朝は歯磨きだけ。PNGの人が歯磨きするのを見たことがない。その代り彼らは、ブアイの実の皮や、木の枝、はたまた一度は包丁で歯をきれいに磨いたり、削ったりしている。ブアイは噛んだ瞬間は歯がシャキッとして歯磨きの後みたいな感じになる、たった2回やっただけだが、一応分かる。でも、こっちの人の歯は真っ赤になっていたり、ボロボロだったりする。Jのおじいさんは歯がほとんど無い。

口内炎ができた。臀部にはれものも。靴ずれも。しかし、一番困ったことはサンドフライと呼ばれる1mm程度の小さなハエ。こいつが噛む、吸血するととても痒い。たまらない。足首と腕が集中的に、肢体に40か所以上。寒いより暑いほうがいい。きちんと水を飲んで、影に逃げれば死ぬことはない。そう思っていた。しかし、こういう虫たちのせいで肌がぼろぼろになり、汗もかき、膿みやすい。病人みたくなってしまう。暑いのも困りものなのだということを理解した。しかし、タウンでは被害が無かったのはなぜだろう。とにかくJに見せると赤ちゃんの肌だと言われた。練習後朝ごはんを食べた。

Jの祖父母の家は海から100m位離れた少し高台にある。おじいちゃんはサンドフライが大嫌いで、こいつから逃れるために砂浜に行く。砂浜は北西に向いており、この季節は強い西風が海から村に吹く。この風をおじいちゃんは受けて、ハエから解放されるのだ。

日曜日は普通に働ける。Solang村は砂浜とジャングルに囲まれている。そのジャングルは10m以上もあるココやしに覆われている。その中で男らは木を切っていた。LRTのオフィシャル用の建物を作るための木材を切りだしていた。2台のチェーンソーがけたたましい。20人弱の男が居たが座っているだけの者も居た。耳の聞こえないJの叔父、Tは周りに指示を出していた。Tともう一人の伯父であるDはこの島で初めてチェーンソー使いになった人間らしい。もう一人耳の聞こえない男性が居たが、彼も上手にチェーンソーを使い、指示を出していた。他の男らは交代しつつ木を切る。中には慣れない手付きの男の子も結構いて、指導を受けていた。「まっすぐ、傾けるな!」 Tはジェスチャーで右だ左だと示す。座っている男らは騒音の中でジェスチャー混じりで喋っている。陰口が大好きだ。まさに汗だくになりながら、真剣に木を切っている男の子が上手にできなかったりすると「アイツはダメだ、マリファナの吸いすぎだ。」と後ろで話している。くるくるパーと頭がおかしい、とでも言うように。ときにそれは悪口の応酬、口喧嘩になる。なんだかな~。自分も何か手伝いたかったが、周りも必死に私に怪我させないようにしてくれる。とりあえず、チェーンソーは難しそうだ。観察していると、Jは自分にできる仕事をやっていた。木を測って印をつけたり、切り口に溜まる木屑を掃いたり。座ってだべっている人たちより賢そうだった。少し嬉しくなった。そして私もそれを手伝った。チェーンソーが線を見失わないように掃いて助ける。邪魔しないように。なんか餅つきを2人でやるときの感じだ。チェーンソーの動きも近くで見れる、こうやって観察して、Jも木が切れるようになるのだろうか。途中で見ていた人が代わってくれた。私は休憩。周りの座ってる男の中には小学生低学年のような子どももいる。ただ見にきている。彼に私のノートをちぎって折り鶴を作って見せた。すごく驚いていた。プレゼントすると、彼は鶴のしっぽをつまんでジャングルを歩きまわった。鶴がジャングルを飛んでいる・・とても新鮮な風景だった。鶴は少年とともにTのところまで飛んだ。Tはその少年が見せる鶴を首をかしげながらみつめた。少年は私を指さす。「鳥だよ」と両手を広げて羽ばたかせてTに示した。彼は理解したが、不思議そうに折り鶴のしっぽをつまんで眺めていた。熱帯林のなかで。

その後、男らは午後のトレーニングをした。私はその横で少年らとサッカーをした。日本で教わった技をみせたらサッカースターと言われてしまった。楽しかった。そして、暗くなり、水浴びをした。エイドポスト(薬剤庫)にあるタンクの水を使った。共用タンクになっていた。ここにかつて日本人のドクターが居たらしい。長居したというよりは何度も来ては帰ったということだが、何かの調査だったらしい。しかし、医者として人を助け、さらに彼は村のみんなの名前を覚えていたらしい。やはり、名前を覚えるというのは大切なことだ。

こちらの島のトクプレス、英語が来る以前からある言語、は当然よく使われる。私は共通語ピジン英語を使っているが、ここは村。そういう訳でいくつかのトクプレスのフレーズを教わった。

トクプレス = 日本語 =ピジン語

ウロ=ありがとう =テンキュ

ピヤン=いいね!=グッペラ

ウロ エ コン ファンゲ=私の食事に感謝します

=テンキュ ロン カイカイ ビロング ミー

パリベン=おはよう=モニン

プウェップ=こんにちは=アピヌン

キャリベン=こんばんは=グッナイ

チョンギシム=おなかいっぱいです。=ミー プル アップ

ティーベン ウォンガビエーン ジム =明日ジム(産卵場所)に行きます

=トゥモラ バイ ミー ゴー ロン ジム

ワ メ=来なさい=ユー カム

カタカナだが、RとLは使い分けているし、-nと-ngも使い分けている。祖父母の家は基本これで会話しているので、聞き取れない。最初にウロ エ コン タピオク というフレーズを男の子らに言わされたが、J曰くこれには卑猥な意味があるらしい。私がこれを言うと老若男女が喜ぶ。

5.1.10

12/12/09 火山とLouの人々

土曜日早朝三時・・目が覚めた。鶏が鳴く。early bird。早い・・早すぎる。辛かった。何度も寝起きを繰り返した。6時に明るくなり始め、起床。Kは眠っていたが父親はもう居なかった。少し散歩した。崩れた崖、見える火山噴出物の地層を見た。この島は黒曜石の産地として有名なのだ。ここの黒曜石が南太平洋の離れた島々の古い文明の痕跡からみつかるそうだ。黒曜石、それは天然のガラス。かつてその鋭利さから槍の頭や矢尻として使われていたらしい。かつては武器商人とでもいったところだろうか。

歩いているとあちこちに落ちているのを目にする。しかし、その崖が見せる降下軽石堆積物に黒曜石は入っていなかった。火山噴火とザックリ言ってもその様子は様々。ある時は噴煙をあげ、高温のガスと塵と共に大量の軽石を大空にまき散らす。小さな灰は漂い続け、比較的重たい軽石が先に地面に落ちる。地層の中で同じ重さの粒子が仲良く一緒に居る。地層をみるとこういう物語が編める。これらが空から降ってきたというのが分かるのだ。これが淘汰だ。そして黒曜石は噴火すれば必ず出る、というものではないということが分かった。ある特定の噴火で大量に噴出したのだろう。

散歩を終えてKの家に戻るとKは起きていた。朝、Kとその友人二人とともにSolang村へ出発した。自分が首都で買った地形図にもはっきり道があった上、村人も「ハイウェイ」があるから問題ないというので安心しきっていた。彼らは私の荷物を手伝ってくれた。ハイウェイ・・舗装はもちろんされてない。しかしかつて車が通ったのではないか、という轍のあとのようなものが見えた。Reiの中では。話によるとかつて車が走ったらしいが、現在この島にはもう車を持つものはなく、道は何十年も前に歩行者専用になったようだ。村からでるとけもの道だった。しかし、畑がところどころ広がっている。実はこの島ほとんど開拓され畑になっているのでは、というくらいだ。畑、自給自足。と思いきや、カカオを栽培している。この島、火山の恩恵らしいが、土壌がかなり良いらしくManus本島では育たない様々な作物が立派に育つらしい。カカオは栽培して業者に売るらしい。本島の土は貧弱赤い粘土だと人は言うがLouは特別らしい。SさんもLouの農作物は本島より立派だと言っていた。

しかし30分あるくとジャングルになった。そして一時間歩いてSolangに到着。最初に聞こえたのは教会からという発電機、モーターの動く音だった。今日、土曜は礼拝の日なのだ。SDAというキリスト教の一派の特徴だ。LouはSDAの島なのだ。そう言う訳で、村人の多くが礼拝に行き、ほとんど人が居ない。若い男らだけが残っていた。不良グループといったところか・・そういう話を聞くなかでJに出会った。彼は礼拝に行ってなかった。驚いていた。

Kは少し休んですぐReiに帰った。雨が降りそうだからと。非常にタフな奴らだ。感謝感謝だ。さて、Jはボートが無かったために私をタウンまで迎えに来れなかったことを詫びた。私は良い経験が出来たと少しも気にしなかった。

この日の午後は、散歩という名目で地面で水が沸騰しているという沼へ連れて行ってくれた。土曜は信仰の日で、働くこと、魚を釣ること、畑で芋を掘ること、料理することが禁止されているのだ。Jの友達八人前後と向かった。途中、Wild fowlと呼ばれている鳥の産卵場所に連れて行ってくれた。30分くらい歩いた。地面が穴だらけだ。それにココやしの葉が人為的に柵がしてある。穴を人々が所有しているのだ。そこにわざわざその鳥は産卵する。ただ産卵しない。親鳥は1メートル近く掘って産み、また埋めるのだ。親鳥は温めない。なんと地熱でふ化させるのだ!なんという怠け癖。そういうわけで卵が地中に放置されるのだ。火山ならでは。それを人々が掘り返すというわけだが、今日は土曜。残念だが、説明だけ。

その後沼へ。ボコボコ音を立てて沸騰したお湯がガスとともに噴き出している。地面は酸のために変質し、赤色白色の粘土に覆われている。その部分には植物が育たない。沼の水と混ざるところには酸や高温に耐性のある生物が繁茂する。コケのようについている。男の子たちも危険であることを知り、列を作ってあるいていた。地面が抜けたら最後、100度近いお湯に足を突っ込むことになる。・・彼らは素足だが。

帰り道、昼食を食べていない私を心配して道(と言ってもジャングルの中だが)になっている果物を取ってくれた。みかんと大きなピンクグレープフルーツ。みなで美味しく頂いたが、本当は禁止されているのだ。土曜だから生ってる果物も採ることができない。SDA・・たばこ、酒、ブアイがだめ。不自由に聞こえる。仏教と神道が混在しているという話をした。寺と神社があり、多くの人がどちらにも通うことはしないと。・・日本は10年くらい前に週休二日になったがそれまで土曜は働く日だった。PNGは?と聞くとずっと週休二日制だったそうだ。理由は簡単、ある人(SDA)は土曜、ある人(その他、主にカトリック)は日曜に教会に行くからと。教会。SolangでもReiでも一番立派な建物は教会だった。ブアイやたばこを悪しきものと思っているのは私も同じだ。しかしそれは、宗教によって語られないとやめられないのか。学校教育もこの国はキリスト教道徳に依っている。

帰ってから学校を見た。学校は休暇。私は自分が学校で働くかぎり、他校の生きた姿を見ることが出来ないのだ。そこに小さな人だかりが出来た。私が珍しいのだ。そこにその学校の教師も生徒もいた。色々聞いてみた。エレメンタリースクールではGrade1,2が学ぶ。それは植物を編んで作った家で、中に机が無い。プライマリースクールはGrade3から8までが学ぶ現在4・5・7・8が学んでいるらしい。Grade3と7は、今年は無いらしい。つまり3年に一回、生徒は入学できないのだ。教室が足りないかららしい。なぜ自分の学校で年齢と学年が一致しないのか、謎が解けた。不運な子どもは一年待たなければならないのだ。一つの教室で2つの学年が授業するようだ。教師には年配の人もいるようだし、かつて私の勤めるセカンダリースクール(高校)を3年前卒業し、教員養成校で学び、今年から新人として働いている教師もいた。彼は別のかつていた日本人ボランティアの教師を知っていた。全科目教えるのは大変だ。この国、小学校の教師は高校教師に比べて格下というイメージが蔓延している。資格の面でもそういう扱いを受けている。残念なことだ。とにかくこの村の教育に関して問題があることは間違いないのだ。教師の人数なのか、教室の数なのか・・州政府の方針なのか、国の政策なのか・・原因は分からない。

その後浜辺のハンモックでゆっくりした。歩きまわったのと寝不足のため眠ることに努めたが、常に話しかけられるためそれは阻まれた。日本のこと、私のこと。日本の森は同じか?言葉は?都市は?自分自身日本人でありながら無知であることに気付く。砂浜には木が生えている。波が木の根を削り半分浮いていたりする。波打ち際にココやしの木の根の跡だけが残っている。かつて、10年前は浜は10メートル先にあったらしい。今ハンモックでくつろいでいるところは小さな森だったらしい。海が迫ってきている。波とはそういうものだ、浸食するものなのだ、それをどこかに堆積させる。日本の砂浜も同じ危機に面しているのかもしれない。しかし、こんなに強いのか?私は現在詳しいことが分からない。私の頭の中で気候変動という言葉が頭をかすめた。早急ではあるが、まず影響が及ぶのはこういうところなのだろう。工業に代表される人為的な活動が原因だと認められつつある環境変動の影響が、それと全く無縁の生活をしている村の浜辺を直撃するのは、非常に不条理なことだと私は考える。村人、特に高校に行くような人は環境変動という言葉を知っている。しかし、彼らがどうするべきか知らないし、知ってもどうすることもできないと思っている。もしこの島の人が環境変動に加担した人々を訴えることが出来るのならば、そのような裁判所が存在するならば、賠償を要求できる場所が存在するならば、と思ったが、現在夢物語である。この砂浜でぼーっとする、ゆっくり暮らすこと。それは一つの幸福の形だと思う。しかし、それは外から脅かされうる、とても繊細でもろく、何の保障もされていないものなのだ。この暮らしを守りたければ、自衛するための力が必要だ。外の世界は思っているほど親切でないのだ。自ら守るしかない。別に国のためでなくてもいい、男の子たちが、この砂浜を守るために勉強してくれたらいいと思う。ペンは剣よりも強し。

夕方Jの家へ。両親は他州で働いていて居ない。そのためおばさんと同居している。しかし、実際祖父母の家に多くお世話になっている。祖父母は5人の子供を持ち、そのうち3人が出稼ぎに出ている。残りの2人がSolangに残っている。残った二人、両方とも耳が聞こえない。この村、たぶん200人もいないと思うが、6人は聴覚障害者がいる。タウンに比べて明らかに遭遇率が高い。タウンには障害者の居場所は無いのだろうか。

晩御飯は茹でたカウカウ(サツマイモ)、タピオク(キャッサバ)、さらにタピオクのケーキ、マリタという植物の種からとれるクリームを混ぜたもので、真っ赤だった。

 

2週間近く雨がなく、水不足らしい。

11/12/09 Rei village

金曜日。夕方4時半、私はボートに乗った。波のせいでボートが跳ねる。お尻が痛い。酔っ払いが隣に居て絶えず話しかけてくる。風もあるので聞き取りずらいがお構いなし、耳元で大声で喋ってくれた。ボートの人間が全員Louの人間。当然、皆私のことを不思議がる、興味を持つ。日本からボランティアで来ていること、村の暮らしに興味があってきていることなど話した。

酔っ払いはかつてLouにも日本兵が来たことを教えてくれた。そして彼は日本兵が村を壊したからお金をよこさないといけないと主張した。

日本の軍隊がかつて太平洋戦争時にPNGにきたことは知っていた。そういうことに向き合いたくて私はボランティアする国を選んだ。しかし、私は相変わらず無知だった。日本は賠償したのか、したならどのように。しなかったならどのような事情で。そして、どうあるべきか自分の意見を持たなくてはいけない。村の人々も当然知らない。ただ日本兵が来たことは語り継がれているし、学校でも教わる。

ボランティアは村を知らないといけないんだ。自分の身の上とともにそう言う話をすると、彼は理解した。本当にボランティアが必要なのは村かもしれない。そう話していたら、ふとかつて関係者が話していたことを思い出した。

タウンを歩いているとよく声をかけられる。そしてときに、相談を受ける。助けが、ボランティアが必要だと。このような「たかり」にどのように対応するかを、その関係者が教えてくれた。「手紙を書いて持ってきてくれ。」というのだ。大体が適当な思い付きの声だから、それきりになるということだ。

私は納得できなかった。本当に助けが必要な人は英語が使えないかもしれない。そしてその酔っ払いも同じことを分かっていた。自分は村の人間だから知識が無いのだと・・ホームメイドの酒(一応違法)を飲みながらそう話す。その後ろに若者が居た。彼は酔っていなかった。残念ながら記憶は無かったが、どうもかつて私が教えたGrade11の生徒らしい。K、落ち着きのある好青年であった。Rei村出身、かつ酔っていない彼にぜひ宿をお願いしたかった。彼は快諾してくれた。そして翌朝私をJが居ると思われるSolangまで送るとまで言ってくれた。

2時間せずボートは島についた。海岸の崖には立派な火山噴火の歴史が幾重の噴出物の地層となって残されていた。火山灰、軽石・・火山島に来たのだ。ボート人々が迎えた。その中にKの父親が居た。挨拶をした。すぐに家まで案内してくれた。感じのいい人だった。道々、近年大きな洪水があったとかで、崖が崩れたあとがみられた。彼らの家は海岸から少し離れた高いところにあった。コンクリートの土台の上に立つパーマネントハウス。横に森で木を切って作ったような小さな家もある。キッチンだ。別のもの木の家は・・ハウスボーイズ。今はメンズハウスと呼んでいるが、これは男らが寝る部屋。習慣ではある程度の年齢になると男の子は家族と寝るのではなく、ハウスボーイズという女人禁制の建物で寝なくてはならないらしい。それは、かつては学校として機能し、男の子は村の男のルールや仕事を年長者から教わっていたのだ。そしてハウスボーイズで過ごし、大きくなり、自分の家を建て、嫁をもらうと卒業という仕組みだ。現在この制度は機能せず、西洋の制度の学校が整っている。しかし、このメンズハウスがこの家にまだ存在し、家の男らだけが入るというものになっている。

Kの家に彼を含めて、学生、生徒の年頃の子どもが6人いた。全員クリスマスホリデーということで帰ってきたのだ。一人は他州から。家は賑やかだった。夜はソーラーパネルの電気を使った。当然、パネルの無い家は暗闇だ。水は雨水のタンク。200ガロン(約900リットル)のタンクが二つあった。水不足の心配は無いらしい。凄く裕福な家庭であることが分かる。洗濯機、トイレは水洗。Kの父親はNGOで働いているようだ。はじめLouの発展のために立ち上げたらしい。その後Manus州全体に活動を広げ、方向性もかえたようだった。海外のNGOと協力して働いているらしい。例えば台湾のあるNGOはここの近代化の過程を調査しているらしい。NGOで働いてそんなに裕福な暮らしが出来るものなのか・・。

Lou、初日はRei村で、疲れていたためかすぐに眠った。

4.1.10

04/01/10 新年の挨拶

月曜日。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。自分の日記で誰に挨拶しているのかよく分からないが、この日記をタイムリーに見る方々に挨拶申し上げます。元気でやっています。

今朝、Louから帰ってきた。3週間になる大きなビレッジステイだった。96ページのノートを一冊と半分終わらせるくらい、色々書いた。少しずつ紹介したい。けれど、今日はとりあえず帰宅した、という報告にとどめておこうと思う。

別れのあとで感傷的になっている。村に感謝の手紙を書こうと思う。

19/12/09 サッカー仲間

我が草サッカーチームは市長杯で決勝進出。決勝戦の相手は既に6-0でボコボコにしたチーム。予選でも既に勝っている。

このチームメイトの一人Aが昨日の昼間、家のお向かいさんの家に居て、大声で声掛けてきた。

「今夜ご飯を食わせろ」

確かにそう言った。聞き直した。そう言っている。Aはかつて私をクラブに連れて行き、自分は酔ってしまった男だ。根はいいやつだ。帰宅後で疲れていたし、料理に自信がない。全然気が進まなかったが、大した言い訳も思いつかなかったので承諾した。7時半ということだった。

「ただし、まずくても文句言ったらダメよ」

夕方彼が来るのを待った。伝家の宝刀、カレーライス。昨日は珍しく売っていた茄子が入った。しかし、彼は来なかった。負けシェフは独りで食べた。来ない気はしていた、金曜日の夜、彼が飲まないはずはない。実は昼、気付かなかったが既に酔っていたのかも・・。

今日、決勝戦は雨で延期。仲間らがキャンプしている学校に行ってみた。挨拶しに。仲間らはすごく喜んでくれた。Smile(私)が帰ってきたぞ!と。明日Louに戻るから、試合は出られない。でも一緒にプレー出来て幸せでした。いい仲間たちだった。Sさんのバイクの部品が盗まれた話をしたら、犯人見つけてぶん殴ってやると意気込む、ちょっと恐い兄さんもいる。Smileは忙しいから無理するな、って練習も配慮してくれた。水のこともすぐ助けようとしてくれた。サッカープレイヤーであることが、誇りだった。街の人は私がチームの一員だと知るといいね!と言ってくれる。子どもらも日本でプロチームの選手を言うように「K知ってる!?T知ってる?」とか聞くのだ・・憧れの的なんだ。Louの子どもでも知ってる子がいた。少しサッカーして遊んだらサッカースターと呼ばれる始末。このチームに入っていい経験をした。感謝感謝だ。

昨日のAとも会った。全く覚えていないようだった。・・自分の聞き間違いかと疑いたくなるような爽やかさ。私からは何も話さなかった。

かつてにMasobu(前に居たチーム)の監督からご飯に誘われて行ったときのことを思い出した。7時と言われて7時5分に行った。雨、雷で行くのを迷いながら行った。こちらの人なら絶対行かない・・だから行かないほうがいい気もしたが、迷った末に行ったのだ。監督は来たことに驚いていた。そして来ないと思ったからご飯を済ませてしまったと言っていた。

・・・実は社交辞令?そのうち遊びに行くね・・という意味?監督の様子とAの言動の意向が一致する。奥が深い・・。