22.4.10

21/04/10 小学校

水曜日。

昨日、火曜日は朝からマヌス州政府に行った。最近よく家に来るMr.Kが教えてくれた、教員の能力向上を目的にした勉強会的なものをする1週間(PISTWeek) への講師としての参加を希望している旨を伝えるためだ。Mr.Kも一緒に来てくれた。彼は一緒に手紙を作ってくれたし、私の現在の活動に対する不満(グチ)も聞いてくれる。彼は教育学で修士号も取り、経験もある、私の大先輩だ。違う学校で働いていることが残念。

ボランティアが去って何がこの地に残るだろう・・私は何が残せるだろう。自分の今居る学校であれこれ、見て、考えてみた。理科の知識か?化学の教師は、自分の専攻を持ち、しっかり指導している。物理も、生物も然り。もちろん、地学のことなら、役に立てる。化学の先生も、物理の先生も、実験や測定を授業に取り入れてやっている。むしろ、自分がその指導に不安なくらいだ。語学面や指導能力の面で。これが絶対いいんだと言う教授法を自分は持っていない。せめてもの救いは私が居ることで、地学がこの学校の生徒が学べたことは幸いだと思う。それだって、良い授業かと聞かれたら胸を張れるものじゃない。しかも、私が去ったらこの講座は無くなるだろう。

何が残る?・・・その気持ちで、考えて、自分の能力とそれを欲している場所を探した。それが小学校だった。小学校の教師はどうも理科、数学の理解に不安があるらしい。何処に行っても。日本ですらその傾向があると聞く。日本での学生時代の小学校の授業補助のボランティアを思い出した。ここでもできることはある。そう言う訳で、小学校の教師を対象に理科、数学の講義を行うことにしたのだ。考えていたのは近所の小学校。それをMr.Kに話したら、マヌスの小学校教員、全員の前でやるチャンスがあることを教えてくれたのだ。教員の理数科理解向上がもし達成されれば・・それは、想像するとにやけてしまうくらいすごいことをやっている気がする。小学校の授業で、間違ったことを言わず、本当に大切なことが学ばせることに教師が集中出来たら、生徒がより良い授業を受けられたらいい。それは、自分が彼らの代わりに教鞭をとることより遥かに良い方法だ。何故なら私は教授法に自信が無い上、効果の持続も期待できる。みんな辞めなければ、きちんと職場で知識が引き継がれれば。

州政府の方々にはとても良い反応をされた。しかし、PISTweekがいつになるか未定という痛恨の知らせを受けた。例年なら次の第二学期終了後の休みの間に行われるのだが・・。お金が問題らしい。しっかりしてくれよ!

その後、自分の学校の校長にもその話をした。快諾してくれた。反対しないよと。道すがら、近所の小学校Pombrutの校長先生に出会った。先週の日曜日、彼は家に来るはずが、来なかった。彼は謝ることなく、忙しかったと言った。理解します。お偉いさんが来て大変だったでしょう。・・それで許される、謝らないのが、文化なのだろうか。と言うより、そこまで本気で考えられていないということを、自分は理解しています。と心で思いながら、学校の中に招かれた。

その日と翌日で教員にパソコン講座を行っているということだ。将来、パソコンを学校に買うつもりらしい。そこで、明日の集まりで講師をやってくれという、なんとも急な依頼を受けた。助手で良ければということで引き受けた。

 

水曜日。今日。朝から小学校に。教師に課題を与えて、各自にやらせる。パソコンは全部で7台。受講者も最大で6人。十分だった。自分に教えられることがあるのか、不安だったが、教えることが多すぎた。こうやったら表が作れますとか、クリックしないと動かないよ!とか、様々な難易度の疑問に対応した。講師のはずの校長は不在がちで、自分がそこに。文書やスライド、修了書、広告などを思い思いに作っていた。この知識が彼らの仕事の向上に繋がると良いのだが・・学んで満足が一番痛い。そしてありがちなケースなのだ。自分の講義(教員向け)も、そう言うことに気をつけないと。

明日、校長とデートだ。一緒にラウン(ぶらぶら)しようと誘われた。ちなみに、男性です。朝8時から。今少し後悔している。ゆっくりしたい病が襲いかかる。彼は8時に来るのだろうか?ここの人と約束をするのは本当に面倒だ。

このブログに浮いた話が出てこない。そういう話が嫌いな訳ではないのだが。小学校の教員は、平均して若い人が多い、そして女性が多い。少しドキドキしたが、この人きれいだなと思う人は、既婚者しかも子持ちだった。こちらの人、結婚、出産がすごく早い。そりゃ人口も増える・・。皆家族(ワントク)と暮らしているから仕事していても、誰かが(絶対無職の人間が居る)面倒を見てくれる。ともあれ、お陰で自分も仕事に集中できた。既婚者、男の居る女性に手を出すことは、本当に生命の危機を招くことだ。男女関係のもつれあいで、ナイフで切り合う、格闘しあうことは多いらしい。話せば分かる・・のだろうか。

真面目に仕事しよう。誠実に。

20/04/10 お偉いさん

火曜日。

一学期が終わって一週間の休み。全四学期のうちの一つ。

先週は色々あった。

国の教育のトップたちが、マヌス島にやってきた。教育省の大臣やら何やら。毎年何処かに行って、会議を開くことになっていて今年はここと言ううことだ。

先週の月曜日。我が学校の生徒たちに限らず州都ロレンガウの生徒は熱烈な歓迎をするはずが、大臣は飛行機の遅延のために遅れてきたために、翌日された。授業は無くなった。自分はこの企画にかなり否定的だった。何故マヌスに来るのか、理解できないからだ。その接待や航空券に消えるお金を考えても意味があるのか。教師も生徒も接待の準備、予定の変更に踊らされている。何故接待するのか?お偉いさんは会議を開き、我々は勉強する、それでいいじゃないか。教師にそう言う話をすると、教育に関心のある人はその場に居なければならないという。「教師はそこで何か意見を言うの?」「NO、眺めるだけ。そこに居て、私は聞きました、話したことを証明できる、証人になるために行くんだ。」・・・・・・絶句した。何十人、何百人もの証人が必要なのか?ただでさえ会場のマーケットには沢山人がいるのに。要するに、誰も、何も変えようと思わないんだ。「残って仕事しても大丈夫かな?」私は尋ねた。同僚は「事務所(JICA)の人が起こるんじゃないの?」と心配したが、それは杞憂。誰も私の一挙手に注目していない。「でも、君は大使なんだからね。マヌスの中で日本を代表しているからね、教育のことに関心がありますよ、って皆が君を会場で見れば納得すると思うよ。」この発想は自分には無かった。確かに、日本を背負っていると考えることは多々ある。稀だが、道でガキに中国人に間違われてからかわれたら、はっきり諭してやるようにしている。君らを助けるためにきた日本のボランティアだと。日本代表として、翌日会場に行くことにした。

 

翌日。火曜日。ロレンガウの広場と言えば、マーケット。ここで生徒は行進をしたり、伝統的な踊りを披露した。お偉いさんのために。今まで練習風景をちらと眺めていたが、本気の踊りはすごかった。各地の踊り、シンシン。マヌスのシンシンは激しくて性的アピールが強いと、PNGの各地を紹介する冊子に書いてあったが、自分には良く分からなかった。でも、今年、生徒が踊ったのはバルアン島という自分のかつてステイしたロウ島のお隣の島のものだ。バルアン、ロウ、パームというご近所3島のバロパ地区の生徒が我が学校を代表して踊っていた。何が言いたいかと言うと、知っている生徒が多くて、彼らがとてもかっこよく、美しく見えたということだ。

お偉い方はその後マーケットで演説を行った。去年の卒業式で知ったマヌスの大臣さんもそこで、歓迎のために演説を行った。少し彼に期待していた。「みんな教育に関心がある。このマーケットで働いているお母さんは、子どもの学費を稼いでいるんだ。でも、様々な問題を抱えている。それを何とかしてもらいたくて、マヌスは会議を誘致したんだ。」と。彼はブアイを教育大臣に渡し、それで、人々のと関わってくれ言った。人々の声・・自分は聞けているだろうか。大臣と数名のお偉いさんの話を聞いて、その場を去った。彼らの仕事が市場にあるなら、私の仕事は学校にある。山ほど。どんなに彼らの地位が高くても、子どもの学ぶ機会を数日に渡って奪っていいのか?そういう考えを誰かに持って欲しかった。

 

水曜日。授業は無かった。朝、全生徒に一学期終了が告げられた。昼には接待のための生徒を除いて、寮も空っぽになった。翌日木曜日にお偉いさんが学校に夕食会に来るということで、教員は準備を行った。自分は自分の仕事、次タームの計画を作っていた。帰り際、校長に日本の料理を作って持ってきてくれと頼まれた。・・まずいな。

 

木曜日、朝からその準備は始まった。豚一匹をムームーに。葉っぱに包んで、熱した石とともに地面に埋めるというPNG伝統料理。豚は葉っぱの水分によって蒸し焼きにされる。・・という訳で、朝そこに行くと、生徒が豚の皮を果物ナイフ剥いでいた。お湯をかけて、剥ぎやすくしながら。自分もやらせてもらった。自分のヒゲでも剃るかのように。豚は死んでいるようだが、聞くと、斧でおでこを殴って殺したらしい。すさまじい。全身の毛と皮を剥いだら、次は内臓を取りだす。初めて豚の解体を見た。生き物の体には隙間が沢山あることを知った。内臓もスープにするため、中身をきれいにした。一瞬気が遠くなったが、何とか立っていられた。このとき、尽力した農業の先生と助手の私2人は、運悪くそのスープを食べ損ねたが・・。そして、自分は夕方、に備えて下味を漬けておいた鳥を揚げた。唐揚げを作ることにしたのだ。Sさんは去る前にこの技を伝授してくれた。片栗粉も、調理酒も庭の畑の生姜も、彼が残したもの。それを持って夕食会へ。バロパの生徒はその露出度の高い服装で、お偉いさんが来るのを待っていた。教員も待っていた。州政府からのお客さんも。自分の家のお隣さんは州政府で教員の給料を管理しているおばさんなので、お客さんとして来ていた。ロウの子から写真撮ってとせがまれていたのを思い出して、カメラを持ってきた。美しい彼らの存在の証明を、今私がするべきだと思って、沢山写真を撮った。

そしてお偉いさんはやってきた。彼らは食って、話して、踊りを見た。本当に生徒は長い間踊っていた。その激しいステップ。ダイエット法になっていいくらいだが、長時間踊れるものではない。途中、休憩が与えられた。私はお偉いさんに、ボランティアとして日本から来ていることに感謝された。来日の経験がある人から日本の話などをされた。・・なぜ、学校の話をしないんだ!何のためここに居るのか、考えて欲しかった。私は、「ここで少しでも教育の発展に寄与するために最善を尽くしています」と述べた。そして、待機している生徒の方へ。大人たちは彼らのことを忘れている。「晩御飯は?」彼らには御馳走は振る舞われることは無かった。学校で生徒は当たり前のようにパシリにされている。その時も。普段教えていない生徒もそこにいた。「本当にかっこよくて、美しい踊りだね、今度教えてよ。」少し、その場で教えてくれた。意外に単純ですぐ覚えられそうだった。日本の話を聞いてきた。日本の人は時々、ものごとを真剣に考えることがある。だから自殺する人も沢山いる。もし、私が君なら、この無視されてるこの状況に怒ってるね。この待機の間も生徒は本当に呑気に時間を過ごしている。その時、遠くから声が。踊りの出番が来た。お偉いさんの見送りだ。

去年は特にシンシンを学びたいという気持ちは起こらなかった。頻繁に過去に居たボランティアは踊ったんだからと勧められたが、自分には自分の仕事があって、それを優先したかったから断った。彼らを知るためにと言うが、別に一緒に踊らなくたって、触れあうことはいくらでもできる。授業を、生徒を大事にしてれば。生徒と友達になる必要はない。生徒と教師としていい関係が作れたらそれが一番なはず。でも、急に踊りたくなった。別に生徒と触れあうためとか、そう言う思惑は無く、その踊りを踊れるようになりたいと思った。

勝手な大人たちの接待に駆りだされた生徒たち。別に彼らが天使だと言っている訳ではない。生意気なことはある。でも、彼らは子ども。大人が何か言えば、それに巻き込まれない訳にはいかない。

自分は何をすべきだったんだろう。

から揚げは喜ばれた。家庭科を教えている教師からレシピを頼まれた。

12/04/10 歌づくり

月曜日。

土曜日。耕した畑に、Pおばさんが用意してくれた種を播いた。ナス、トマト、チンゲン菜。新しい生命。畑、しんどいなと思っているが、少しワクワクした。

私は、歌うことが好きだ。ギターを弾くことが好きだ。日曜日は引き籠ってギターを弾いた。小学校の校長先生が来るというから待っていたが来なかった。ギターを使って作曲に挑戦している。断片だけが出来上がる。作詞も。なかなか完成しない。

中学校の卒業間際、好きだった子に歌を歌いたくて初めたギター。何故か高校では皆がフォークギターをかき鳴らすなかでクラシックギターを手に取った。言葉の無い世界、そこに一つの真理があるような気がした。部室で寂しくつま弾いてた頃が懐かしい。高校生になってお金を貯めて、自分のギターを買った。いつも自分と一緒だった。永遠の素人と言われたことも。でも歌うことも相変わらず大好きだ。地元のアーケードで、友達と二人で迷惑も顧みずに歌った頃が懐かしい。

先週の金曜日。放課後にギターの音が聞こえた。職員室で二人の教員がセッションしていた。ここにはピアノはなく、主な伴奏楽器はギターなのだ。なので、ギターを弾ける人は多い。学校の授業も使う楽器の定番はギター。朝礼のときの国歌の伴奏にも。私が部屋に入ると、一人が日本の歌謡曲、ナガ?チツ?シの曲を弾き語りしてくれた。かつてのボランティアが教えたらしい。そして、二人はマヌスの音楽や、懐かしい洋楽を演奏した。僕もお礼に、日本の人が作曲したものということで、昔覚えたオシ?コー?ローのしっとりとした曲を演奏した。PNGの人は落ち着いた曲は喜んで聞いてくれるのか・・ずっと疑問だった。が喜んでくれた。毎週ギター講座やってくれと言われてしまった・・。

残念ながら、今はクラシックギターの先生につくことはできない。仕方が無い。できないことももちろんあるが、出来ることは沢山ある。力を抜いて、耳を澄まして、練習曲を弾く。

その一方で、PNGで歌つくって、溜めて、道ばたでも、どこかの機会でも見つけて歌ってみたいと考えている。何故か。それは、将来日本でもそうしたいと思っているからだ。歌というのは、普段考えているけどなかなか言えないことがすっと言えたりする魔法を持っている。常識を疑われるようなすごくロマンチックな発言でも、真面目に言える。すごい説教くさいことでも、流れたりする(良くも悪くも)。本当に人に伝えたいことを、歌に載せることで、伝えられる。でも本当に伝えたいことが、誰も歌わないようなことだったら自分で書くしかない。もちろん人の歌を歌うことにだって、大きな可能性が秘められている。でも、自分で歌を作ることは自由だ。それゆえにとんでもないものが生まれる可能性もあるが。奇抜で無くても、万人に聞いてもらえなくても、立ち止まった人、共感してくれた人に何か大事なことが届く歌を作りたい。

もしできるなら、今、やればいい。日本に帰ったら、とか言わず。そう言う訳で、なんと今日人生で初めて、一曲の歌を完成させた。やればできるもんなんだな~。故郷の相棒に聞かせたいところだ。

人生最初の歌は猫に捧げた。絶対にその歌を理解し得ない猫に歌を捧げること、もう私の自己満足以外の何ものでもない。

11/04/10 挫折

日曜日。

この1週間で気付いたことがある。

日本にいたときに比べて頻繁に頭痛がやってくることだ。特に今週はずっと頭痛に悩まされた。これが標準状態だとでも言いたげに、ずっと改善しなかった。

学校は一学期が終わろうとしている。後半になって、病欠の教師が急増した。30人の教師が居て、最大一日で5人病欠がいた。自分は休んだ教師の埋め合わせを行った。自分が行かないと、誰も行かないからだ。

水曜、木曜には頭痛、熱に襲われたが、それでも授業は休まなかった。はっきり言って意地だった。そして今週から革靴で勤務することを止めて、通学は革靴だが、学校ではスリッパで過ごすことにした。足が蒸れて水虫に罹ってしまったようなのだ。普段はいいのだが、時々猛烈に痒い。オフィスではこっそり靴を脱いでいたが、面倒だった。ちなみに周りは靴を履いているときもあれば素足で歩いている時もあるといった具合である。意地出すところは意地出して、妥協するところは妥協する。

学校も大変だったが、分科会も。残念なことに、中止が決まった。開催予定日を今月末に控えてのことだ。事務所の援助を受けられなかった。学校の先生方は楽しみにしていた。・・大勢は日本のダンスや何か食べることを、一部は興味深い実験を見ることを。

この分科会に関する一連の出来事を振り返って、一瞬何かが萎えていくのを感じた。1月末からやれることはやったと思う。どうにもならなかった。

ではどうするのか、止まってこうやって落ち込んでいるのか。

よく思ったものだ。自分は何か重大な欠陥がもっていて、自分を含めて人を満足させるような仕事ができないようにできているではないかと。そういうときはとにかく誰かに甘えたくなるが、それをすると一時は楽だが、結局さらに苦しくなることを知っている。自分で自分を認めてあげるしかないんだ。どんなに仕事ができなくて救いようがなくたって、それはその人自身の価値を全く落としはしない。そう自分を慰めていたら、人にだって優しくなれる。と言うより、怒ろうという気すら起きない。

まず、小学校に謝りに行った。理解してくれた。自分たちでできることをやりましょう。ということで、自分がこの小学校で、教員向けの理科の講義をすることを提案した。Mrs.Kは日本に行った経験があり、日本をべた褒めし、そして言葉のことなど、私のことも心配してくれた。辛い経験があれば、人にだって優しくなれる。

自分の高校では、職員会議で全員に報告した。この職員会議、私は大嫌いなのだ。いつも予定時間に終わらず、生徒の授業時間が潰れる。会議もトゲトゲしい雰囲気の議論で、血が通っていなくて、出来の悪い人間はクズだと言わんばかりの攻撃をする。「お前が問題を作っているんだ!」なんて指をさして言われたら、誰だって傷つく。本当にそうだとしても言い方なんていくらでもあるだろうに・・。そして自分の番。予定の会議の時間ではもう5分しか残っていなかった。

JICAセッションはキャンセルされました。今、ボランティアは新しい試みに挑んでいます。全員集まってセッションを開くのには大きなお金が掛かります。このお金は日本の税金です。日本の人たちに納得してもらうために、それに見合う成果を出せるものをと努力しました。しかし、事務所の援助を受けることができませんでした。これからも開催に向けて努力を続けていきますが、今後いつ開かれるかは不明です。本当に申し訳ありません。

みんな理解してくれたようだった。誰も私を責めるものは居なかった。むしろその悲愴な顔は同情の念で溢れていた。

校長とは個人的に話した。「前回のセッションは大成功だった。皆楽しんでいたし、アウトカム(効果)も大きかった。」自分も分科会の効果について考えていた。アウトカムという言葉は・・難しいが、セッション前後で教員の仕事に変化がなければ、少し悲観的になるべきだ。

理想は高く。でも出来ることをやろう。もちろん、壮大な計画を立てることは悪いことではない。でも、もし援助が無かったときは無いなりにやるしかない。Sさんの言葉を思い出す。次の学期は小学校でも活動ができる。彼らは私の能力を欲しがっている。高校では、悲しいことに自分が授けられるものが無いように見える。ベテランで、きちんと大学で専攻を学んだ高校教師は、指導力も専門知識も私には申し分無いように思えるのだ。そんな自分の存在の無意味さを感じる状況だったから、分科会という起爆剤を欲した。それは不発だったが、新しい種を蒔いた。

分科会の方は、どうなるか分からない。数人とはメールでやり取りしていたが、十分煮詰まっているとは言い難い。企画の作り方から、変えていかなければならないと思う。挫折した。でもそれはまだ、成功してないと言うだけであってまだ自分たちは道の上にいる。まだ終わっていないんだ。半年後にでもまたチャンスはある。そのときに、これが成功だ、と言えるものが出来ればいい。PNGのボランティアがみな、目標を共有して働けたら、個人プレーのときよりもっとはっきりと、いい影響が出るはず。そのためには、やはりこの分科会を改善していかなくては。今から動き出そう。

辛いことはある。でも人は優しくなるために生きているのかもしれない。沢山辛い経験をして、優しさを人に与えよう。PNGに来て、いろいろあった。全て日本に帰ってから、配るためだ。世界中の人に配れるくらいの優しさをここで培って帰れたらいいのに。まだ1年以上ありますが。

4.4.10

04/04/10 お便り

日曜日。

週末に郵便局に行った。自分の私書箱を確認しに。

こちらの郵便物は各家に配達されない。郵便局にお金を払い、自分の箱(私書箱)を買って、それに郵便が無いか確認しなければならない。基本的に何も入っていないのだが、その日はなんと3通も入っていた。

ソロモン諸島(PNGの隣の国)で活動しているボランティアから。

ベナン(アフリカ)で活動しているボランティアから。

日本で必死に生きている友人から。

私書箱を空けるとき、たまたまそこにいた警備の人たちが、話しかけてくれたので、受け取った郵便を見せた。「これはアフリカ、これはソロモン、これはジャパン」と。「いいね~、すごい。」彼らは外国から郵便を受け取ったことなんてないだろう。日本だって同じだ。

場所が違えば考えることも異なる、いや、人が違えば考えることも異なる。それぞれの関心事は全く異なっていた。新しい視点を与えてくれる。この2年間という任期も確実に短くなってきている。自分の国のジェンダーはどんな状況なのか、任国外に出て学びたいことがあるのか、PNGでも日本でも必死に生きていられるということ。

アフリカからたった20日で届いていることに驚いた。日本に送っても同じくらいの日数がかかる。南米や中央アジアには数か月かかったりしたのに。どれくらいかかって届くか、もしくは届くか・・結構不安定なのかもしれない。すぐ届くこともあるし、何か月もかかることもある。届かないこともあるかもしれない。

一時期、電気(電圧)が不安定だった。勝手に扇風機が強くなったり、弱くなったり、蛍光灯がついたり消えたりした。日本では考えられないことは起こる。様々なことが「不安定」・・何かが突然やってくるというのが、ある意味規則なのかもしれない。

話しは変わるが、前回(22/03/10)に書いた「カスカス」は「クスクス(Cuscus)」であることが分かった。ソロモンからの切手に同じその動物の絵と名前が載っていて、英語の綴りが判明したのだ。ピジン語の綴りしか探ることが出来なかったからとてもありがたかった。自分の辞書に載っていた。なんとそれは有袋類だということも判明した。

01/04/10 イースターと哲学

木曜日。

今日は学校が早く切り上げられた。自分の授業はつぶれなかったが、同僚の一人がテストをやるつもりだったらしくすごく悔しがっていた。

分科会のことを小学校に打診するととても喜んでくれた。専門の科目ではないから、理科や数学に不安があるという。そのため小学校教員に向けての理数科知識や実験の紹介を行う計画でいる。

さて、学校が早く切りあがったのはイースターというキリスト教の中で重要な行事のためである。これのために金曜日と翌週の月曜日が祝日になっている。キリストの復活を祝うのだ。お隣さんに誘われて教会に。教会には夜たくさんの人が居て(多分500人くらい)外に溢れて窓から覗いている人も沢山いた。自分も外から覗いた。ずっとは多分聞いていられないだろうと思ったからである。日本でも、旅行先の韓国でも、PNGでも何度か教会に行く機会があったが、すごく疲労してしまう。緊張するからだし、あれこれ考えてしまうからだろう。

自分はキリスト教徒ではない。よく聞かれるが神道、仏教を信仰しているわけでもない。こちらの人にはヒンドゥーかとも聞かれるがそんなこともない。もちろん、何がしの宗教を背景に持った文化の中で育ったのは間違いないし、価値観のどこかにその影響を否定することはできない。「スタップ タソル(居残り)」という人がPNGの中で自分と近い。教会に行く人はまじめで、ちょっとアウトローは居残りで教会に行かないというのが通念になっている。自分の考えは宗教とは別に存在している。世界に対する解釈を自分なりに持っている。自分なりの思索で。

私は神を否定する気は全くない。自分の考えでは、自分が感覚で知覚できなかったり、科学観測できなかったりするものは存在しないと思っている人も、存在するに違いないと思っている人も同様に自分とは違う。「あるかもしれない、無いかもしれない」というのが自分のスタンスだ。今まで人間が復活するところを見たことはないが、もしかしたら一度くらいあるのかもしれない。死んだあとは「無」だと思っている人もいるが、実はものすごく快適な状態に移行するかもしれない。自分の死後、自分の意識がどうなってしまうかを経験した人は現在生きていないので分からないのだ。意識の正体だって良く分からない。宗教に対して強い抵抗を持つ人が多い日本だが、そういう人たちも同じくらい「信仰の否定」に固執しているようにみえるのだ。分からないということを自覚している。でも、こういう可能性もある・・って考えることは面白い。宗教のそういう世界観は豊かだと思う。

想像を超えるが、この意識の喪失、「無」かもしれない。でも、もしかしたら死と同時に目を覚まして「どうだった?俺の作った世界、結構面白かったでしょ?感動的だよね~。」なんて、変なおじさんに言われるかもしれない。感覚を失って、ずっと暗闇の中で意識だけが漂っているかもしれない。実は死んでしまった人たちが自分の全ての行動に注目しているかもしれない。死んだらいっぱいダメだしされてしまう。肉体を失ってもなお、肉体を持っているつもりでいるかもしれない。地雷で足を失った人が、失った部分の痛みを感じることがあるという話を聞いたことがある。

死ぬときに後悔しないことが目標。

今生きている世界との関係の断絶がある可能性はある。その世界には他者がいて、食べ物があって、自分の体もあって、ある程度自由に動けて、痛みもあるが、美しいものもある。こういう理解は言葉によって行われるが、言葉には表現されないような、何か大切なものだってあるかもしれない。とにかく様々なもので溢れているこの世界に生きる機会を得たから、それを大切にしたい。こう前向きに世界を捉えられるのは、よっぽど恵まれた環境に居たからからかもしれない。毎日空腹で、誰かに殴られて、明日の我が身も分からない人の見る世界は恐らく違う世界を知っている。世界は幸せで溢れてるなんて言ってもきっと理解されない。

生きるのに値する世界か、決めるのは自分。「価値」って価値観を持つ主体、価値を欲する人にによって与えられるものだから。だから、真に客観的な価値なんてそもそも存在しない。人は価値ある人生を求める。価値はあるものでなく、作るしかない。人は満足しようと必死なんだ。その欲求を認めたとして、自分をどういう世界に身を置き、その世界とどのように関わるかは自分で決められると思っている人もいるし、決められないと思っている人もいる。私は幸運にも生きるのに値する世界に近づけるために、自分が出来ることがあると思えている。

私は誰かに後ろめたさを感じることなく本気で笑っていたい。

そんな世界にしたい。誰かは近所に居るかもしれないし、地球の裏に居るかもしれない。

まだ未完の哲学だ。現実世界は自分にいろんな新しい問題をふっかけてくるからだ。まだ途中。でも・・ミサは疲れた。いつも、行ったらもう最後かな~と思う自分がいる。頂いた長い週末をのんびり過ごそうと思う。

エイプリルフールですが、相変わらずまじめでした。