9.5.10

04/05/10 新生活

火曜日。

新しいボランティア、KさんとAさんと同居を初めて一週間が経った。良く言えば新鮮、悪く言えば落ち着かない感じ。それまでとは当然勝手が違う。

 

彼らは住環境の改善にとても積極的だ。自分がどこまでできるのか試したいとKさんは言っていた。州政府の持ち物である我が家の改善に最適な職場、州政府に派遣されていることもあって、住居の改善を要求した。かつて、そのような要求をしてきたが州政府は動かなかったと聞いていた。無いなら無いなりの生活を送ってきた。何もせずその生活を受け入れてきた。しかし、彼らは違った。自ら積極的に動いた。その甲斐あって、州政府の家の修繕を担当する人が我が家までやってきて、視察した。その結果、傷んだ屋根や床などの修繕にとどまらず、壊れた洗濯機の代わりに新しいものを置くことや、エアコンを付けることなど・・様々なことを約束したらしい。

昨日、月曜日。KさんはD社のツナ缶を食べた。私がかつて三度食べ、三度ボイルに罹ったことも伝えたが。その結果、今日彼の足にボイルの赤ちゃん、小さなニキビのようなものが足に出来ていた。私は調理せず食べていたが、彼は加熱して食べた。それでもダメだった。

今日、火曜日。カレーを作ったが、初めて中にバナナ、それも日本で食べるような甘いバナナを沢山入れてみた。処理する為に。バナナが大量に庭になって、お隣さんと分けて、さらに日本人3人で分けてもまだ余るほど。カレーは美味しかった。KさんもAさんもまだ慣れないのもあって帰宅後ぐったりして、料理する元気がないようだ。一度はカレーを作ると言ったら、ぜひ食べたいということで振る舞った。とても喜んでもらった。次カレーを作るときもぜひと。

でも・・かつてはほぼ毎日カレーを食べていた自分。料理をするのは自分も元気があるとき、帰ってすぐ、シャワーを浴びたいのをぐっとこらえてちゃちゃっと適当に作る。勢い、その場の心持ちで決めて作っている・・。大掛かりなことをするほど自分も、準備しているわけでない・・傍から見ると多分すごく簡単に、要領良くやっているように見えるのだと思う。かつて同居していたSさんから見たら相当要領悪そうに見えただろうが・・。何故か、そういうときに料理の頻度が増える。変な自信でも付けてしまったのかもしれない。

28/04/10 新隊員着任

水曜日。

月曜日。2学期の始業開始の日。その日に、新たなボランティア2人が、マヌスに、我が家にやってきた。これから残りの任期、来年の6月まで彼らと共に暮らすことになる。嬉しくも悲しくも一か月の一人暮らしは終わった。

空港まで出迎え。私の提案とYさんのセンスで段ボールで小さな看板「ようこそマヌスへ!」を作り、掲げた。自分がPNG、任地に来たときと他の任国の話の間のギャップに少し悲しみを覚えた記憶があったから。PNGでは特に歓迎会もボランティアは企画する習慣もなく、それどころかボランティア同士の仕事さえも適切に説明されない。PNGのボランティア事情は特殊で、JICAの協力隊派遣国で唯一男性限定の国なのだ。それはその国の治安の悪さが故である。そう言う訳で、今回来るのも当然男性なのだが、私はしっかり歓迎したかった。来てよかったと思って欲しかった。たとえ不器用でも。

その後昼食は唯一のレストランがあるホテルで。このような接待にYさんも私も全く不慣れでであったが。Aさんと、Kさん。お二人とも私より年上で、社会人経験もあり、大人だった。その後、Yさんは帰った。そして、街・・と言ってもとても小さいものだが簡単に案内した。この国のことだって分からない、そんな中で暮らしを始めるのだから大変に決まっている。それでも、二人が働くことになる州政府の人は、「明日7時半ね」と当たり前のように言った。私のときもそうだった。引っ越してきて落ち着くのに数日つかっても良いだろうにな、と思った。それを彼らも気付いたようだが、要求しないあたりが、日本人らしい気もした。買い物にマヌス唯一のスーパーマーケット、中心の市場、先月グランドオープンした薬局に案内した。しかし、スーパーは荷が無いらしく、米も小麦もマーガリンも売っていなかった。2人はさぞ行く末が不安だと思う。貧弱な料理だが、私の日常食、炊き込みご飯を振る舞った。

 

火曜日。授業が始まった。まだ、休みから学校に戻ってきていない生徒も多かった。しかし、授業を進めた。近所の小学校の教員向け理科講習会の日程を話し合って、再来週に決まった。少しづつ、でも確実にできること、したいことが出来ていることがすごくうれしい。自分の能力で、自信を持って、人を幸せにできること。

 

水曜日。AさんもKさんも住居の改善にすごく積極的である。私は、一年弱過ごしたせいか、様々不満があっただろうが、適応してしまっている。雨漏り、ドアが閉まらない、床が抜けていること、洗濯機が壊れていること・・エネルギーがあるときにしか、人はやらない。これは真実だと思った。今の私は、それらが改善されたらいいなと思いながら、簡単に妥協してしまっている。むしろ、二人に満足のできる家を見せられなかったことが残念だったくらいだ。

彼らは州政府で働くという特権を活かして、苦情を伝えている。我が家を管理することになっているのは州政府のなのだ。自分はすぐに、とてもいい家に住んでいるよ、なんて言ってしまう。不満無きところに改善は無いということだ。

学校の音楽の先生に、バロック音楽のギター用の楽譜を見せたらとても喜んでくれた。バロック音楽がカリキュラムにあって、教材が無いから。しかし彼は、必要なときにコピーさせてもらいに行くからそれまで、持っていてくれと言った。自分の部屋は生徒が頻繁に入って物が無くなるからということだ。

 

2人はまだ何もしていないのに疲れてしまう、と言っていた。痛いほど分かる。何故か自分でもわからない。気候のせいか、言葉のせいか、価値観の違いのせいか・・とにかく私も食が大きくなったし、睡眠時間も増えたし、それでも体調が万全でないことも頻繁にあって・・・馬鹿にされるかもしれないが、2年間生き抜いただけでも立派なんじゃないかなと私は思う。

23/04/10 お喋り

金曜日。

昨日、木曜日。小学校の校長Mr.Wには約束はすっぽかされた。これを文化と言って納得していいものではないような気がする。

約束って守られないと不自由な思いをする。

昨日、PaitalaiからYさんが街にきた。久しい。現在マヌス島に日本人は二人。私と彼。

たくさん話すべきことがあった。

分科会のこと。

結局中止になってしまったが、まだ未来がある。これからどうやっていくか。年に2回の上京の機会のうち1回が7月にある。その時、理数科教師ボランティアは何ができるのだろうか。

 

活動全般のこと。

この島には飢餓なんてない。ストリートチルドレンもいない。皆が日本みたいになりたいと思っている訳でもない。責任も無く、のんびり暮らしたい人もいる。世界中にあると言われている発展途上国の中で、このPNGにやってきて・・ささやかな幸せを与える。モチベーションを保つのが容易ではないのだ。日本を離れて、頑張ろう!って思えるのは、自分の仕事が価値があると信じているからである。既に満足だと思っている人たちを、大満足にすることよりも・・今日生きるのにも苦労している人たちに手を差し伸べるべきだと思う。JICAの募集にはそう言う思想が見られない。「発展途上国」をひとまとめにして、同じ様に扱っているがそれでよいのだろうか?

Papitalaiの生徒が近年無かったような荒れっぷりらしい。生徒が授業に来ず、ドミトリーに籠ったり、ほっつき歩いたりしていると言うのだ。教師はいつも通り頑張っているらしいのだが・・。学ぶことを拒んでいる生徒に学ばせなければならない理由は存在するのだろうか。これは学校の在り方を問う、根本的な問題だ。教員志望の身としては、教師の質について考えを巡らせる。「いつも通り」でない生徒に対して、対策を取り、生徒に必要な資質(これが難しい)をつけてやるのが仕事。しかし、村に居る保護者は教育に全く関わろうとしていないのかもしれない。と言うか、寮生の場合は普段その場にいない。これは、日本の高校よりも教師の負担が大きいと言える。教育に対する責任が大きい。家庭や地域の関わりが無い。日本と比べて見えることもあるかもしれない。

 

その他

Yさんのウェブでの調査によって、私たちの今いるマヌスはアドミラルティ諸島と呼ばれるが、太平洋戦争時になんと3000人以上の日本人が亡くなった大きな戦場であったことが分かった。PNGの戦場と言えばラバウルと皆いうが、悲劇は至る所にあったのだ。この島にきた日本人の大多数は観光客でも、ボランティアでもなく、兵士だったのだ。しかもその大半がここで死んだというのが事実だ。だから、マヌスの人、特に年配の方にとっての日本、日本人のイメージは兵士になるのはものすごく自然なことなのだ。

 

 

Yさんは最近、体調を崩したりしたことも重なって、今しんどい思いをしている。ボランティア間の交流はほとんど無いため、他の国のボランティアがやっているように仲良しで集まって息抜きすることもできず、活動の意義も見出せなくなってしまったら・・。彼自身、少し中休み、と自覚しているようだった。

 

 

ずっと書けなかったが、猫、我が家でSさんが飼っていた猫が死んでしまった。その子は新隊員が猫好きか否か判明するまで、Yさんの家に引き取られていた。Papitalaiで彼は果ててしまった。私はまだ、どこかで好き勝手にはしゃいでいるんじゃないかと・・なかなか受け入れられないでいる。SさんにはYさんから伝えたということだった。私は猫をペットとして飼うことに初め抵抗があった。そんな私でも、その子はなつき、可愛く思えた。Sさんの居ないときは一緒に寝たりしたものだ。人の死以外は安っぽいものだから、人以外は何でも食べられるし、悲しむべきものでもない、それを悲しむのは本来日常であった動物の死に不慣れであるが故だと。頭でそれを理解したが、その子の死は、それまで音楽を作ろうにも、途中で必ず挫折していた自分を最後まで追い込むほどのものであった。彼の死は、私の中でずっと生きている。生命の価値というものが、考えれば考えるほど分からない。猫の死にうろたえながら、カスカスを食べる自分。気持ち悪い。でも、誰が何と言おうと、それを愛しく思い、それを失って悲しいと思える対象になり得る。それだけ、ただ生きるということが、劇的なものだということなのかもしれない。

まだ何も私の中で答えは無い。それでも今日も死の上に立って生きていく。