1.3.11

29/01/11 Madang

土曜日。マヌスに帰ってきてから一週間、まだ学校は始らないが、先にロケットスタートで働き始めた。学校に行くと自分のオフィスに入れないという状況、休みの間に当直を担当している教員と用務員の方々のみの学校に通った。

 

ハーゲンから、そのままマダンで開催されたJICAボランティア大集合の会議に出席した。首都のポートモレスビーは最近、外務省の渡航危険度に関する情報で危険度が上がったと発表されたからである。空港で発砲事件が相次いだためだ。

そして、変更された先のマダンも、ボランティアが集団暴行や投石を受けたり、と決して安全ではないとの情報を受けていた。

ここでとにかく男性しか派遣されていない中JICAボランティアは集まり、あれこれ話し合った。私は特に理数科教師として活動するボランティアのコミュニティの長であるため、あれこれ支度をした。年に2回しかない顔を合わせる機会。初参加、というよりPNGに来たばかりの参加者も居て、きっと右も左もわからない。理数科教師ボランティアの活動が歴史を持って良くなっていくにはどうしたらいいだろうか・・。間もなくこの国を去る人間の発想なのかもしれない。しかし、個々人でやっている活動を効率的に、効果的にするために協力できることがあるはずだ。今回からついにシニア、年配で経験豊かな理数科教師ボランティアもPNGに派遣されるようになった。それまではずっと教員経験のない若造の試行錯誤であった。これから、そんな新しい強力な助っ人と働けるボランティアがうらやましい。

マヌスへの飛行機が毎日無い都合で、自由な日があった。マダンの町を少し歩いた。お土産になりそうなものを漁った。バスケットボールの大会を見に行った。広場は人があふれ、私を見つけると「チャイコー」と叫んでくる人がいる。中国人に対する蔑称である。自分は日本人だ、ボランティアで来たんだ、ってわざわざ笑顔で近づいて話をする。すると、態度を180度変えて、「お前はすごい!」なんて言われて握手を迫られる。

バスケットボールのレベルは私の任地マヌスに比べてかなり高かった。やればできるんだな~と感動した。

それより、中国の人の嫌われ方に同情したくなった。たくさんの中国人がお店を構えて商売している。確かにすぐに壊れるラジオやイヤホン、名前だけの偽物のブランド物を売っていることがある。みな、中国製はすぐ壊れるという文句をよく聞く。逆に日本のモノはすごい!ってよく褒められる。中国もPNGに色々援助をしていて、文句を言われる筋合いは無いのかも知れない。ただ、同じ色の肌である、という理由で間違われて石を投げられる日本人は明らかに被害者なような気もする。モノづくりで尊敬される日本、私は自分で作っていないのに、すごく嬉しい気持ちになる。おしゃべりは下手かもしれない、でもいいものを作る。常に一目置かれている。日本は本気でこの国のために働いてくれている、とボランティアに感謝する人もいる。途上国の人だってバカではない。人が資源を目当てに来てるか、本当に人助けのために来ているか、触れていれば分かる。ある先進国は、PNGの資源を奪うだけ奪って、発展させる気は無いんだ、、、なんてぼやくのをハーゲンで聞いたのを思い出した。

 

誇りを持ちたい。日本を、誇りを持てるような国にしたい。

10.1.11

09/01/01 理数科分科会

日曜日。

昨年11月、ついにマヌスセカンダリースクール、私の配属先にて、PCMワークショップを開くことに成功した。

学校の抱える問題を、分析し、何かできることから解決していくためのプロジェクトを組み立てる、ワークショップ。上から指導するのではなく、共に考え、やっていこうという、ボランティアの姿勢がうまく活かせるのが強みである。

このとき、理数科教師として各地で活動するボランティア8名が集まって、ワークショップを運営した。全員にとって初めてのことだったため、不安を抱えながらであった。

言語の問題・・私たちボランティアはきちんと話し合いで意志疎通ができるだろうか。

文化の問題・・モチベーションの程度、参加者の積極性は?スケジュールのきつさなど。

私にとっては、全4日間朝9時から夕方4時までのこのワークショップに、現地教員がどこまで付き合うのか、それが一番心配ごとだった。参加者をわが校から6名決めたが、最後まで4名は積極的に参加した。もうひとつのグループ、パピタライセカンダリースクール、の教員も同様な具合であった。正直同僚の問題解決に向けるエネルギーの大きさに驚かされた。

中心問題として扱ったのは、偶然にも両校とも「生徒の出席率が低い」ことであった。この解決のために8人のボランティアは二つに分かれて、その学校の教員が問題を分析したり、対策をぎろんしたり、具体的なプロジェクトの立案をすることをサポートした。学校の状況は異なり、したがって、対策、ワークショップによって出来上がったプロジェクトも異なった。

ボランティアはみな自分の任地へ帰った。そのプロジェクトの面倒をみるのは、残された教員、そして私である。

我が校では、生徒の出席簿のきちんとした管理や同時に教員の出席を管理することをプロジェクトとした。2月から開始予定。

このワークショップ、開催まで色々な手順があった。開催は無理なのではないか、とさえ思った。その労力が報われたか否か、その判断はまだやってはいけない。開催して満足してはいけない。学校のプロジェクトは機能したか、なにか改善したか、ボランティアは何かを学んで活動を豊かにしたのか、これがなければ、骨折り損である。

じぶんの活動は骨折り損であった・・そう言いたくないのが、人間である。まだ、できることはある。

09/01/11 たくさんのこと

日曜日。

明けましておめでとうございました。

2か月日記を書かなかった。もう書かないかとも思った。でも、やはり書かなくては。明日首都に行くということもあり、なにか更新したかった。

書きたいことはずっと山ほどあった。しかし、このような公の場所で書くのに相応しいことばかりではない。そういうものが、自分の中で大切になってくるほど、この日記が空虚に感じられてしまった。大切な思い出が欠け落ちた日記。でも、自分はこのブログに託したもうひとつの使命を忘れていた。

「人に何か伝えること」

未だに見てくれる人が居るのか、分からない。でも、何か人に伝えたくて始めたことを忘れてはいけない。昨年8月からウェブに繋がれていない。その間にこれを読む人のことを忘れてしまっっていた。このブログがいつの間にか、ただの自分の記録になってしまった。

 

2か月を大雑把に振り返る。

学校のある期間は、学校行って働いて、週末はのんびり。バスケしたりなど。

・理数科教師ボランティア分科会(11月22~25日)

・2010年第4学期終了・クリスマスホリデー(12月10日)

・Lou Island滞在(12月10~17日)

・Kavieng旅行(12月27~31日)

そしてこれから首都に上がるのは、これからMt. Hagen(1月10~16日)への旅行のためだ。さらに、その後直接JICAボランティアの会議に出席する。

今年のクリスマスホリデーは、どちらかというと「外」に気持ちが向いていた。去年はマヌスにずっといた・・Louに長い滞在をしたが、今回は外の世界を見よう。お金も使って。現地生活費としてもらっているお金がかなり、余っていることもある。

28/09/10 CLUB

火曜日。1週間の休みが終わり、学校の第四学期が始まった。月曜日は保護者会があり、今日から正式に授業が始まった。しかし、来た生徒は三分の一以下。皆、故郷の村に帰ったはいいが、当日にちょうど街に戻ってこれない。交通手段の問題として、当たり前のように遅れてくる。この島、道はほとんど無いので、ボートで皆やってくる。ボートを運営しているひとは、気まぐれで村と街を往復しているから・・アレンジすることは実に難しい。

 

9月は色々楽しいことがあったが、そのひとつはクラブ・・ディスコである。週末の夜、そこに人々は集い、飲み、そして踊る。SHOW MANUSの最終日の夜、私と他日本人ボランティア2名、オランダ人ボランティアJと隣の高校の先生Mr.Kとははるばる海軍の基地まで車で40分かけていった。そこで、大きな資金集めを目的としたパーティーが開かれたからだ。PNGに来て初めて行ったクラブは首都だった。危険といわれながらで、お酒もほとんど飲めない自分にとっては全く楽しめなかった。踊るってなんだ?そんな感覚だった。一夜限りの女の子をひっかけに行くボランティアもいたようだが、自分は何か汚いものを見る感覚だった。マヌスでは、先輩のボランティアに連れられて行ったときも、いまいち乗りきれず、もやもやして帰った記憶がある。

しかし、例のデング以来か、何がきっかけか分からないが、今無性に踊るのが楽しい。フロアに一人になろうがお構いなしで乗りまくる。踊っていたら誰かが乗ってくる。自分の野性が放たれる感じ。昔、訓練期間中にサルサを少し教わったが、それとは違って自由なのがいい。ほんとはサルサも自由なのだろうが、自分は結構不自然に動くのが辛かった。今はただリズムに合わせて体を振るだけ。他ボランティアいわく、私は本当に気持ちよさそうに踊っている・・らしい。マヌスのクラブは、若者だけでなく、おじさん、おばさんが沢山いて、とてもアットホームな感じがする。ときどき喧嘩もあるが、首都みたいなピリピリした空気がなくてよい。娯楽のないこの田舎の唯一の遊び場かも。音楽が同じものかけっぱなしとか、ぶつっと切れたりと色々苦情はあるが、比較的安全なのが嬉しい。

海軍基地では10時ごろから結局朝の5時まで踊り続けた。アルコールなしで!飲んだのは清涼飲料水のみ。Mr.kのお酒は私持ち、彼はお金ないけどいつも、私がどこか行きたいとわがまま言うと必死にアレンジしてくれるし、悩みも聞いてくれるから、全然悪い気がしない。

日本に帰ったら多分、クラブに行くでしょう。同居人Aさん曰く、日本のクラブはもっとすごいということですから。

15/10/10 Fight

金曜日。第四学期の3週目が終わった。Gr.10の生徒が進学試験を終えた。彼らが学校から居なくなってしまうのはさびしい。

先週末はまたクラブに行ってきた。金曜と土曜の連夜で。

金曜はそれはそれは大変だった。クラブに着くとすぐに一人の可愛らしい女の子がそばに寄ってきた。一緒に踊ろうと。普段そういうことはないので少し嬉しくなって踊ったり、しゃべったりしていた。ビールをときどきお願いするので、あげていたら、お金がなくなってしまった。自分はお金を持っているのは事実で、断れなかった。お金なくなっちゃった。と、話すと彼女はそれきり私と踊ることなく、他の男性のもとへ行ってしまった。残念!さみしいなーと思いながら、一緒に来た仲間たち、ボランティアAさんの同僚の元へ戻った。その話をしたら、女性陣が憤慨した!私が驚くくらいに。「日本人の金を使うなんて!」と。まあ、そんなに怒らなくても・・と私がなだめていたらそのうちの一人が、例の可愛らしい子の後ろ髪を掴み引っ張った。待て待てと、私が仲裁に入る。変な気もするが。

帰り際、仲間たちが声を掛けてくれた。Aさんは楽しそうに踊っていた。それを見た見知らぬおじ様が「こんなに楽しそうに踊っているのを止めるのか!俺がこいつを送ってやるから、てめら帰っちまえ!」と、仲間たちに言い始める。当のAさんは、なぜ言い争っているか露知らず、踊り続けていた。そして、一緒に来た仲間の一人は若干酔っていることもあり、喧嘩が勃発。クラブ内が騒然とする。この喧嘩は、Aさんを外に出しさえすれば終わると判断し、Aさんに「帰りますよ、出ましょう」と促すと、喧嘩の舞台は外に移っただけだった。おじ様に「ありがとう、でも僕らはもう友達と帰るから大丈夫」、そう言ってももう通じない。なぜ喧嘩が始まったかももうどうでもいいかのようだ。なすすべなしと思っていたら、後ろでも喧嘩が始まった。また仲間が、例の可愛らしい子に殴りかかっているではないか、しかも二人がかりで。

帰宅は午前三時。日本人にはけが人なし。

 

土曜日はMr.Kと二人で。彼とは最近よくつるんでいる。彼の家に行ったり、ご飯を家で御馳走したり。しかし、彼にはいつもクラブへの車を手配してもらっている。一応夜は危ないといわれているからだ。彼はなんと彼女のいない僕のために、素敵な女性を紹介してくれると言っていたのだが、本当に電話番号を教えてくれた。しかし、彼女はケビエンというマヌス州の外で働いているということだった。いきなり付き合うとかそういうことはできないから、ペンフレンドとか、とにかくお友達から始められたらと思う、そう話した。彼女も僕が真剣かどうか気にしているということだった。

そして今週1週間、電話で話をしている。こっちの人は三角関係とか何かあると、結構ケンカで解決するらしい。実際に市場でケンカを目撃することがあるが多くは男女問題らしい。誠実に、きちんと自分の気持ちや状況を伝えて、相手にも分かってもらう。嫌なことは嫌という。Mr.K曰く、私のような外国人はお金を持っているからビールをねだろうとして、みんな親しく寄ってくると。誰を信じればいいのか・・と悲しくなるが、無理することなく、「自分で買いなよ」とか普通に接していればいいんだと思った。皆、もらえたらラッキーくらいの感覚であって、もらえなかったからといって怒ったりしない。それで終わる関係もあれば、続く関係もある。モノをねだられることは多い。別に自分が彼らの指導者や親でもないので、もっと素直になればいいんだと、気楽に思えるようになりたい。

土曜日もけがなし。

05/09/04 Birthday

日曜日。

昨日は土曜日。朝からバスケ。腰はまだ用心が必要だが快方に向かっている。

午後は、帰国後のために近所の子どもにインタビューをしてみた。将来学校の教員を志している。未来の自分の生徒にこの国ことを話す機会を作ると思う。子どもらが興味を持つことが大切。遠くにいる人たちも自分らと同じように色々感じながら、色々考えながら生きている。もちろん違うこともあるのだけれど。きっと、自分と同じ年ごろの子どもの考えていることに興味を持つと思って、普段見かける子どもを対象にしてみた。

初めは・・たまたま大きな木の下で、日陰で出店したり、たむろっている人たちの中でぼんやり座っていた。普段自分はそこに立ち止まらないから、みんな少し緊張していた。そんなとき、寄ってきた一人の子ども。5歳。少し小さ過ぎるが、練習だと思って色々話してみることに。どんな遊びするの?誰と?おっきくなったら何になりたい?

 

そんな調子で、八年生のいつも出店を家の前でやっている子、

好きな科目は理科と経済。嫌いな科目は英語。今はやりのビー玉遊び・・をこの子もやっていると思いきや、それはガキのすることだと一蹴した。自分の生徒に聞かせてやりたいものだ。もっと色々なことを知りたい。だから科学者になりたい、彼女はそう言った。とてもシンプル。

いつも何もせずふらふらしてる19歳の男の子(小学校卒)の話を聞いてみた。

家の草刈りをしたり、木の実を割ったりして過ごしたり、サッカーをしてみたり、なんとも一日がゆっくり過ぎているようにかんじられた。

 

誕生日は何もしなかったが、翌日に同居人、二人のボランティアが僕のために晩御飯を作ってくれた。なんだか、照れくさかった。でも自分は年をとった。二人の人生の先輩から様々な話を聞いた。24歳・・若いのか?24年間、自分は何をやってきただろうか。これから何をやっていこうか。

ネットにずっと繋がっていない。手紙もほとんど来なくなった。たとえ誰も今日、自分のことを思い出さなかったとしても、それでも自分の生は続いている。その意味を考えると、やはり今ここで何ができるか、それを考えたい。そんな中、見えない遠くの国の人たちのためにできることを考えたい。私はそこに大切な人々が生きているのを知っているから。自分にとって大切な人が、自分を思い出してくれた日、それが本当に大切な日のように思う。この世界に自分は何が残せるだろう。何を見て、触れて、変えられるだろうか。

31/08/10 バスケットマン

火曜日。膝の上にはコトーがいる。とっても人懐っこい。親バカならぬネコバカになりそうなくらいかわいい。テーブルには首都で買ったハーブティー。ネット接続はうまくいかないが、優雅な夜を過ごしている。

 

最近バスケットボールを持っている人を見る頻度が増えた気がする。去年は生徒が放課後にバスケットしている姿を見た記憶がない。でも今は違う。バスケが流行り始めた。そして、その火付け役は自分だと密かに思っている。授業の後には「今日はバスケットやる?」と生徒に聞かれることもある。

ゲームをするときは必ず、「ディフェンスは体を接触させてはいけない」と口を酸っぱくして言ってきた。ふざける生徒も居て、キリがないようだがファウルをとるように心掛けた。すると、最近少しバスケらしくなってきた気がする。自分はプレー前にフットワークしたりもする。笑う生徒もいるが、真似しようとする生徒もいる。部活動なんて作ったら面白いかも・・とこれまた密かに思っている。

3週間経って、首は良くなってきた。と思ったら今度は腰を痛めたようだ。しかし原因がまた分からない。怪我(?)が多い・・年なのかな?と思うと少しさびしい。

先週末、同居しているAさんと生徒と先生とバスケット。自分とAさんはシュートフォームを動画に記録した。私はPNGに居る間にシュートレンジを広げようと思っていて、そのためにシュートの打ち方を研究していた。自分のフォームを見て、思ったよりきれいだったことに感動した。昔あこがれたNBA選手を見よう見まねで作り上げたシュートフォームはお気に入り。しかし、飛距離が出ない。スリーポイントが入るようになるには、何か工夫が必要だ。という訳で、研究のために録画した。その時、Aさんのシュートについて指導してみたが、なかなか難しい。何か良くないのは分かるのだが、的確なことが言えない。コーチって難しいのだな、と改めて思った。生徒のシュートフォームも指導するのが難しい。

モデムが再び不調になった。回復の兆しがない。また日記をためることになりそうだ。

25/08/10 ライフライン

水曜日。

先週木曜日から計画的に停電が行われた。

木曜日はそうとも知らず、電気料金を事務所に払いに行った。電気料金の請求書が支払期限の前日にくるというあり得ない事態だったからだ。学校で働いているうちは電気を使わないので、停電していることに気づかなかった。そして。昼休みに慌てて事務所に行くと、停電のため受け付けられないという。また来てね!なんて言われて少し腹が立った。こっちは忙しいのだ。事務所を立ち去った後、その停電は計画的に行われていることを知った。

理由は・・なんと燃料切れ。火力発電所の燃料が切れそう・・という理由での計画停電。夜7時ごろに電気が戻り、12時には消えた。

金曜日。この日は放課後に小学校に行って講習会を行う予定だった。前の学期から何度も計画を立て、交渉し、そして流された講習会。この日はついに無事に執り行うことことができた。一週間前にあげた、レジュメはコピーされていなかったが。とにかく小学校の教員20人程度を対象にした、理科の知識向上のための勉強会を1時間行った。単元はエネルギー、仕事、力。教育の技術には自信はない自分だが、理科の内容の理解には自信がある。重力とは?重力エネルギーとは?仕事とは?苦手と予想される、電気の単元にも少し触れた。内容は、小学校のシラバスを参考にした。学校制度が変わって、プライマリースクールは中学2年までの子どもを指導することになった。しかし、教師の能力がそれに追いついていないという話を聞いていた。慣性とは?重力加速度とは?重いものと軽いもの、どっちが先に落ちる?こういう質問に感覚的に答えてしまう。一時間はあっという間に過ぎた。また来てくれと言ってくれた。こんどはきちんと、自分の仕事が評価できるような準備をしていきたい。

停電のほうは相変わらず。同じように夜7時に回復し、夜10時に消えた。ポントゥン、クラブに行く計画は停電とは別の理由で流れた。先週はオーナーが釣りに行ったから、今週はマヌスからビールが消えたから。現在マヌスは品不足に陥っている。燃料、ビールがない。

土曜日。朝はバスケット。子どもらにシュートの打ち方を教えた。前はふざける生徒が多かったので、試合前に、少し厳しめにルールについて簡単にふれた。基本的には、身体接触は許されていないということを叩き込んだ。すると、前よりもゲームらしくなった。いい兆しだ。

電気はやってこなかった。暑い中扇風機なし。

日曜日。ひたすらコトーのために家の出入口をふさいだ。彼は小さいがゆえに、人間が通れない小さな隙間から家の外に出てしまう。しかし、問題は家の下にやってくる犬である。猫と犬が極力出会わずに済むように、勝手に外に出ないように、家の小さな隙間をふさいだ。この日も電気は来なかった。

月曜日。朝起きるとやはり電気も水も出ない。お隣が分けてくれた水でトイレを済ました。仕事は通常通り。でも電気がないからテストなどは印刷できない。学校の同僚に話を聞くと、どうも燃料を積んだタンカーはマヌスに来ているらしい。しかし、なぜかそれが発電所に運ばれていないらしい、船長がこの日飛行機でやってくるらしい。実際その夜10時に電気は回復した。長い戦いが終わった・・ようだった。しかし水は戻らなかった。

火曜日、朝6時に起きる。水は出なかった。しかし、朝食を食べているとトイレに水がたまる音が聞こえた。水が帰ってきた!

停電と断水のダブルアタックは結構しんどかった。でも、生活は楽しい。コトーが来てから、自分の中で心のゆとりを感じられるようになった。生きることに必死、働くことに必死な自分とより生きやすい・・昔はそんな余裕をむしろ忌み嫌っていたのだが。贅沢は敵だったのに。人は変わるものだな。

24/08/10 終戦記念日とコトー

火曜日。停電が明け、水道も動き出した日。

もうかなり前に感じられるが8月15日のことを書く。この日は日本では、第二次世界大戦の終戦記念日。パプアニューギニアもこの戦争を体験している。日本はとても強い関係を持っている。こっちの人はみんな知っている。

ずいぶん前にインターネットで調べたところ、マヌス島を主とするアドミラルティ諸島は、アメリカと日本の軍隊の戦場となった。3000人以上の日本の兵隊が上陸し、そのほとんどが、この地で亡くなったらしい。そのことため、マヌスには石碑が建てられている。一つは日本が建てたもの。もうひとつはアメリカが建てたもの。その二つはモモティ、街から40分程度車で行ったところにある空港の近くにある。

日本人ボランティア4人で訪れ、石碑をきれいに磨いた。そして黙祷した。この島に来た日本人はほとんどが兵隊さん、そしてわずかなボランティアや研究者。兵隊さんのことを思う・・彼らは自分と同じような若さだったのではないかと思う。それは覚悟に覚悟を重ねたに違いない。私のように帰国後のことを心配するような余裕はなかっただろう。

そのあとは、モモティの素晴らしく美しい海で泳いだ。サンゴは生き、熱帯魚は人に怯えることない。海は・・水色。硫酸銅水溶液のような色(残念な響きですが、とてもきれい)もあれば、澄んだ色もある。ニモのお父さんのようなのも居た。

帰りに、Yさんの本拠地パピタライに寄って彼をおろした。そして、彼のすぐ近くに住む校長に子猫をもらえるか相談した。ずっと飼えたらいいのにと思っていた、以前の同居人Sさんの猫がパピタライで亡くなって以来、考えていた。現在の同居人と相談して、飼うことに決めた。生後2カ月の小さい猫。親は死んでしまったらしい。パピタライで飼われている猫は、犬によく攻撃される。Yさんがかわいがっている猫も殺された。その子どもである。

子猫、白と黒のまだら。シロでもなくクロでもない。名前は・・・と移動中に話していた。「オスだから男、オトコ・・コトーってのは?」というシンプルな案が出た。そうだな~マヌスは孤島だし、なんか呼びやすいし、いい名前だと思い決まった。コトーが住人としてうちに来た。

27/09/10 September

月曜日。今月ほとんどこの日記を書かなかった。気がつけば月末。書きたいことはいっぱいあった。ありすぎて、日々があっという間に過ぎてしまった。

9月の上旬、第三学期の後半で次の学期にある全国統一試験に向けて学校はピリピリしていた。といっても日本に比べたらぬるいものであるが・・。それでも、生徒の中には放課後教室に残って勉強する者がぽつぽつ居るようになった。そんな生徒に向けて課外授業がおこなわれることになったが、教師が来ないことが多いと、問題になった。自分は時間があるときは、放課後教室を回って、理数科目で問題がある生徒に個別に援助している。そんななか、教室を覗いてみると、生徒が集まって、教師が来ない状況に立ち会ってしまった。いたたまれずに、準備なしではあるが、生徒の多くがつまづいていた問題の解説などをした。来ている生徒はとても真剣。いつも教えているGr.9に比べたら集中う度合いが違う。こちらも燃えてくる。とてもやりがいのある仕事だとおもった。

夕方の帰り道、家の近くから聞き覚えのあるガラムッド(伝統的な打楽器)のリズムが聞こえた。それは、かつて国の教育省のお偉いさんが来たときに生徒が踊っていたもの。マヌスには各地に様々なガラムッドのリズムがある。生徒が踊っていると思い込んで、そちらに行ってみるとそこには生徒は居なかったが、もっと小さいこども、生徒ぐらいのこども、おじさん、おばさんが見覚えのあるシンシンを練習していた。見学させてもらったが、その踊りの世話人のWさんの勧めもあって、その日から一緒に練習することになった。その人々はバルアン島というロウ島の近くの島のシンシンを練習して、9月半ばにあるSHOW MANUS、というマヌスのお祭りで披露するらしかった。本番まで1週間、一緒に練習して、少しでも習得できたら生徒と今度踊れるかな~なんて思っていた。

1週間やってみると結構やれるものだった。お祭りも一緒に出ることになった。このチームは20人程度。Lorengau Mixという、少しかっこいい名前だった。バルアン出身の人が多いが、全員ではない。祭りには各地からシンシンを踊りに人々がやってくるが、各村々に暮さず街に出てきてしまった人たちは、シンシンを踊るチームがない。そんな人々が集まって作ったチームだから、Lorengau Mixということになったらしい。あまりモノの集まり。自分にとっても一番ふさわしい場所だ。バルアンのリズムはマヌスの中でも速く激しいと言われていて、私はかっこいいなと思っていた。日に日に上達していくのが楽しかった。録画して夜も師匠のステップを研究。衣装作りも仲間に手伝ってもらいながら楽しくやれた。

祭りの当日は、とても大勢が集まっていた。ただし、学校のある平日で自分はあまり見に行くことができなかった。幸運にも自分の踊る番は放課後の時間帯だった。もしも学校と重なったら学校を優先することは告げておいたが、本当に幸運だった。何せ直前までプログラムを誰も知らないという、イタイ状況だったからである。この祭りにはまたお偉いさんが来賓として参加していた。彼らを中心に祭りが動いているように見えた。ステージは来賓に面しながら、その後ろ側に一般の観客がいる。そしてステージの人々は皆、観客にではなく、来賓に向かって演技をする。観客は皆、後ろ姿を眺めるだけという状況。

Lorengau Mixは5日の祭りの中で合計4回踊った。総合、子供の部など審査もされたが、その結果を誰も知らない・・。ただ、私が踊ったときは観客の騒ぎ方が尋常ではなかった。外国人がシンシンを踊ることは、普通ではない。注目されまくった。司会者は私のことばかり、述べまくった。街を歩けば、バルアンマンギー(バルアンの男)と声をかけられまくり、握手されるようになった。ただ、チームのみんなはとても喜んでくれた、私も踊りの楽しさを共有できてとても幸せだった。日本で「踊る」という行動はとても特殊で、自分には向いてないとばかりに思っていたが、気が付けば、心から踊りというものを楽しめるようになっていた。

日本に帰ったら何か踊ってみようかな。