27.11.09

27/11/09 さらにcoming

金曜日。様々なもの来て。そして去っていった。

ボランティア調整員Sさんがマヌス島に来た。彼は現地人の安全対策アドバイサーも連れてきた。彼らは水曜に到着し、我が職場に来て教頭と挨拶をかわした。その夕方我が家の安全管理を確認した。

我が家は針金とバラ線のフェンスに囲まれる高床式住居。全ての窓には鉄の格子が付けてある。番犬はいないが、二世帯式の家で、お隣さんがいざとなればきっと助けてくれる。そして、マヌスはPNGで最も安全だと言われている。周りの家はここまで安全に気を使っていない。ここまで敷居の高い家はこの島に数軒しかないだろう。

しかしかつて侵入されたことがあり、実際フェンスには穴があいている。針金フェンスを1m四方買ってきて付けるといいということだった。しかし「見積書」をもらってからでないとお金の補助はされないということで、少し面倒だなと感じていた。しかし何か起こってからでは遅い・・・。

その夕方は私が事務所員2人にカレーライスを食べて頂いた。同居人Sさんは村に出張中のため私がやるしかない!味覚の鈍い自分の料理はいつも適当であるが、少し丁寧に・・・調味料は私の愛(痛)。毎週2回もカレーを作っているため、完全なルーティンであるが。お世辞でも美味しいと言って下さった。色々伺いたいこともあったが、車の都合でゆっくり話すことができなかった。

彼らが去った後、洗い物を済ませようとしたとき、招かれざるものが来ていることに気がついた。「断水」だった。しかし、この断水は段階的だった。水の出が悪いと感じて、水不足かと思い、慌ててタライやらバケツに水を溜め出したがしばらくして出なくなった。しかし隣の家は出るようだった。彼女らは水を分けてくれた。しかしお隣さんも出が悪いようだ。しかしワスワスしなよという。シャワー浴びな、ということだ。隣の家の人たちは普段から家の中のシャワー室を使わない。中は暑いし狭い、外の方がリフレッシュするらしい。

というわけで外で少年Rと水浴び。本当に1日2回シャワーを浴びないと気持ち悪い、と思うようになってしまった。こちらの人は2回かそれ以上浴びる。学校では2回にしろ!節水しろ!と先生が注意している。そして、蓄えた水で一夜を過ごした。

翌日、木曜日は授業を事務所員に見てもらうことにしていた。しかし、授業は無くなった。切羽詰まった生徒の評価のために授業を潰してテストが行われたのだ。日本の学校と異なり、テスト期間というのが無いからこういうことが起こる。仕方がないので調整員には謝り、取りとめもないをした。しかし私には聞きたいことが沢山あったので、夕方また会う約束をした。

学校は水が使えていた。よい勢いでトイレの水も流れた。我が家は朝、桶から水を使ったのに。

夕方調整員Sさんはフェンスを買って下さった。それを少年Rと針金でくっつけた。その後パピタライ村のYさんと3人でホテルで食事をした。唯一のレストラン。パピタライの高校は既に評価を終えて、授業はほとんど行われていないということだった。我が学校もそうなるのだろうか・・。そういう訳でYさんは平日にも関わらず街に来て一泊することにしたのだ。

調整員Sさんは物腰柔らかい方で、私の聞きたかった様々なことを話して下さった。PNGの事務所の方針、PNG、他の国の状況、調整員について・・。身の上話も交えながら。時間はあっという間に過ぎた。御馳走になってしまった。帰ろうかというところでレストランに自分達に良く似た顔立ちの方が二人。自分の祖母くらいの年齢と思われる男性と若い女性の方だ。

「こんばんは。」

えっ?

ここマヌスでJICA関係者以外の日本人に初めて会った。言語学、民族学など広い分野を研究され業界ではとても知られている方々のようだ。数回マヌスにもいらして村も訪ねているようだった。大統領に呼ばれたとか・・。ピジン語の特徴、その文法でも学術書を書かれているらしく、この言語の面白い話を伺った。そして何より、私たちボランティアにとても気を使って下さって、様々なものを分けて下さった。消毒用布巾、かっぱ、絆創膏、お湯で溶かすスープの素、巻尺、せんべい・・・その心に私は満たされた。初めてお会いするお二人に良くされた。

帰ったら夜10時、早く眠らないと翌朝辛いぞと思いながら溜めた水で身体を洗おうと思ったらシャワーが出た。すごく嬉しかった。定型文のようだが水があるってありがたいことなんだなと改めて思った。きっと無いところで当たり前のように暮らしているアフリカの人は、それを知っているのだろう。

今日金曜日はSさん、Yさんとで州政府の教育部門に挨拶に行った。初めて州政府の訪問だった。Masoboの監督の奥さんは学校秘書を辞めて州政府の教育部門の秘書になっていた。お偉いひとに聞きたいことはいっぱいあった。「教師は不足しているのか?」ということ。現在来年の教師の配置を話し合っているところだ。我が学校の教頭も言っていた「教師が不足している」と・・・ここでも言われた、そして教員の配置には既にボランティアも数えられているというのだ。それでいいのか?現在私の学校は600人の生徒に対して30人の教師が働いている。私はよく分からない・・これは不足なのか?生徒20人に対して1人の教師がいるのだ。理科に関しては物理・化学・生物にそれぞれ知識を持った担当の教師がいる。これについて突き詰めるには様々なデータがいる・・教育部門は学校の学期終了後もしっかり働いているということで、また伺うことにした。

金曜日の最後の7と8限は授業が入っているので引き揚げた。この授業をYさんにみてもらうことにした。そして撮影してもらった。自分が成長しなければいけない。生徒のためにも、自分の未来のためにも。金曜最後ということで生徒はダレていた、少なかった。20人程度いただろうか。80分の授業、私もすごく長く感じた・・生徒にとってはもっとそう感じただろう。実際私は5分早く終わったが、横の2クラスは誰も授業してなかった。やりながら、質問の仕方に反省したくなったりした。ぐったりしている生徒を見ると申し訳なくなる。授業終了は通常1時50分、それは腹ぺこだ。一人授業と関係ないことで騒がしい生徒が居た。この生徒に対して何かしてあげないといけない・・。このままでは全体にとっても彼にとっても良くない。今まで、外国人ということでそこは気付かないふりをしていたが、何か考えようと思う。

反省

生徒には気体の性質など教えてきた、それを使って陸風と海風を順序だてて、ストーリーをもって説明させたかったのだが・・・

授業の導入:もっと生徒が興味を持つような導入、これから「今まで勉強してきたのは自分たちで風の向きを説明するためなんだ!」ともっと強く言えばよかった。「なんでこんなくだらないことしてるんだろう・・」、と生徒に思わせない工夫をしなければいけない。

発問:実際沢山の質問をした。そうやって論理を組み立てさせた。しかし、その構成の問題が存在した。

生徒に助けられていた。このクラスは態度に関して問題があるとかつてKさんに聞いていたクラスだ。しかし積極的に教師の発問に反応するエネルギーのあるクラスだ。同じ授業を自分のもう一方の比較的行儀のよいクラスでできるだろうか・・。

改善の必要がある。日本に帰ったとき、教師として何か違う自分でありたい。こちらの教師はあまりこういう機会を持たない。各スタイルの尊重に重きを置いている空気がある。同僚に研究授業、提案してみようか・・。セッティングに苦労しそうだが。彼らのためだと思わず、自分のために。彼らが必要性を感じなければおそらくいくら素敵な勉強会が軌道に乗っても、私が去って無くなるのだ。この勉強会を通して、教師間の教育に対する意識が芽生えないものかとも思う。知識や職人意識の無いMr.P、彼のサポートをみなでするチームみたいにならないだろうか・・。

 

色々あったが、ともあれ金曜日。水も出るようになった。S調整員も首都へ帰った。Yさんも村へ。今日はゆっくり寝よう。

24/11/09 coming

火曜日。

いろんなものが一度に来る。

「期末」

教師は生徒たちの評価をするために必死だ。もっと計画的にやればよかったのに・・。言いたくなるが、他人事にならず、中途半端に作られたテストが私のところにやってくる。Mr.Nはいつも通り、途中で仕事を投げ出す。今回は理科主任が彼の後始末をした。それで何も言わないのが不思議だ。私も生徒の宿題、なんとも読みにくい手書きの文字と格闘している。

「ボイル」

やはり、彼は大きくなった。でも早めに処置したので増えることは無さそうだ。日本から送られた「あせも用」の薬がいい。こいつを乾燥させられないか・・。膿んで膨らんでいる。また歩きづらくなってきた。このボイル先週の日曜からだが原因については心当たりがある。ツナ缶だ。Sさんと迷信だと笑っていた諸説の一つ。ボイルになってずっと食べるのを止めていたが、その痒くなる前日の土曜日、私は久しぶりにそのツナ缶を食べたのだ!停電だったから。これは偶然なのか?バスケ仲間の言う「シンガポールの科学者が汚染されていると言っていた」という言葉がよぎる。もはや笑えない。そしてもうD社のツナ缶は食べられない。

「事務所職員」

首都の事務所からマヌス島へ職員が出張に来る。明日、水曜から金曜まで。私の職場にも視察に来る。一緒にお食事でも・・と言われているが、自分はカレーライスしか作れない。食べてもらうしかない。彼はホテルに泊まる。そこでは立派な外食が出来るがちと高い。彼に色々伺いたいことがある。会うのが楽しみだ。

 

朝起きて、自分が隣の家の少年Rだったら・・という話をSさんとした。

Sさんは死ぬという。

私は・・とりあえず妄想を続ける。

朝起きたらご飯が無い。無性にブアイが噛みたい(甘いものが食べたいみたいなものか?)。家族と言いあいを始める。勉強したくても本が無い。授業に行っても教師がいない・・とにかくお腹が減る。働いても大家族に吸い取られる。雑務を年上・教師から命令される。勉強したところで一握りしか大学に行けない。学校を止めれば、そこから死ぬまでずっと同じ変化の無い生活だ。ぶらぶらして、畑して、またぶらぶらする。かつて隣に住んでいたホワイトマンから学んだ日本語を自慢げに使う「オハヨウゴザイマス!」

こんな生活で希望を持って暮らせるか・・?自分は簡単に死なないが、どこまでやれるか・・。私はこの世界を変えられると信じて生きているが、そのような可能性を信じられること自体恵まれているのだ。もちろん、彼らの生き方が悲劇だというのは、私の尺度で見た結果だ。しかし、事実こちらの人は日本の暮らしを「うらやましそうに」見ているのだ。

ボランティアっていうのはこういう目線が必要なのかも。

どこの国の子どもに生まれても、世界を恨まずに済むような世界であって欲しい。そういう世界をつくらなければ。

少なくとも、自分がPNGに生まれたら、既に色々な可能性から見放されているのが分かる。もしかしたら日本もそうなのかもしれない。日本人では戦後の国連の体制を変えられないという人もいるかもしれない。

私はよく知らない。でも、自分にできることがある。まだエネルギーがあるのでやるだけやってみる。

23.11.09

22/11/09 PNGタイム

日曜日。昨日は生徒の親戚の誕生日会に誘われた。1か月以上も前に招待状をもらっていた。祝われたのは男性の警察官で50歳の記念だった。

2時ということなのでその時間に会場であるホテルに行くと、4人しか居ない。やはりPNGタイムが適応されたか・・。誘ってくれた生徒も見当たらない。待つことにした。4人は一家族だった。招待されたらしい。雨も降っているからね、と濁した。その家族の長、父親はなんと私の同居人Sさんの同僚らしい。州政府の方だ。色々話を聞いた。一番興味深かったのは時間に関する話だ。自分は日本時間を捨ててPNGタイムに慣れなくちゃね、と言うと彼はNoと言う。PNGのやり方を学んだ方がいいのでは?というとそんなことはないという。日本でやったようにやり、我々に見せつけてくれという。そうすれば変わると・・。

PNGの人々はPNGタイムをいいと思っていない。悪しき習慣として捉え捨てようとしているのだ。勿論一部の人だろう。でもPNGタイムを絶賛する人を見たことがない。サッカーの試合、おばさんとの約束、飛行機。待たされると周りの人は苦笑いして、申し訳なさそうにPNGタイムという言葉を発する。

私が背中で語ったところで何も変わらないと思う。4人のボランティアが私の前に学校に居た。大事なのは制度では?遅刻・欠勤が数えられないようではだめだ。

結局誕生日会は3時間遅れて5時に始まった。主催者、祝われるべき人が一致しているためひたすら忙しそうだった。こちらでは祝われる人がお金を出すし、準備する。送別会もそうらしい。夜まで続きそうだったがお酒が出回りだしたところで帰ることに。帰り際に、買ったベルトと故郷から届いた味付海苔、故郷のお寺、瑠璃光寺の写真をプレゼントとして渡して帰った。ホテルの外も酔っ払いがうろうろしているのが見え、絡まれるのが恐かったからだ。日本で感じたことのない恐怖である。

今日も外で酔っ払いが叫んでいる。自分はせっせと200人の宿題の採点をしている。市長戦は今週は参加しなかった。雨でかなり日程が狂い、平日も試合をしている。無理せず参加するようにしている。毎週のようにある停電にも困っている。この採点さえ終われば一息つける。しかし、自分の本当に為すべきことについてもっと真剣に考えなくては、ただ忙しく過ごして2年間終わってしまう。

20/11/09 責任

金曜日。今日の中休みが自分が課した宿題、アサイメントの締切だった。集めた。

この宿題の為に今週は毎日生徒が実験室に来て岩石・鉱物標本をスケッチした。素直に感動してくれる。でもこの課題を運営をして色々問題が浮き彫りになった。

まず生徒の態度。この一週間で一つの標本が壊れた。生徒には壊れやすいから気をつけて触るように指導する。それでも硬さが気になるようだ。というかそのような繊細なものの扱い方を知らないのかも、とさえ思う。また、一つの標本が紛失した。生徒たちは無くなるから先生が目の前で見てないとだめだよと言っていた。しかし、私は持って色々な方向から見ないと分からない様々な特徴に気付いて欲しかった。気付いた生徒は居た。それはとても嬉しいのだが、代償が大きい。もちろん永遠に壊れないものでもない。天然資源とそれを使う人間の関係の縮図を見ているようだった。もう一つの問題は答え写しが非常に多いということだ。スケッチしにきた生徒があまりに少ない。心配したが、ほとんどの生徒の課題用紙にはきちんとスケッチがしてある・・・観察してあることが一字一句同じだったりする。せっかく生の教材を見るチャンスなのに・・価値を生徒が感じなければ仕方無い。教師の、自分の力不足を痛感すると同時に魅力を受け取れず、勉強の機会を失った生徒に申し訳なく感じる。

次に教師、同僚の問題。水曜日の教員会議で全員で確認した役割を果たさない教師が現れた。Mr.Nだ。彼は木曜日の図書館の監視の担当になっていた。この宿題は自分で調べなければ完成できないようになっていた。だから生徒は図書館を使う必要があるのだが、宿題を出した教師らが開放しなければ生徒は図書館は使えないのだ。彼は生徒に「すぐ戻る」と言う言葉を残して昼休み前に去ったらしい。開いていない図書館の前で生徒はそこに居ないMr.Nを非難していた。自分は実験部屋を見ていなければならない・・。なんとかできないか、走りまわったが、鍵を持つ教師も外出し、術は無かった。そのとき私が図書館監視の応援を求めた他の教師が、岩石標本が沢山貼ってあり説明してある板の教材を持ってきた。「これに色々書いてあるから勉強できるだろうと・・。助かった。これは火山岩と分かってスケッチしたって面白さは半減するから、あえてその教材は私は使わなかったのだ。しかし、あるもので図書館の代用とした。それで生徒らは納得した。自分だったら納得できるはずないが・・。Mr.Nは誰の前で約束しようと約束を守れない、そしてそれを誰もとがめないということも分かった。責任という言葉を誰も使わない。

今日は金曜日で教師内での勉強会的なものがあった。毎週職員会議があるが、学校運営のことを話すときもあれば、このようなことをすることもある。今日のテーマは適正な体型について。BMIについて紹介された。健康的な体型をしている自信があったため、特に感慨もなく話を聞き、実際に体重・身長を測ったら、驚いたことに体重なんと5kgも落ちていた・・・。60kg。174cm。BMIが20を切った。太ったんではないかと思っていたくらいだったから、ショックが隠せなかった。基本大量の米とパンを作りためた朝晩カレーと一緒に食べている。昼は帰れないのと、冷蔵庫が無いことからこんがりとトーストした食パンを持ってきてかじっている。

協力隊ダイエット・・油断するとやせる。同僚に話したら、親には言わない方がいいよ、すごく心配するから、とアドバイスされた。働きすぎだよ。

ここに来て、家族の大切さを感じる。隣のいつも子ども怒鳴ってる、「嘘つき!」なんて言いあってる家庭の声を聞きながら、自分の育った環境を想うのだ。隣さんで私が育っていれば、常に人を疑いながら育っていただろう。いつか見た、母親と小さな自分が映っている写真。もちろん記憶は無いが、それを撮影した父親、その部屋の雰囲気を想像する。愛されていたんだな。良く作ってくれた蒸しパンの味、自転車の後ろの籠に私を乗せて花火へ連れて行ってくれたころの記憶は未だにある。愛おしくなる。別に昔の話ではない。父親は心配のあまり事務所まで電話し、母親は23年目の私の誕生日に初めて生まれた時間を教えてくれた。自分はなんと愛されているのだろうと。

だから、絶対死にたくない。

ネットがつながり、Sさんから色々巷を賑すニュースを聞く。そのなかで、ヨルダンでボランティアが拉致されたこと、カンボジアでボランティアが亡くなったことを聞いた。そして自分のいるPNGのことでは、最近ボランティアが集団リンチを受けて首都に避難したというのだ。中国人排斥運動のせいもあってかなり、危険な場所もあるようだ。1000人を越えるデモが首都であったとか・・。自分は決して安全な場所に居ないということを再認識した。

でも、絶対死ぬわけにはいかない。

17.11.09

17/11/09 開通の恩恵

火曜日。最近慌ただしい。この街唯一のスーパーマーケットはもうクリスマスの飾りがついている。学校は全11週の4学期のうちの8週目ということでノルマ達成に必死になっている。

さて、今日は週末約束したマヌスバスケットの取引日。しかし彼女は約束の時間に来なかった。

一時間待ったがさほど苦ではなかった。街は知り合いが沢山おり、見かけた顔と話しこんでいたらあっという間だった。かつて隣村の同期隊員Yさんの学校の新学試験の激励会の際に会った少しビックマンらしそうな人に挨拶された。自分は、バスケの監督と完全に人違いして、「今日はバスケやるの?」ってな具合の調子で話始めた。かなり申し訳なかった。

彼は私とYさんの披露した「島唄」に感動してくれていた。そのことを褒めてくれたあと、何やら相談事があるようだった。自分の仕事でボランティアの助けが必要だ、というのだ。こういう話は良くされるが、「私を助けて」に近い気がする。「では今度家でゆっくり話を聞かせて」というと来ない。今回は少しこの方、Mおじさんはそれとは少し違いそう・。このマヌス島の東部は街からも遠く、公共サービスから見放されている、というのを村落開発をしている同居人Sさんから聞いていた。MさんはそこのLLGを面倒見ているらしい。村々の集合体、郡の世話人と言ったところか。しかし彼の職業は海軍関係。職業ではないようだ。電話番号を交換し、村落のSさん、ボランティアの調整を行う方に連絡する旨を伝えた。

その次は同僚。理数科全体を取り仕切るMr.Sだ。彼はしきりに私に女性を勧める。PNGのメリー(女性)と結婚しろと。かつてのボランティアも付き合ってたぞ!と。しかし、男女関係のこじれで暴力沙汰、最悪は殺人事件が起きたという話は聞く。よほど信頼できると思う人が現れたら考えるが、今はそういうことに情熱が向かない。彼はというとそこそこ楽しんでいるようだった。ちなみに既婚者だ。PNGは男の決断が全てだ!と豪語していた。ジェンダーってこれのことですかね。

Mおばさんは来ず、家に行ってみると彼女は村に帰ったという。いつ帰ってくるか分からないらしい。そうですか、プレゼントは自分で買うことにした。

家に帰ると、隣の家の男の子が家のほうに来た。実際、家は接している。Sさんはこの少年Rが大嫌いだ。初めは面倒見ていたらしいが、どうしようもない失敗を重ね、裏切られ、見捨てるに至ったらしい。だから相手にされていないが、何もしらない私に色々頼む。話は聞いていた。でも、自分は何も知らないので、出来ることは助け、そうでないことは断っている。確かに図々しくも見える。私というより、私のものに関心がある、といった具合だろうか。PNGの人が全員そうであるということではない。ただ彼は中学生。信頼関係は少しずつ出来ていくものだ。完全に切ってしまっては何も生まれないと思ってゆっくりと手を差し出す。いつかは私のパソコンで海外ドラマを見せた。この前週末はどうしようか迷った挙句、晩御飯を振る舞った。腹減ったというし、彼の家にはなんと誰もいなかったからだ。停電だったため鍋で米を炊き、見事に焦がした。それを分けた。現在はSさんが首都に行っているからそういうことにした。しかし、今日は断った。無理ない範囲で付き合うことにしよう。過度にサービスする必要も無い。疲れたら疲れたという、不安なら不安だという。

Sさんの飼い猫の世話を頼まれている。可愛い。しかし、不条理さを感じるのだ、なぜこの猫がこちらの人たちが食べられないような贅沢品を食べるのか・・。腹が減ったというこの少年や昼の同僚のことを思うとなんだか違和感を感じる。SさんがPNG去るとき、この子の世話は他の人に頼もうと思う。

 

最後になってタイトルの恩恵について。

ウェブで他国で活動しているボランティアのブログを見た。似たような問題を抱えていたりするものだ。特に教育関係の方は構図が全く同じ。違う職種でも似たような感想を途上国で持つものだ。または全く自分と違う環境だったりもして新鮮だ。自分の仲間が遠くで頑張っている。回線速度の都合で写真が見れないのが残念だが。ブログの更新の様子で心配して下さる方、噂やニュースを聞いてメールして下さる方。私はこういう人から受け取る力のすごさを知っている。少しくらい無茶が出来るものだ。だったら自分をそう言う環境に置くのが一番いいだろう。自分はペタペタ色々なモノに触り、落ち着かない。だから、深い根を張れなかったのではないかとも思う。しかし、誰かはそんな私を見ていてくれて、声をかけてくれる。「走ってていいんだな」そう思ってまた私は全力疾走を続けるのだ。そういうことに気付いてから、自分の生活でそういう人を大切にしようと考えるようになった。そして自分も誰かを安心して走らせることができればと思う。このブログも、メールもそんな人々との懸け橋となる。

PNGではまだそういう出会いは無い・・こともない。

お母さんみたく世話焼きなおばあさん先生Ms.S、来年からはまた一緒にプレイしようと言ってくれるMasobuの監督。今回は先生のチームにチャレンジだ!と言ってくれるチームメイト。特に一緒に中盤を組み立てた今年高校卒業のJはとても責任感があり、かっこいいがアホみたいに笑う。「tenkyu, hamamas(ありがとう、幸せです!)」が口癖の彼の進路が気になる。私がバテたらいつも助けてくれた。隣の住人Pさんは穏やかで雑誌に日本のことが載ってたとわざわざ貸してくれた。歌を教えてくれた姪っ子Zは元気にしているだろうか。

こういう人に出会えたから、色々不満があっても頑張れているのかもしれない。

 

そう言えば最近また発疹が出来始めた。水ぶくれになっているものも。痒い。ボイル再来か・・。おお怖い。

14/11/09 名前・言葉

土曜日。一週間の疲れをとりたいところ。

昨日も1時間程度サッカーをした。金曜は飲みに行くひとが多く、人が少ない。それでも行きたくなったのは昨日覚えた顔と名前をすぐ一致させたかったからだ。

特徴のない顔・・に見える。けれど、それは彼らのことを何も知らないからだろう。少しずつでも色々な話をして、ひとりひとりのファイルを私の中に作るしかない。

今日は市長杯は雨で中止。グランドからの帰り道Mというおばさんに会った。「私のこと忘れたでしょ」と。またか・・。でも今回は私に覚えがあったから大丈夫だった。バスケットしたとき、コートでだべっていたおばさんだ。

私から相談を持ちかけた。来週末にある人の誕生パーティーに呼ばれている。生徒の親戚の50歳記念らしい。プレゼントについてだ。

ブアイ(ビンロウの実)をダカという植物と石灰の粉と一緒に噛む。興奮作用があるというこの嗜好品でこちらの人は口が真っ赤で赤い唾を吐くわけだが、これがよく贈りものになっている。マヌスバスケットにこの3点セットをいれるのだ。

Mおばさんは私に何処で買うのかと尋ねた。市場で買うと答えると、市場のはだめだという。彼女の知り合いが作ったやつがいいよらしい。面倒なことになりそうだったが頼むことにした。

話をしていて、彼女が不機嫌そうに見えた。私がピジン語をすぐに聞きとらないからのようだ。彼女は私に共通語ピジン語ではなく、彼女のトクプレス(村々固有の言葉)を私に吹き込む。無理だよ~と思いながら。挨拶や身近な単語を覚える。

こっちの人はすぐ叫ぶ。隣に住む現地人も子どもを大声で怒鳴るし、子どもたち大声で対抗する。道でも言いあいを見る。それがすごく恐い。すぐ怒っている。きつく聞こえるのは言葉に対するイメージの差かもしれない。「ギアマン(嘘つき)!」なんて叫ばれたら私だったら傷つく。でも、こっちでは頻繁に耳にする。

名前の件もあって、最近道をあるくのが少し恐い。こうやって引きこもるのかな・・でも部屋にいた方が落ち着くのは紛れもない事実。言葉の壁を越えればある程度楽になる気もする。英語もピジン語も使わなければならない分上達しにくいのかも・・。とくにリスニングが。どうしたものか・・。いい友達を作るのがいいかな。何でも腹を割って話せるような・・。

13/11/09 雪解け

今日は金曜日。昨日、即ち口論の翌日ギクシャクしたこの関係をどうしたものかと考えた。落ち度が自分にもあったのは事実・・。しかしここで全て自分が悪かったなんて言ったら、逆戻りするに決まっている。

そうこうあれこれ考えながら、課題のために理科実験室の準備をした。今回の単元はEarth。地球の内部、岩石を取り扱う。国指定のシラバスに沿いながら工夫している。せっかく自分は地学を4年勉強したんだから。実験室にはいつからか分からないが立派な岩石標本がある。近くの火山島の黒曜石があるのはいいとして、日本産のザクロ石、雲母などの立派な結晶。いつか寄付されたのかもしれない蛍光を出す鉱物標本。鉱石はこの国のものだろう。しかし・・基本的に小さい。みんなに見せるにはどうしたものかと考えた結果、宿題にした。彼らにスケッチさせる。そのかわり、毎日私が生徒を受け入れなければならない。課題を与えるときは通常図書室を開放するのだが、今回はどちらもということで少し大変なのだ。

準備をしていると反対側で声が・・Mr.Pが授業をしている。意識してもしょうがないので準備を続けた。なんでこんなに動揺しなければならないのか。クソ日本人なんて言われてんのかな~とか想像してしまう。理科主任が私の主張を彼に伝えてくれたらしい。主任に「私から何かした方がいいですか?」と聞いたが、「いいよ、そのうち彼から謝りにくる」ということだった。しかし今のところそれは無かった。

ともあれ授業は終わって生徒が出てきた。隠れているのも気持ちが悪いので、彼のいる部屋へ標本を取りにいった。第一声・・・かなり出遅れての

「Good Morning, Mr. P」が、私から出た。

「Good Morning, Mr. 」が微妙な笑顔から出てきた。

ぎこちなさに気持ち悪くなった。昨日のことで、言わなければいけないことがある・・とMr.Pに近寄って話した。

きちんとあなたのことが理解できなくてごめんなさい。しかし、僕らの仕事にはあなたの助けが必要だ、僕らは一つのチームだから・・。

素直に自分の非は認めた。そして手を差し出した。握手した。

「こちらこそ怒鳴ってしまって申し訳ない。」

彼も謝ってくれた。和解成立。彼が今後遅刻をしない、約束を果たす・・それは分からない。でも、このまま不愉快な気持ちで仕事を続けるのは辛かった。しかし実際に偉そうに言えることは無いのかもしれない。

施すことに必死になっているが、やはり学ぶ姿勢・・教育実習に行くような気持ちもどこかに無いといけないはずだ、と再認識した。

 

今日は二人の生徒から色々考えさせられた。

一人は、とても日本に興味を持っている生徒。授業では教えてないが、頻繁に教えた日本語で挨拶してくれる。その彼と話していると、何歳?という質問が出てきた。「あててごらん。」と言うと、23歳と一発的中。驚いた。多くは二十代後半と言われるからだ。にやにやして「ということは1986年生まれだね」。ごもっとも、計算も速い。すごいな~と思って「何歳なの?」と聞き返せば「23。」なんとここで同い年であることが判明。それですぐ生まれ年も分かったのね。と合点。彼は来年で高3になる。若く見えるけど、制服のせいかな~。

もう一人は帰り道にあった。「こんにちは、S(私の名前)」と声をかけられた。実際すれ違えばほとんど挨拶する。そんな中だったから特に気にせず「こんにちは!」と元気に返していたら。もの言いたげな顔をしている・・どうしたんだろうと近づいて「元気?」と聞いてみる。「俺の名前覚えてる?」と聞き返された。うむ~、覚えていない、それどころか何処で出会ったかも、生徒なのかサッカー仲間なのか、市場でおしゃべりした人なのかさえ分からない。「ごめん」と謝った。彼は教えたことはないが、生徒だった。正直何人も同じ顔に見える人に会う、親戚なのか、私に観察能力が足りないのか・・。まだ自分の持っているクラスの生徒も全員覚えられていない。そんな重箱の隅を突くようなことは止めてくれよ・・。そう思いながら、彼に謝った。生意気な態度で不機嫌そうに、私のサッカーのことを批判したので、そこは引かなかった。今度は点取れよ、なんて適当な注文をするので、サッカーは学んでる。ベストは尽すけど、何かを約束はできないときっぱり言った。しかしなあ、名前を覚えていない、そういう失態で困ることが多い。メモを取り出し彼の目の前で名前を書いた。次また出会って彼を特定できる自信が持てなかった・・。悔しいことに。その帰り道、さらに二人に名指しで挨拶された。一人は小さな少年。立ち止まって「ありがとう、君の名前は?」とすぐ聞いた。いつもなら挨拶をただ笑顔で返して立ち去っていた。もう一人はおばさん「元気?」と聞いてくれたので、「元気じゃないんだ・・・」と言うと「病気?学校忙しいの?」と聞いてくれる。「せっかくSって呼んでくれて挨拶してくれるのに、僕はあなたの名前を知らないんだ・・・ごめんね・・」と言って名前を聞いた。少年もおばさんもいつも私の名前を呼んで挨拶してくれる人。大事にしようと思った。

サッカーに行ったら、練習後全員の名前をメモに取った。

頑張ろう。これは別に海外だから大事なわけではない。何処に行っても。親友に会って名前を忘れられていたらやはり傷つくだろう。特に、教師をするなら、自分にとっては大勢の中の一人の生徒かもしれないが、生徒にとってはたった一人の担任、たった一人の理科教師なのだ。言い訳したくない。大勢と思っている時点で、自分はひとりひとりのことを見れていないということが明らかになっている。授業しながら「アイツはここでつまずく、コイツは退屈そうにしている・・・・」そういう見方を人数分出来なければいけない。理想的には。自分にできるだろうか・・・。

12/11/09 口論

木曜日。一昨日、Mr.Nと口論になった。

その日は生徒のアサイメント(宿題)提出日。学年全体に課されて、試験と同様に成績に採点されて成績に加算される。この日の4時6分という半端な時間が受付締切だった。生徒は提出しにくる。しかし、Mr.Pは常に理科教員室に居ない。Mr.Nは4時前に帰ろうとした。昼休みもなく、ずっと仕事していた。普段は昼休みっきり帰ってこない。空腹らしい。

「あなたが帰ったら誰が宿題を受け取るのですか?」

「君だ、机に置いといてくれ。」

「僕もお腹減ったし、一緒に帰りたいんだけどな・・」なんて言ってみる。

「じゃあ、一緒に出よう!」とMr.N。

「だめだよ、生徒に言ったのだから4時6分まで受け取らないと。責任持たないと。」

彼は少し部屋で粘って仕事したがダメだった。

「今は生徒ではなく、自分のお腹が大事だ。」とか

「自分には別の責任がある、自分のワントク(大家族)を養うためにご飯を買いに行かないといけない。」

という言い訳を残して去った。「君は一人で生きているからいいだろ」「君が理解しなければならない」と散々私に非があるように言ってきた。「教師の責任を果たすからお金が手に入るんだろ?きちんと教師の責任を果たすのが先だ」私も必死だった。私だって平日に買い物が出来ないことで苦労している。だから平日にまとめ買いをしている。普通の日はまだいいしかし、この日は自らの教え子に示した約束の日。それを簡単に放棄した彼に私は苛立っていた。私はボランティアなんだよ、仕事は手伝えるけれど任せたらだめだよと言うようにしている。それは理数科教師の勤務態度が明らかに良くないからである。他の科目の教師は全員でなくても数人は勤務時間、それ以上働いていることからわかる。彼らからも理科教師の評判は良くない。今までのボランティアが一生懸命に働いた証でもあるのかもしれない。ボランティアに依存している。理科教員の不足を嘆くには説得力に欠ける。

 

その翌日、理科教員のうち、例のようにgrade9の教師3人と主任の会議が開かれた。相変わらずMr.Pは居ない。大分遅れて、主任に呼ばれてから来た。彼は家に居たというのだ。これだ・・。そして主任は既に話したことを再度Mr.Pに説明した。前に3人で話し合おうと約束した時もこなかった、そして謝りもしない。腹が立った。40分しかない会議の時間を潰しやがって。自分が今度作ったアサイメントのこと、Mr.Nの作った悲惨なアサイメントの答え、そこにはリクエストした採点基準はほとんど無い。自分なりの正答を書くので精一杯なのだ。Mr.Pにも確認を依頼した。では、会議を終わろうかと言うので・・挙手した。言わなければいけないことがある。

「時間は守ってください、Mr.P。主任はあなたのために同じことを2回言った。時間を無駄にした。」少し厳しい口調で。

「次に約束は守ってください。昨日は生徒の宿題締切日でした。でも4時6分にこの部屋には一人も教師がいませんでした。我々は約束を守らないといけない。もし、どこか行くならば、その時間の前に知らせて下さい」

「自分で既に教え子の宿題は集めたんだ」と。Mr.Pは主張した。しかし、私は聞く耳を持たなかった。本当はそう言っていたという事実は後で知った。それは彼がいつも約束に対して何か他の仕事をしていたとか言い訳を何回も聞いていたからだ。「アサイメントをコレクトしたんだ。」コレクト・・という彼の言葉collectをcorrectと勘違いし、彼は彼の持っている別の科目の宿題を採点したんだと思い込んでいた。それは私は、実際彼の教え子はMr.Pの居ない理科教員室に来ていたことを知っているからだ。彼は「私は集めたんだ!!」私に言いより机を叩き、去った。残された3人は少し茫然とした様子だった。私は少し息が詰まるような気持ち悪さを感じた。二人は同情するような顔をしていた。そして理科主任はMr.Pの主張を説明してくれた。やってしまった。自分のリスニング能力のせいだ。しかし、彼女に実際Mr.Pの生徒は昨日教員部屋に来たということを話して、彼はやはり責任を果たさなくてはいけないと私は主張した。しかし私に落ち度もあった。

Mr.Nのことを面倒見ないとダメだよ・・最後に彼に言おうとしたことを言いそびれた。

Mr.Nは助けが必要なことを自覚している。はっきり言って私が仕事したほうが早いけれど、そこを本人にやらせるのが大事なんだ。そうやってやり過ごすのではなく、いつか彼が一人前(私はいつからこんなに偉くなったのか・・)に仕事できるようになることが大事なはず。互いの仕事に干渉しなさ過ぎだと思う。ともあれ

ものすごく疲れた・・・Mr.Nはそのあと「僕も家では親に色々言われて大変なんだ」と前日のことを肯定しだす。もし、答案づくり困っているなら手伝えるよ。でも多分すごく時間かかるから、早めに準備しなよ。」そう言って弱気な姿は見せなかった。

10.11.09

10/11/09 ネット復活

火曜日。電話回線が蘇った。・・同居しているSさんの分が。私の部屋は相変わらずダメ。しかし3か月近く繋がっていなかったので、このブログも、メールもどうなっているのやら。

とにかく急いで更新だ!またいつ切れるか分からないので・・・。

06/11/09 無知

自分の知らないことがある。世界地図を社会科の先生に借りたときに付録の図を見た。ある国の平均寿命が30歳代になっていた。ある国の乳児死亡率が一割を超えていた。

今はただ世界を好奇心とともに眺めることが許されている。しかし、そろそろ責任を持つ準備を始めなければ。自分はできることをやったか?現在の世の中・先人達が残した社会秩序にただ従っているだけではいけない。もし世界に不条理があるのなら積極的に関わらなくてはならない。

同期隊員がくれた映画を見た。アフリカの内戦をテーマにしたものだ。

 

この国で、給料取りは珍しい。教師は恐らく彼らの身内も面倒を見ているのだろう。ボランティアは彼らの「忙しい」という言葉に素直に耳を傾けてひたむきに仕事をこなして来たのだろう。grade10と12の居なくなった今、課外授業のなくなった今、彼らの仕事は減った。では授業の改善に努めるのか・・というとそう言うことはない。彼らはもともと定時まで働かない。だべったり、市場に繰り出したり、ブアイをかじったり・・。そんな彼らの仕事を減らすために自分が来たのか?教員不足とは言うが、現在居る教師がもっと働けばいいだけのことだ、一部の同僚も気付いている。かつてここで勤勉に教師をやった先代ボランティア達はそれでも教師のために働いたのだろうか・・。

05/11/09 given

木曜日。現在生徒への課題づくりをしている。それに平行してサイエンスクラブ設立に向けて水面下で動いている。いくつかのテーマを与えて出発させて、どんどん発展していかないかと考えている。例えば観測班・最初は気温の観測から始めて、彼らの興味に応じていろんなものを測る。他には「火山」とか「圧力」「電気」など、テーマをを与えて具体化して行こうと考えている。例えば、理科実験室で火が使えるようにアルコールランプを作ろうとしたが、手に入らないため、灯油ランプを作った。実験室近くの調理場で晩御飯の支度をしていた生徒も集まって手伝ってくれた。彼女らははっきり言って私よりも器用だ。見事に完成した。煙が黒いが、これでは試験管の中の変化を確認することができない。改良も生徒とやろう。

ある日午後4時ごろ、汗だくになりながら一人で働いていた。午後2時とともに理科教員室は無人になり、誰も戻ってこない。私だけだ。ノックノック。外で掃除をしていた生徒たちだ。生徒が来たら満面の笑みで迎えるようにしている。しかし、暑い。生徒は片手にココナッツを持っていた。私にくれた。飲んでいいよ、とのことだ。おお!!なんと喜んでいいのか。時々生徒たちは私を訪ねてくれる。だから、暑くても扇風機が無くても学校で働くようにしている。ココナッツの中の水は甘過ぎて冷やさないと飲みづらい・・というのがPNGに来たときの第一印象だったが、この日のものは格別に美味しかった。頑張ったな自分、生徒からの思いがけないご褒美が心と身体を潤した。

昨日、水曜日。日本から、母親からの荷物が届いた。130キナ約5000円の追加支払いを要求された。課税の対象・・おそらく未開封の懐中電灯・・があったためである。何故か二つも懐中電灯がある・・親の愛を感じる。慣れない英語を書かせた。荷の中には注文しておいたものが入っていた。故郷山口の詩人金子みすずの詩集。日本に居た時はそれほど意識しなかったが、今いるPNGで紹介するならこの人が良いと思った。単純だし、生活が見える。私の勉強にもなる。一人で読みながらこの人の世界の豊かさに感動した。

箱を持って学校から家に帰る途中、道端でアイスブロック(凍らせたジュース、チューチューのようなもの)を売っているおばさんが、「御苦労さん、これあげる」と一本くれた。ありがたや。本当に施されて、自分の仕事がこの人たちの役に立てばいいなと心から思う。

 

今日、同僚Mr.Nは「給料が払われてないから帰る」と突然言い出した。昨日銀行で確認したところ、給料日が過ぎたにもかかわらず、お金が入っていなかったらしい。

No money, No work

なる名言を残して去った。前から定時前に去っていたため、やっていることは変わらないのだが、今日はやや正当な理由があるためか、誇らしげに去った。彼の中には残される生徒は無い、ように見える。彼は話し相手がボランティアであることを完全に忘れている。

自分は恵まれた、保障もある世界から来ている。世界地図を見ながら「最も恵まれない状況」を知らなくてはならない、直視しようと思った。

30/10/09 同僚

土曜日。この一週間もゴタゴタした。現在、grade9の2クラスに理科を教えている。5クラスあり、3人の教師で持っている。理科主任が焦った様子で、これから生徒に与える課題の問題文をチェックをするように私に言った。課題を与え、テストを課す。その点数で生徒を評価するのだ。そして1年間でこなすべきテスト・課題の回数が決まっている。それがgrade9は足りないということで理科主任が慌てているのだ。

水曜日に渡された課題は3人のうちの一人、Mr.Nが作ったものだった。彼は大学を出ていない、かつ高校で教えはじめて半年程度というのもあり、学術的知識の面・経験の面で少し不安がある。本人も自覚し、私に授業前に良く質問をする。理科教員は5人いるが、理科教員室には基本的には彼と私しかいない。他の教員は教室で授業かスタッフルームで仕事しながらおしゃべり、もしくは家に帰ってしまう。5人のうちMr.Nと私以外、基本的に教員は学校の敷地に住んでいるため、すぐに家に帰れるのである。

そのためMr.Nとは色々話した。彼は比較的生徒のことを気にかけて、情熱を滾らせて仕事をしているように見えたので、何か教えることも全く苦にならなかった。彼は年下の私にも謙虚に学んだ。

そんな中で彼の課題を受け取った。それは・・・ひどかった。色々問題はあった。問題文自体に間違いがあるものもあれば、評価の仕方が気になるものもあった。修正するには色々また話さなければと思った。根本は、彼の作った問題に彼自身が答えや評価の基準を用意していないことだった。自分がテストを作ったときに、誰も私の用意した回答例・評価基準に目もくれずに大絶賛した。その結果がクラス間の激しい点数の差にあらわれたのである。いつものことらしい。個人個人にチェックを任せたところで、何も見ずにOKを出すのだ。これはならん!と皆に説いた。被害を被るのは生徒だ。理科主任は理解してくれたので待ってくれた。Mr.Nに答えと基準を用意するように頼み、翌日grade9担当教師3人で語り合うことになった。

Mr.Nは授業が終わりランチタイムになってから、いつも通り学校から出て行った。そして帰ってこなかった。大丈夫だろうか・・。もう一人の担当教師Mr.Pは経験はあるがやる気は全く感じられない。集まろうと言ってもその時間は予定がある、とニヤニヤして言うような人だ。翌日の3者会議は何とか全員の都合を付けて時間を決めて確認した。

Mr.Nは3者会議の40分前時点で私が答えの準備出来た?と聞いたときにまだ準備すらしていなかった。えっ・・。分からないなら手伝うから、今すぐやりなよと指示する。しかし彼は、今から手紙を書きたいと言い出す。彼の進路に関わるものだ。来年大学に行きたいらしく、その申し込みをしたいらしい。「大事なのは分かる。でも今君は教師なんだ、そして私は、理科主任は君の仕事を待っているんです、状況を理解していますか?」とかなりきつく言った。それでもなかなか始めなかった。が何とか動き出した。一々聞いてくる。3者会議開始の時間・・Mr.Nは当然準備が出来ていない。そしてMr.Pは来ない。つきっきりで回答、基準の作り方、彼の作った問題の答えを一緒に作った。時間は過ぎ、ランチタイムになった。会議は終わるはずの時間だった。Mr.Nはおなかが減ったという。「理科主任との約束は?君らは教師なんだから責任持ちなよ、私はボランティア。助けてあげることはできるけどこれは君の仕事なんだよ。もし行くなら、理科主任にきちんと状況を話してから行きなよ。」空腹なのは私も同じだ。いらっとなっても怒鳴ることはできない。その代りできるだけシリアスな顔をして言った。Mr.Nは少し粘った。でも結局ニヤニヤして「残りは明日するから」と仕事半ばで部屋を出た。

ふう・・・疲れた。一人理科教員室で働いているのがバカらしくなったのと、空腹なのと、理科主任の反応が気になったので、部屋を出て主任の家に行った。家でくつろいでいた。「働けよ」と思ったが、それは置いといた。Mr.Nは来たらしい。主任が私の添削で真っ赤の課題を持っていた。これを後でタイプし直して明日印刷するということだった。あれ?まだ完成していないよ・・・。Mr.Nは「完成した」と言ったらしい。全くどこまで責任感がないんだ。すぐにばれる嘘をついて。仕方がないので私が仕上げた。彼には幾つか仕上げた問題を別の紙に書いて置いたのだが、それは彼が持ち去っていた。二度手間だった。理科主任も私に同情した。

その能力が無いのにその仕事を引き受けるなら、きちんと指導を受けないと。上司は出来ない仕事を部下に与えるのならきちんと教育しないと。どちらにも責任がある。その場の都合で、順番だからとか安易な理由でやりますとか、やれよとか言ってはいけない。私が前回テストを引き受けたときも全力で断った。自信が無いから。きちんとした添削してくれるのなら、という条件で引き受けた。結局痛い目にあうのは生徒。サボった分だけ生徒が損をする。不条理な現実だ。同僚に働きかけるの諦めて、対象を生徒に絞って仕事するのも手だと同居人Sさんに助言をもらった。しかし、となりのクラスの子どもら、2年後学ぶ子どもらのことを考えるとなかなか諦めはつかない。しかし、教師たちは簡単に仕事を辞められる。責任感はないし、それに教師が不足しているからいつでも戻って来れるからだ。そんな教師に何かして意味があるのか・・Mr.Nは今年で教師をやめると月曜日にいきなり言いだした。一生懸命私に指導して下さった母校の教師の皆様を思い出す。生徒のときの記憶も大きいが、教育実習での熱心な指導を忘れられない。教師になるのか分からないような実習生に厚く指導して下さった。

自分の方針は決めかねている。

25/10/09 バスケ

日曜日。昨日は家の周辺普段行かない場所を散歩した。立ち止まっては色々話をした。いつか勤務先の学校にバスケをしに来ていたおじさんに出会った。「明日バスケするからぜひ来るといいよ」ということだった。平日はサッカーをしているのでなかなか参加できずにいた。一度は仕事帰りに今度州代表として首都に行くということだった。「ぜひ一緒に来て欲しい」・・・外国人でもいいのか疑問であるが、楽しそうだ。しかし、学校期間中なのでそれは断った。

12時からということで屋根付きコンクリート敷きのコートに行くと子ども達がサッカーをし、おばさん、おばあさん数人がまったりしていた。中は電灯が切れているらしくうす暗い。待った。おばさんたちとお喋りし、子どもらとサッカーした。PNGタイムだと・・。結局2時間過ぎてやっときた。

シュートを思い思いに打っていた。ボール二つを回した。いつみんなで練習するのかしら・・。一人でフットワークを始めた。しばらくしてやっと動き出した。首都からやってきたという監督の指示のもと練習が始まる。フリースローレンジのシュートをみなで打った。次はセットプレー。そしてスクリーンの練習。速攻の練習。いちいち一回行ったら帰ってくるのが鈍くさい。そして基礎練はしないんだな・・。最後にゲームをした。走りまわった。

そのあと長いこと語り合っていた。首都行きのことのようだ。途中話に退屈した人がまたコートに戻ってくる。

自分が監督だったら何をするだろう・・。そんなことを考えた。効率的な練習を望むのはどちらかと言うと選手としての立場なんだろう。今彼らに必要なものは何だろう。それには何をするのが有効か・・これを考えるのが宿題だ。余計なお世話だが考えるのは自由だ。

22/10/09 test

木曜日。生徒にテストを返却した。自分一人で全5クラスの採点をした。テストを準備した人が採点もするのが慣例らしい。とりあえず従った。

今回のテスト、範囲は電気についてだった。色々工夫してみた。選択形式の問題が多いことに気がついた。というかそればかり。生徒たちに何かを説明させたい。彼らの学んだことから、それを何かの説明を作るためにはちゃんと順序だった考えが必要だ。そういう訳で、生徒に文章を書かせる問題を取り入れた。例えば、「なぜ固体の塩は電流を通さないのに、食塩水は電流を通すのか」を説明させた。

このテストをひとりで作った。同僚たちは完成品の添削をした。一人の同僚は英語は直してくれた。助かった。しかし、その他の教師はいいテストだ、それだけだった。正直不安だった。彼らは自分の教え子がこれを解けると思っているのだろうか・・。少し難しくないかな?と聞いても、この内容は既に教えてあると言う。きちんと問題を読まず。

蓋をあけてみれば、明らかに私のクラスだけ平均点がずば抜けていた。だから1週間も前に見せたのに・・。生徒も困惑したというのはテストの回答から伝わる。人に説明を与えるのも訓練が必要だ。テスト後答え合わせをした。感想を聞くといいテストだとか、難しかったとか様々な感想が聞こえた。このテストの意図を生徒に伝えた。教師に不満を直接ぶつけるようなことは彼らには出来ない。だから、一見するとうまくいっているように見えてしまう。しかし、不満を抱えている。答え合わせの授業の後、一人の生徒が理科教員室まで来て私に話した。「難しいとか、色々みんな言っているけど、そのスタイルでやって欲しい。もちろん先生が変えたいというならいいんだけど・・」と。とにかく嬉しかった。まさか生徒に励まされようとは。しかし現状は受け止めねばならない。授業中、常々「なぜ?」と問い続けてきた。生徒が答えても、突っ込む。たとえ答えが合っていても説明できなければだめだと。プロセスを大事にしろといつも言っている。自分が何か言うときも同じだ。なぜ時間を守るのか、なぜ静かにしなければならないのか。ただ支持するのでなく、根底にある思考を話す。

 

現在同僚の一人が病欠している。にも関わらず、誰もカバーしない。またか・・理科主任相談しても、時間が空いているなら、教えたいならやりなさい。それだけだった。こうやって無駄な時間を生徒は過ごさざるを得なくなるのだ。彼らは教師が病気なら仕方ないと割り切っている。でも、問題は教師間の連携にある。そういうシステムづくりをしないことに問題がある。生徒に対して申し訳なさを感じない。

19/10/09 well food day

月曜日。先週末はお祭りだった。世界食糧の日・・ということで、催しが3日間あった。今年はマヌス州がこれに関する全国大会を誘致したので、大臣などが訪れて会合やフィールドワークを行った。集まったビッグマン(エライ人)の中に、日本が一人。彼は私とは違って、シニアの専門家として農業機械について別の州で仕事をしている。平日は学校があるので参加できなかった。と言っても学校も無いようなものだったが・・。金曜日の授業はわずか2人しか教室におらず、他の全員は隣の中学校で催されている祭りに行っていた。

土曜日が最終日ということで私も同期ボランティアのYさんと隣の高校へ向かった。学校で聞いたように、生徒がディベート大会をしていた。また、小屋を建て、小さなブースをいくつか作り、農作物の様々なことを紹介していた。見まわすと、日本人を発見!挨拶をした。彼は脱穀機の使い方を見せていた。とても忙しそうであったが、少しお話が聞けた。

ここで短期のトレーニングを行ったそうだ。農業機械の多くはあっても故障していて、管理する人間の育成が大事だと演説された。マヌスは他の地域に比べ人が柔らかくて、協力的で良いということだった。まず、街を歩く人の目つきが違うらしい。実際、講習会もスムーズに行われたようだ。私は比較できるほどPNGのことを知らない。しかし、人と何かをしようとしたとき、これは恵まれている環境であるようだ。しかし、物価は高いと。本島からの輸送費のせいだろう。工業製品はもちろん、野菜などの農作物も数倍高いということだった。

彼はお土産に脱穀したお米を下さった。美味しいと自信ありげにおっしゃった。これを今日の晩御飯に早速炊いた。米は輝いていた。口に入れる。あぁ、これだ。うまい。美味しいご飯の味を忘れていた気がする。おかずが無くたって箸が進む。基本的に味覚の鈍い私だが、幸福を感じることができた。彼の仕事は確実に一人の日本人を幸せにした。自分も頑張ろう、そう思った。

16/10/09 Plumber

金曜日。今週は激動の日々が続いた。初欠勤の水曜日、帰り際に学校のplumberつまり配管工のおじいさんに遭遇した。学校の先生の服装に比べたらかなりみすぼらしく見える。KFCと赤く書いた帽子をいつもかぶっているが、もちろんそのフライドチキンも食べたことないだろうし、意味も知らない。彼に相談を持ちかけた。

実は我が家の下で水漏れをしているんだ。直してもらえないだろうか・・。彼は快諾。じゃあ11時に行くよと。

我が家は木造高床式である。築何年か不明だが、水場の床は抜けてしまっている。かつて住んでいたボランティアが雨漏りを放置し、床を腐らせてしまったのだ。このままではこれの二の舞になってしまう。同居するSさんは、皆自分の住む間なんとかなれば良いと思って暮らしているから。彼はこの国で1年以上暮らし、この地で待ったが約束は果たされず、待ちぼうけを食らうことを幾度も経験している。もう、このことで頑張る気力は無い。とこれからまだ2年近くここで暮らす私に諭した。私がやるしかない、そう思っているところだった。

杖を着いて何とか家に着き、身体をベッドに倒す。彼は来るんだろうか・・・といつの間にか眠ってしまっていた。そして、ふと叫び声で目を覚ました。彼は来た!しかも予定通りに。

そして我が家の水道管と格闘した。私も助手としてできる限りを尽した。どうも水道が家に供給される前まで使われていた雨水タンクのためのポンプに問題があったようだ。この管を切ってフタをすれば大丈夫とのことだった。おじいさんは我が家の近所に住む自称日本人ボランティア世話係を連れてきた。彼はかつて我が家の防犯対策用のフェンスを取りつけたらしい。しばらくするとおじいさんは彼を家に返した。「アイツはビジネスマンだから後で請求書を書くぞ、だから追い払った。フェンスの時もすごいカネが日本の事務所から入ったんだ。ワシは学校のplumberだから気にしなくていい。」そうニヤリと笑って仕事を続けた。そんなこと言ったら誰も信じられなくなってしまうよ。管を切って・・フタをした。私でも出来そうだった。こんなんでいいの?のりが乾くまで待って元栓を開けた。開けるよー。彼の合図で開けた。パコーン、プシューと水が勢いよく出る音。「閉めろー」とおじいさんは叫ぶ。これを3回繰り返して、水道管は直った。ありがとうおじいさん。ビショビショにさせてしまった。タオルを渡すと「こんないいタオルは使えない、ワシは大丈夫。」と。いいおじいさんだなー、なんかお礼しなきゃ、昼飯食べた?と聞くと気にするなという・・・けど「お米を買いに行きたいな、10キナ(400円)くれるかい?」と素直にお金を要求した。10キナと庭のバナナを彼にプレゼントした。彼はこんな大金すまないね、と感謝を述べた。いやいやすぐに来てくれて助かったよ。本当にありがとう。

おじいさん、いかにもPNGの人って感じで、Sさんみたいに色々悩まされると思っていた。しかしボイルより先に治ってしまった。それと生活をなおざりにして仕事のことばかり考えていた自分に反省。でも、物事はいい方向に向かっている気がする。

15/10/09 初欠勤

木曜日。今週、ついにボイルが牙を剥いた。日曜日の夜から痛み出した。腫れている。何かバイ菌が入ったのかなーと少し不安になりながら就寝。月曜の朝、痛みは無くなった。腫れて動かしにくいが気にせず登校。授業、ずっと立っていると辛い。痛い。どうしよう・・迷った末に首都の事務所に電話。病院へ行くことに。たかがニキビ。でも痛い、もう午後には杖なしでは立てなかった。杖をついて200m位の道のりを行く。その間に何回も「大丈夫か?何があったんだ?」と聞かれては答えて歩いた。

病院の待ち合い室にはぼちぼち人が居た。子どもが泣いている。生徒も来ていた。仲良く列を作って座って待つ。前の人が小さな部屋へ行って、しばらくしたら出てくる。そのあと待合室の横で処置される。列に並んでいる間、頭痛がするので持参した体温計で熱を測ってみた。あら、ちょっと熱が。参ったな・・。怖いな・・。と思いながら持っていたメモをちぎって折り鶴を作った。泣いている子どもにあげたら喜んでくれた。処置している看護師らしき女性が私の顔を見て大丈夫?と尋ねた。大丈夫ならここにはいないよ・・・なんて思いながら大丈夫と答えた。隣のおじいさんは「彼女は君を尊敬しているんだ」と言った。ホワイトマンだから・・この国では白人、そして偉い人。そう言う訳で、次はミスターの番だよってみんなに勧められる。「僕は待たなくちゃいけない、だって僕は後から来たんだから。僕は君のマスターでなくフレンドだ。」もうこのフレーズは何回か使ってきた。体も弱り、少しの葛藤が心にあったが、言えた自分を褒めたかった。結局1時間待って個室に辿りついた。初診なので手帳を買わされた。それに症状や薬など書いてくれた。体重も測った。おおっと首都滞在時から3kg減。痩せたか・・・。ともあれ、事務所の予想通りの薬、抗生剤を処方された。

そして次の日も授業をした。痛い。休みなよと同僚は言う。人は死んで仕事が残ると。前に先輩隊員の帰国後、1週間放置されたクラスを受け持っている。簡単に授業をなくす教師達に反感を持っていた。どうせ誰もカバーしてくれないんだろうなーなんて思いながら、次の日水曜は板書計画とクラスの状況を書いて、同僚の机に置き早退。同僚は何人かいるが、知識はないが情熱のある同僚に託した。

今日学校へ行くと、みんな心配してくれた。足は大丈夫か?大分良い。普通に授業が出来た。同僚は意図したものではなかったが、補講をしてくれていた。彼なりに工夫したもので、とても嬉しかった。

少しずつ良くなっている。同僚との関係もボイルも、自分の行動次第でいい方向に持っていけるような気がしている。

30/09/09 日本からの電話

水曜日。今日の朝礼も20分遅れで始まった。

校長はgrade10と12に喝をいれた。試験がすぐそこまできているぞ!生徒の多くは自分の夢を叶えるために勉強している。パイロットになるために数学を勉強する。教師にも激を飛ばした。試験が何よりも優先事項だ、と。

考えてみれば日本の生徒も同じような理由で勉強しているのではないか。自分が高校生のとき、やはり最後は大学に行くために力を振り絞った記憶がある。しかし、教師が勉強を教えるときにそれでいいのだろうか?自分の子どもに何故勉強するのか、聞かれたときに「仕事を得るため」と答えるのだろうか。私はそう答えたくない。子どもの時間は「職業に就くための準備」に費やされるのか?そうではなく、勉強、それ自身に価値があってなされているのではないのか?我々には知るべきことが沢山あるから勉強するのではないのか?

残念ながら希望者のほとんどがパイロットになれずに、村に帰って農作業をする。それがここの現実である。職に就けなければ勉強の意味は無かった、なんて言われないような教育をこの国のトップは目指している。きっと日本でも同じだろう。そこに自分の仕事がある。

 

今日、首都の事務所から電話がかかってきた。「お父様がメールが返ってこないことを心配して電話をかけた」とのことだった。電話線が正常だったときにたまにメールのやり取りをしていた。それが1か月近く滞っていたためだと思われる。そういう訳で、今日初めて日本に電話をかけてみた。母が出た。変わらぬ様子だった。元気だとだけ伝えた。ここの電話は前払い制だ。だから沢山話したければ、先にプリペイトカードをしっかり買っておかなければならない。もうすぐ父の誕生日だ。カードを買いに行ってまた電話しよう。

友達にも電話をかけた。変わらぬ様子だった。ただ、声を聞いて・・嬉しくなった。正直電話依存症になるのが恐くて、ずっと電話をかけずにいた。この地に安らぐ場所を作るのを諦めたくないのだ・・。

11/10/09 ボイル

困ったこと。

ボイルが治らない。ボイルとは体中にできる発疹(ニキビ)のことだ。おぱけのようなニキビが一か月治らない。むしろどんどん広がっていく。最初は左足首に一つ、ぽつっと出来ていたものが今はふくらはぎまで、両足に広がってしまった。この気候も助けて、乾くことなく汁を出し続ける。日本から持ってきた薬を塗ったが、すごく痒くなったのでやめた。サッカーの試合では蹴られ、潰れて・・と少し無茶してしまった。現在様子を見ている。現地の皆さんは様々なアドバイスをくれる。実際ボイルで悩んでいるのは日本人だけではないのだ。

「病院へ行きなよ。」もっともだ。でも少し怖い。日本でも怖いのに・・。

「葉野菜を沢山食べなよ。」意識しているが、引き続き頑張ります。

「薬飲みなよ。」その薬の正体が分からない・・・。

「ツナ缶が悪いんだよ。」よし、じゃあほぼ毎日食べていたツナ缶をやめます。

「ココナッツオイルを塗りなよ。」少し緊張します。でも成功例がある・・。

日本なら、いいもの食べて、キレイにしとけば勝手に治る。食事に問題がある可能性がある。毎日野菜炒めを食べている。昼ごはんは学校が寮生に作るパンを食べている。しかし手に入る食材は限られている・・アイビカ、ワラグラス、チャイニーズキャベツ(チンゲン菜)、カボチャの葉などの菜っ葉。カボチャ、でかいキュウリ、サツマイモ、タロイモ、サクサク。たまにニンジン、玉ねぎ、ジャガイモが本島から来る。肉は冷凍されたラム、チキンがこの島唯一のスーパーマーケットで手に入る。市場には燻製された魚、時々生魚。こうやって書くと色々あるなーと感じる。しかし、実際使ってない食材がある。料理に時間・労力をかけないからだろう・・。週一回しか買い物に行かないため、日持ちの良いものしか買わない。平日は勤務時間の4時を守ると買い物は難しい。

とりあえず、ハエの餌食にならないように覆って見守っている。

09/10/09 TSUNAMI

その知らせは授業中にあった。突然校内放送が流れた。いつも通り、聞き取れない。生徒たち曰く、今から集会があるとのことだった。少しガッカリしながら職員室に行くと、TSUNAMIが来るから学校は切り上げるという話をされた・・。ラジオのニュースで警報が出たらしい。大きな地震がバヌアツであったと。しかし、誰も深刻でない。パン食べたり、お喋りしたり・・。集会をして、生徒を返した。ラジオを聞きなさいと指示していた。寮生はご飯の時間。この学校は海がすぐ近くにある。教師は明日の教員お楽しみ会的なもののための打ち合わせをした。来週のはずが突然明日に変更されたのだ。

会議に集中できなかった。彼らは津波とは何か分かっているのか?自分には地震の大きさ、震源などの情報が全くなかった。バヌアツまで1000kmくらい・・・到達には5時間くらいかかるだろうと、大学で学んだ津波の速度の式を思い出しながら考えていた。スマトラみたいなことになったらどうしよう・・この島を救えるのは自分だけかもしれない、そう思うと居ても立ってもいられなくなった。そう言う訳で会議を抜けだし急いで首都の事務所に電話をかけた。地震は早朝のことで、既に警報は解除されたらしい。津波の被害は無かったとのことだった。

ほっとした。学校の同僚たちに知らせた。よかったね。とのことだった。バカらしくなった。しかし、自分が一部の同僚には自分がいかに真剣だったか話した。今日、生徒にも本気で「授業開始時間を守れ」と語った。最近、真剣に人に話す機会が多い。日本で本気で説教をすることなんてあっただろうか・・。自分に余裕が無いせいかもしれない。ともあれ、みんな無事でよかった。

29/09/09 term3始動?

火曜日。昨日holidayが終わり、term3が始まると聞いていた。日曜にしっかり準備して、さあかかってこい!

月曜日、学校に行くとやけに静かだった。「生徒は今故郷から帰ってきているところだ」そうだ。でも教員も少ない。「まだholiday気分」らしい。「授業に行くぞ」とやる気に満ちた教師も居た。しかし、皆さん遅れてきて会議は始まった。

授業は火曜日からということになった。

その火曜日。教師は昨日より増えていた。よし、今日はイケるぞ!しかし教室に行くと生徒は半分以下。苦渋の選択の末、今日は復習に留めた。

いったいいつ、通常通りになるのやら・・。来週からだという教員もいる。教員は4時までが勤務時間じゃなかったっけ?帰るときに見歩くと誰にも会わない。事務員の方に会った!校長はまだ居るということだった。校長室に行ってみると、居た!黙々とパソコンを使っていた。話を聞くと、画面を見るとソリティアをしていた。

なんだかな~。

でも今日、奇跡的にマヌスのバスケットボールチームの練習に遭遇して参加出来た。サッカーに比べると技術レベルは高くない。あまり人気の無いスポーツだから仕方ない。おじさん、おじいさんのチームで、11月に州代表として首都でプレイするそうだ。練習に付き合いたいけど・・。サッカーもあるし、学校でも色々したい。少し考えよう。

最近9時半に寝て、朝5時半に起きるようにしている。朝、涼しいうちに登校しようという作戦だ。続くかどうか・・。

26/09/09 グランドファイナル

土曜。聞くとこの大会は2つのリーグの上位2チームを選び、最後トーナメントをするんだということだった。そして、負けなしの我らMasobuは一位で予選通過した。2位は引き分けたディロ島というところからのチームだった。今日、準決勝と決勝が行われた。これまでと打って変わってギラギラと照りつける太陽の下で、しかしグランドはドロドロのままという最悪のコンディション。陽差しが痛い。後半だけのプレイだった。それでも息がすぐに上がる。体力は自信があった。でも、足が重い。内臓が飛び出そうだった。でもチームメイトに支えられながら何とかプレイできた。試合も勝った。

決勝は因縁ディロ島のチームとだった。2時間休んで、45分ハーフのゲームというスケジュールだった。もう皮膚が焼けて痛かった。心臓も重たい。でも他の仲間はケロッとしている。タフさに脱帽だ。荒れたゲームになった。相手は当たりが強いことで知られていた。こちらの仲間も、特に若い子が気を短くしてしまった。レッドカード2枚、最後は10人同士の試合になった。前後半で決着がつかず、延長へ。延長戦後半、1点決めて無事勝つことができた。

24/09/09 サッカー

木曜日。学校はterm3が終了し、休みになった。教師も休日になっている。

月曜日からサッカーの大会が始まった。マヌスNo.1を決める大事な大会で、ずっとこの大会に向けて練習してきた。マヌス州各地から16チームが来た。

月・火・水曜日と三日間の予定だった。しかし雨で順延したりして、まだ終わっていない。雨の中でもやるときもある。

初日から雨で試合時間が大きく遅れた。それでも、ドロドロのグランドで1試合した。トップ下を任せられた。試合直前、円陣を組む。このチームは「勝つための」話を色々した後、最後に「hamamas!(happyの意)」とか言ってみんなで顔を見合いながらにぃーっと笑うのだ。嬉しくなった。泥だらけでプレーした。他の選手より明らかに自分が遅い。でも、少しづつこの状態に慣れてきている気がした。試合は勝った。なかなかいいパスも出せた気もする。グチャグチャになって向かうのは砂浜だ。ここで身体も服もきれいにする。隣にはさっきまでいがみ合ってた相手チームが。仲良く喋りながら泥を落とした。

火曜は朝にグランド、監督の家で待っていると、「雨だから今日は試合はナシ!」と言われ帰った。ちょうどマヌスでやっているネットボール(ドリブルなしのバスケ)の全国大会を見に行った。この種目は女性の種目らしい。

昨日は第3試合だと聞かされていたので、その時間にグランドに行くと試合は終わっていた。なんでも予定を変更したらしい。一日中グランドで待たないと、いつ始まるか分からない。幸運にも昨日は2試合あったので、2試合目で張り切ってプレーした。

仲間たちはずっと監督の家で待機している。彼らのキャンプはまだ続いているのだ。という訳で今日は朝から一日中監督の家で一緒に待っていた。朝は雨。いつものことだが「雨が止んだら始める」と言われた。仲間たちは喋ったり、トランプしたり、みんなで海賊版の映画をみたり、ふらっとどこかをぶらぶらしていた。待つって疲れるんだな・・正直いうと常に何かしていないと落ち着かない自分に問題があると感じている。

喋って、トランプのルールを習って、ストレッチして、小雨の中リフティングして待った。昔、嫌々やっていたリフティングが面白くなった。昔サッカーが好きな父親がボール一つあれば何時間でも暇を潰せると話していたのを思い出した。いくらでも待てそうだった。朝8時と聞いていた第1試合は2時過ぎて始まった。私たちの試合のはずだったが、何故か第3試合に変更になった。ついに夕方4時を過ぎて自分らのゲームを今日やると知らされた。喜び勇んで準備していると、その30分後にその試合は明日に延期するという知らせが来た。夕方5時を過ぎてしまうから、ということだった。待って、待って一日は終わった。

学校の準備もあるし、報告書も書かなければ・・焦っている自分がいる。

19/09/09 holiday

土曜日。昨日で全4学期のうちのterm 3 が終わった。最後の金曜日、授業を半分で切り上げて生徒たちを追い出した。私は知らずに授業の準備をしていた。全てが鶴の一声、校長の声で決まる。今日会議をやる、と彼が言ったが時間が分からない。他の教員に聞いても「待つしかない」という。ただ、待っているというのがこんなにも辛いということを初めて知った。自分はせっかちなんだな、と初めて気付いた。

ともあれ、1週間の休みだ。しかし、月曜にはサッカーの州全体の大きな大会が控えている。朝4時に起きて走ったり、夕方も最近は毎日早めに練習を始めていた。当日まで3日間のキャンプをして、一つの精神を造りあげて試合に臨むとのことだった。私は活動に支障が無い範囲で付き合っている。

16/09/09 祝日

水曜日。今日は独立記念日。ということで学校はお休みだった。PNGに来てから、まもなく3か月が経過しようとしている。なんだか時間の感覚が良く分からない・・。季節がはっきりしないからかもしれない。

現在、報告書を作成している。また、日本では直前の前任者(自分は5人目で、4人目の人)の報告書は読んでいたが、その前については任地Manusのこの家に来て初めて入手したので、それを読んだ。

3代目の方の話は学校でも良く聞いていた。英語もピジン語も上手、一週間に35コマをこなし、スポーツもするし、よく話をする人だった・・らしい。彼は任期を延長して3年間も居た。ずっと越えられない壁のように見えていたこの方の報告書に目を通した。正直、慰められた。日本で教員の経験がなかったということ、はじめ数週間観察に徹したこと、しばらく2クラスだけしか持っていなかったこと、数学は教えていなかったということ、会議の半分は理解できていなかったということ・・。しかし、理科実験室を新しくするという話はその頃から出ているということが分かった。自分がいる間にこれが現実化する可能性は低そうだ。

この2年間の目標をなんとしようか、改めて考えていた。同僚の問題意識について聞いてみた。

「なぜボランティアを必要としたのか。」「何が問題になっているのか」

理科主任曰く、実験をしたいけれど、設備が無い。実験室を何とかして欲しい。アシスタントがいればいい。

教頭的存在の先生曰く、PNGの人は本で学んだことが、どんなふうに現実世界で起こっているのか分からない。電車も見たことがない、四季がどんなものかも経験したことがない。だから別の世界から来た人、科学技術を実際に活かしている国の人が理科教師として必要なんだ。

仕事が無い。これが問題だ。卒業してもほとんどが故郷に帰って、畑で働く、魚を獲る。

10/09/09 理科教員会議

木曜日。昨日、理科教師の会議があった。Kさんが去ってその後のことなどを話し合った。関係する教師とは既に打ち合わせ済みだったが、全体で確認した。同僚が持つことになっていた。その方針で同意した。他にも編成が少し変わった。私は二つの科目を持っていたが一つの科目、総合理科を2クラス持つことになった。全体への配慮の結果、いい方向に動いているように見えた。

しかし、理科主任は少し不満そうだった。話をきくと、Kさんのあとを引き受けた教師は恐らく怠けるだろうとのことだった。さらに私が代りに持つことになったクラスに関しても、担当教師が怠けたいだけだということだった。

今日、Kさんの持っていたクラスを覗いてみた。誰も教壇にいない。いつも遅れてくる同僚だから、数十分待った。来ない。このクラスは誰が教えているか聞くと、Kさんだという。今週は誰も来てない・・。同僚は何をしているのか、何処にいるのか分からない。ただ、この子どもたちは完全に被害者だ。準備も出来てなかったが、進度を確認して他のクラスでやったことを授業した。

理科教師会議でもう一つ決まったことがある。それは次のテストを私が作るということだった。知らないことが多すぎる、物事には順序があると思った。ぜひ私に仕事を覚えて欲しいとのことだった。全員で助けるし、草案だけ作ってくれればみんなでやるから大丈夫、とのことだった。私がやる意義がなかなか見いだせなかった。迷った末経験のない私の勉強だと思って引き受けることにした。

「うん、いいテストだ。これでいこう!」でオシマイ。

これが一番起こりそうで、一番恐れている事態だ。小学校上がりの同僚が非現実的なカリキュラムを作り、誰も指導しなかった過去がある。彼は分からなかった、仕方無い。問題は周りが全く助けないことだ。教育的な配慮が欠如している。後任育成というのを全く考えていない。今回、またこのようなことが起きれば何か言わなくてはならない・・。

04/09/09 相対論

金曜日。この一週間とても大きな山を登っている感覚だった。毎日全身のだるさを感じていた。一週間、朝から自分の境遇を呪っていた。

40分の授業を10コマ教えている。他の先生は2倍近くの授業を持っている。先輩のKさんも多いときは20コマ以上持っていた。しかし、彼はまもなく帰国する。彼の仕事がそのまま私の仕事になろうとしている。期待が痛かった。試行錯誤で指導案を作り、実験室で試薬のチェックをしている。何とか簡単にできる実験を組み込めないかあれこれやっている。廃液の処理に困らない実験、準備が楽な実験。授業を増やせる自信はなかった。

理科主任は理解を示してくれた。彼女は今のコマ数でいいと言ってくれた。しかし、他の教師は違う。もっと授業持たないとダメだよと。かつてのボランティアは35コマも教えていたとか。もう日本のボランティアが当たり前のように戦力になってきたんだ。帰国隊員からも受験対策を頑張るよう日本から激励された。Kさんは販売されている教科書をスキャンしたデータを編集して本にした。彼は来週に帰国してしまうが、学校は生徒用に200部増刷する予定だ。全ての教師が彼を称えた。しかし、彼が近所の学校にも配ると言ったら「この学校の仕事を渡すのか?」と苦笑いをする教師も居た。Kさんは最後の出勤を済ませ、沢山の贈り物をもらった。他の先輩方も、この国の人のいい思い出として語り継がれている。

私のすべきことは既に決まっていたのかもしれない。朝礼ではいつも試験の話。しかし、PNGの教育省の考えに私は従っている。そのやり方・・・大半の進学しない生徒、故郷でより良く暮らすための理科教育・・に価値を認める教師はそんなに多くはないように見える。評価が難しそうだが、挑戦するべきだと思う。私はただ受け入れたのではなく、自分でその方針に価値を認めている。彼らは2年後その私の仕事に対してどのような評価を下すのだろうか。感謝されて帰ることが出来るか。

・・今度皆の前で話そう。前、自分で書いたことを思い出した。

「お前は誰々と違ってOpen mind でいい。サッカーもするし、サクサクも食べる。いつも笑顔だし、沢山話をする・・。しかしアイツはいつも見てるだけだ。」

私は先輩隊員ではないし、彼は私ではない。

そして、一つ歳を重ねた。自分が何歳かすぐに思い出せない。今日は誕生日だった。日本には自分の歳を数え、祝ってくれる友人が居る。帰りたくなった。電話線は一週間以上切れたまま。今、「待ってる」という手書きの文字が私を支えている。もう自分は知っている。独りではないことを。

06/09/09 練習試合

日曜日。今回は前泊はせずにハワイ島で試合をした。携帯電話が普及している。だから、遅い人には電話をかけていた。

今日は雨の中試合をした。

31/08/09

現在週10コマの授業を持っている。指導案を毎回書こうと思っていたが、追いつかない。実験室の仕事を続けながら、手に入るもので簡単にできる実験の紹介もやろうと思っていた。焦りが出てくる。

静電気の実験を紹介した。プラスチックの定規をキッチンペーパーで擦る。強く速く。そして小さくちぎったアルミホイルに近づける。するとアルミホイルは・・。良かったら試して見てください。

この国のカリキュラムによると、中学3年生は雷の起こるメカニズムを理解しなければならない。しかし、教師も理解していないために、カットされることもあるようだ。上の実験はその理解を助けるために私なりに工夫したものだ。これを現地の先生に見せると・・ウケた。難しいのは解説だ。授業内容といかに結びつけるか・・。同僚Mr.Pに理科職員室でこの実験を紹介したが、何とか私の授業案とともに雷のメカニズムを理解したようだった。そして「今日授業でやりたい」と非常に嬉しい反応が返ってきた。

どんな授業になるか外から見守っていた。私が中に居ると、結局私が喋ることになるから教室に入らなかった。彼は自分なりに授業の展開を工夫してやっていた。正直に言って私は参考にしようと思った。学び合うとはこのことだ。授業後はMr.Pと握手した。

98%硫酸が実験室にあった。日本で自ら扱ったことは無い。が、その扱い方は学んでいる。少し緊張したが扱ってみた。。希釈の仕方。溶解熱の大きさにひとりで興奮していた。脱水作用による糖の炭化もやってみた。途中生徒が雨宿りに来た。発熱反応をマジマジと見せた。嬉しそうだった。彼の夢は医者になることだそうだ。夢・・・生徒と話す機会があると、必ず聞くようにしている。なかなかみんなの前では聞きづらいから、こういう機会を大事にしたい。

28/08/09 クラブ

今日は金曜日ということで・・・サッカー部の仲間に連れられてクラブへ行くことになった。飲んで踊って女の子と仲良くなるんだと、楽しそうに話してくれた。

夜7時半に迎えに来てくれた。一人はコーチのAivon、もう一人は学校の生徒だった。校則に触れている気もするが・・。気にせずに一緒に行った。夜は危険だということで、サッカーの帰りもこの日もいつも家まで届けてくれる。ありがたい。

クラブに行く前にAivonの家に寄った。沢山、兄弟姉妹・親戚が居た。聞くとAivonがこのあたりの家を治めているチーフらしい。だから、襲われたら「自分はAivonの兄弟だ」と言えば安全だ!と豪語していた。家では、サッカーでの沢山のメダルやトロフィーを見せてくれた。アルコールのようなもの(話によっては違法?)も振る舞われた。

そしてクラブへ。3人で入った。入場料10kinaだった。音楽がかかって、身体を揺さぶっている人がチラホラ。同僚の先生が同居しているKさんを連れてきていた。「踊り方わかんないよ」って言ったらAivonの知り合いが優しく教えてくれた。実際、知り合いしか居ないのではないか、という感じさえしたが、夜が更けるにつれて人が増えてきた。楽しい!Aivonはずっと同じ話をして、私にお酒を勧め続けた。ここの人たちはお酒を飲むとスパークするものだと思っているから・・。変化の無い私に容赦ない。「私はスパークしないんだ。君たちみたいに強くないから上限を知って、壊れないようにしないといけないんだ」Aivonが父さんと呼ぶさらに偉そうな人に会った。彼は若干酔って頼りなくなったAivonに「この日本人をきちんと家まで届けろ」と厳しく諭した。「せっかくの国の友好的な関係が壊れてしまうから、自分を大事にしなさい」と私に話した。

結局、帰りは警察の方が車を出してくれた。同僚の先生・Aivonとともに荷台に乗って静かな街を走った。夜は・・しんどかった。昼のサッカーのトレーニングもあって疲労感がすごかった。

25/08/09 祝日

それは前日に突然言われた。「明日は州政府の記念日だから学校を休みにする」と。

そういうわけで、ゆっくり過ごしたいと思った。しかし、今日は隣のEkom高校が来てスポーツ大会をするということだった。・・決まってるなら早く教えておくれよ。他の教師もはっきりしていないようだった。ぎりぎりまで隠しておかないと生徒が学校から居なくなってしまうから、だそうだ。

サッカー、バレーをやっていた。我がManus高校はクラブチームの仲間も出ていた。圧勝だった。バレーには教員チームもあって一緒にプレイした。Mr.Kwamも来ていた。彼はいつも赤いカウボーイハットをかぶっているお洒落さんだ。

帰り道、監督の家を訪ねて土日のお礼を言った。「家族を置いてきて寂しかろう。ここでは私たちが家族だ、いつでもご飯食べにきなよ」、と言ってくれた。心からありがたいと思う。

22/08/09 ハワイ

正午に、Masobu(サッカーチームの名前)の監督の家に呼ばれていた。しかし予定通り集まらない。気にせずゆっくり、1時間遅れて出発した。監督Pitaと奥さんGlace(学校の同僚),子どもら3人とチームメイト2人WillyとMr.Kwam。あと数人。モータボートで40分くらいで着いた。初めての体験だった。水しぶきでびしょびしょになった。”LikLik samting”(ちょっとしたこと)だった。

ハワイ島に着くと、青い海、薄い青、エメラルドのような・・様々な色が美しかった。早速監督と子ども達、チームメイトみんなで島を一回り。ゆっくり歩いて、いろいろ教えてくれた。この島はじつに起伏の無い。珊瑚の島だ。周り数百mは珊瑚の森の浅い海だ。だから遠くで波が砕けている。途中監督の親戚に挨拶をした。全部で100人も住んでいないと思われる。大きな新しいそうな船もあった。親戚曰く、マレーシアかベトナムの掘削船(石を取っているらしい)がこの島にイカリを下した。しかし、この島の周りは漁場なので島民は困って立ち退くことを要求したらしい。泊まるなら港がある街に行ってくれと。結局船は訴えられて関係者は今牢屋に居るらしい。ただ・・船は東南アジアのものだが、チャーターしたのは日本人だったとか・・。全ては噂だが。

この島には良いグラウンドがある。少し凹凸はあるが、芝も強い。夕方は少しボールを蹴った。子どもがいっぱいいた。明日はここで練習か、と思ったら明日は試合だよ!ということだった。明日、他の選手が来るとのことだ。ついにデビュー戦。体を洗って(もちろん水道はないので雨水のタンク)、晩御飯を頂いた。燻した魚、茹でた魚、サクサク、ご飯。皆さんよく食べること・・。魚のだしが効いたスープが絶品だった。そしてお喋りの時間。電気も無いのでランプの明かりだ。試合の話をした。私は中盤を任された。10時に就寝。

朝5時に鶏の声に目を覚ます。WillyとMr.Kwamは魚を取りに行った。仕掛けた網をチェックした。私は監督とその兄さんの話を聞いていた。

戦時中、日本兵が先に来てこの島に居た。アメリカ兵がこの島に近づこうとしたが、それを砲台で阻止していたらしい。ある日、日曜日にアメリカの飛行機がこの島の上空を飛び、ビラを撒いた。「正午にこの島を焼き払うから、この島から出ていけ」ということだったらしい。そして、原住民のほとんどは避難し、一部の原住民と日本兵は遠くからのアメリカの大砲によって、島ごと焼き尽くされたらしい。その後この島にはアメリカ兵が居た。彼らの作った車のための道、バスケットコートだったコンクリートの地面が残っている。白い砂浜に鉄の塊がある。日本の古い船だ。向こうに見えるのはアメリカのだ。日本兵の使った砲台は、タウンの郵便局の近くに彼らの父によって移された。しかし、子どもらはこの島に戻したいと考えているようだ。日本もアメリカもどうでもいいことだった。彼らは無実だった。今は日本人を責めたりしないのか、と聞いた。「自分と同じで、君もただ聞くことしかできない」、と答えた。戦争を知らない人を責める気はないらしい。実際日本人は好きだと言うし、私にとても親切にしてくれている。息子達も戦争を体験していない。聞いた話を語り継いでいるだけだ。「日本に帰ったら、家族・友達に話してくれ。豊かな森は失われた。この経験・残された爪痕が自分たちの財産なんだ。」と。

その後、海へ。シュノーケルを着け、WillyとMr.Kwamとカヌーで海に出た。Willyは優れた漁師らしい。モリを持ってあっという間に見えなくなった。彼の勇姿を見たく追いかけたが、だめだ。見つけるたびに手に魚を持っている。Mr.KwamはEkom high schoolの教師だが、非常に上手に泳ぐ。彼が面倒を見てくれた。たくましい男たちだ!本当に海の色が違う。波はpapitalaiよりかなり高い。カヌーを動かすのに苦労した。途中ひっくり返ってもliklik samtingだ。ちなみに、海が浅いことに気付かずにカヌーから飛び込んだせいで、珊瑚で足をまた切ってしまった。せっかく治ったのに。liklik samtingだ。二人は心配したが・・。

午後はサッカーの試合。たくさんチームメートが来ていた。生徒も多い。Willyは海で泳ぐと筋肉がリラックスしていいんだと言っていた。私は海で何度か足がつるくらい大変だった。けがは・・ここに医者はいない。昨夜隣のおばさんに私が頭痛薬をあげたくらいだ。Willy曰く、ココナッツオイルを塗ればすぐ良くなる、と。カサブタも無いところにたっぷり塗ってくれた。でも、出血が早くおさまった・・気がする。青いユニホーム、ソックスを支給された。背番号5番。守備的MFは走りまわった。太陽が照りつける中。ボールをキープできる自信が無かった。そのせいか、やや慌ただしい展開になった。何もできなかった。結局試合は1-0で勝った。45分ハーフの試合自体初めてだった。一緒にプレイ出来て良かったと言ってくれた。もっと強くなりたい・・そう思った。2年後誰か分からないくらいたくましくなろう。

ボートでタウンへ帰った。もう日は落ちていた。月、星が美しかった。海面を眺めていた。自分がこんな生活をしている、幸せを噛みしめていた。この国で良かったと。この任地で良かったと。子どもらにジャンケンとあっち向いてホイを教えた。お礼に歌を教えてくれた。いいカタチだと思う。

22/08/09 市場と食

午前中、Yさんと一緒に買い物へ行った。

まず市場へ。土曜日は賑わっている。野菜を買う。満面の笑みで”tenkyu”と言うと、おまけをくれる可能性が高いことに気が付いてしまった・・。ありがたく頂きます。さて、今回は体長50cm以上ある新鮮なお魚をYさんと一緒に買った。20kina およそ700円。ウミガメもいた。大きい、1mくらいのウミガメが横になっていた。小さな、50cmくらいのウミガメはひっくりかえっていた。お腹には40kinaと。でも、彼らは確かに生きていた。とても美味しいということで有名だ。が、お魚も買ってしまったし、今週末は外泊するから・・ということで買うことは断念。

魚を我が家に持ち帰り、Yさんが全力で裁いた。「3枚の真ん中は骨のことだ」と日本の訓練中に聞いたことが懐かしい。先輩のSさんの熱い指導が入る。そして白身の刺身になった。Sさんが日本から送ってもらったというわさびと、K社の醤油(こんな島でも買えるんだ!)で食す。すごくおいしい。ご飯を炊かなかったことを悔やみながらも半分を食べ尽した。市場で買ったタピオカの蒸しパンも美味しいことが分かった。Manusの主食サクサクは、なかなか慣れるのに苦労しそうだが美味しいものに出会えて良かった。

ここの人々はよく魚介類を食べるが生では食べない。刺身の美味しさを再認識した私は隣の住人に勧めてみた。なかなか食べようとしない。だってuncookedだよ!と。一人食べた!Oh!と叫んで家の中へ消えてしまった。Zitaは一度は食べないと言ったが、あとで「やっぱり食べる」と言った。勇気を振り絞って食べた!噛んだ!しかし、苦い顔をして吐き出した。私を信じて必死に食べようとしたZitaには悪いことをした。かなり厳しいらしい。因習だ。食べられないと思ったら、それは難しい。私は人が食べているものに何でも挑戦したがる。彼らが大丈夫なら自分も大丈夫だと思っている。そういう話をすると、強いんだねと言われたが、おそらく私が鈍感なだけだと思っている。

ともあれ時間が来た、ハワイ島へ出発だ。

21/08/09

今日は金曜日。朝礼に出てから授業の準備をした。

古いラベルの上から新しくPOTALIUMとマーカーでラベルしてある試薬が出てきた。辞書や教科書でも見つからず困った・・。困った末に新しいラベルを剥ぐと、POT(スペース)ALIUMと書いてあるように見えた。Alium, ミョウバンだった。こんな感じで仕事が続く。中を見て結晶の色が書物と一致して、不純物が無ければOK。現在、無機の試薬、Aから始めてPまで来た。まだ有機の試薬が残っている。高校時代に見た資料集が今すごく役に立っている。

今日は居眠りしなかった。すごく嬉しい。

同期隊員Yがタウンに出てきた。今日は我が家に宿泊だ。きちんと買い物も済ませてから我が家に来た。

彼を家に置いてサッカーの練習に行った。明日からHawei(ハワイと言っている)という島での合宿ということで気合いを入れて行った。しかし人が少なかった。金曜だからということらしい。

今日Zita(となりの女の子)が故郷へ帰るということだった。が週明けに延期になったとのことだった。日中ヒマだろうに、街に行ってるのかなと思ったら家の下でぼんやりしているらしい。「街に出ても意味が無い」と、この国の人にしては少し意外な考えを持っていた。多くの人が意味もなくタウンに居るのだから。

故郷に遊びにくるように誘ってくれた。大きな河があって、ワニが沢山いるらしい。自然も楽しみだが、やはり人の暮らしが私の心に何かをもたらすと信じている。明日が楽しみだ。

居眠り

実験室にひとりでいるとき、教師の授業を見学しているとき、たまらなく眠たくなる。11時就寝、6時半起床となかなか規則正しい生活を送っているのだが。

高校、大学生時代、訓練中もいつも睡魔との闘いに明け暮れていた。

その結果が自己嫌悪である。やってしまったよー。居眠りだ。ノートのミミズが痛々しく見える。ときどき湖が広がっている。

現在10時半。もう寝よう。明日の自分を好きになれるように。

19/08/09

二回目の授業、は突然やってきた。本当はテストするから今日は授業出来ないと言われていた。なんでもコピー機が壊れて、テストが刷れないから・・・と朝授業をするように言われました。

化学反応式を書いてみる、なんとなくそれらしく見える。酸素と水素、1:2でビンに入れたら水が出来るのか!?

今日は化学反応が起こるか起こらないか・・それを決めるファクターの1つである、活性化エネルギーについて話した。木は勝手には燃えないでしょ?彼らは薪を切って生活しているから、その辺はリアルだと思う。

「このエネルギーの壁さえ超えれるようにエネルギーを与えれば、君たちはこの反応(発熱反応)から、与えた以上のエネルギーを受け取るんだ。」朝礼の聖書のお話みたいで少し面白かった。「一生懸命やれば報われる。」とのことだった。

講義初めに約束した。最後の10分はノート写す時間をあげるから、それまで私の物語を聞く、そして考えることに集中するように。そして予定通り早めに切り上げ、板書に専念させた。彼らの未来はこのノートに懸かってるんだと思うと机間巡視にも熱が入る。しかし見てると、「違う!」って思うところがある。伝わっていない生徒も多いことを感じた。まだまだ工夫が必要だ。

 

成績の話がされる。国の試験も控えている。前任者もそれを大事にしていた。しかし、この国の中での競争を助けることがそんなに大事と思えない。校長は実験室改造に前向きだが、何を期待しているのか・・・実験室で成績アップは望めるか疑問だ。そこでなぜ実験なのか聞いてみた。

「現実と考えを結びつけるのが実験じゃないのか?私は生徒がいい方向に進むことを願っている。それには現実で手を動かすことも大事だろう。車の運転と一緒だ。頭で分かってもすぐエンストするんだから。」

予想に反して、成績という言葉は出てこなかった。わだかまりが無くなっていく気がした。

20/08/09 変化

今日、スーパーに行った。定期船が来たとの情報を聞いたからだ。モノが沢山あった。小麦、米を買った。塩は無かった。もしこの外国人経営のスーパーが無かったら、この町の暮らしは大きく変わるだろう・・・言い換えれば、かつてこのスーパーはこの町の暮らしを大きく変えたに違いない。

実験室に様々な試薬がある。有毒な水銀の化合物・・使ったとしてどうやって処理するんだろうか。きっと外国の考えなり援助で作られたであろうこの実験室は事実上生きていない・・ように見えた。が、使えるもので細々と実験をしている教師が一人いることが分かった。Usuさんだった。濃硫酸を薄めたりしているらしい。彼女はあやふやだが一応やり方を知っている。ドラフトは壊れているので窓際で。「いつか薬品のせいで身体がおかしくなるのかもね。」なんて笑って言っている。

また新しく理科実験室を作ろうとしている。今回は違う、そう願って止まない。今回は外国人だけではない。「器具さえあればもっと正確に実験が出来るのに・・・」と愚痴をこぼせる仲間がいる。ただのハコで終わらせたくない。ついでに言えばカリキュラムも来年から新しくなる。この実験室とカリキュラムがこの学校・この国の改善に貢献するかどうか。Usuさんと協力して指導案と実験書をセットにして作れたらと思っている。全国に配布できるくらいのものになればな~。

聞くと、各部族のtok ples はピジン英語よりも豊かな表現があるらしい。ピジン語は単純で語彙も少ない。考えてみればピジン英語の歴史は非常に浅い。この国の人はあまりものを考えていない、感じていない訳ではなく、母語ではないだけなのだ。文字を持たない文化であったがため、伝統の奥深さを知ることは簡単ではないが、決して彼らは赤ん坊ではない。彼らなりの文化・政治に敬意を払おう。しかし、何回も言うがそれは関与しないことではない。彼らの声を聞くことだ。そしてその都度、誠実に意見しようと思う。校長と理科主任は私の考えを分かってくれた。

彼らには理解されないような崇高な使命・・そんなものはあるべきではない。