9.5.10

23/04/10 お喋り

金曜日。

昨日、木曜日。小学校の校長Mr.Wには約束はすっぽかされた。これを文化と言って納得していいものではないような気がする。

約束って守られないと不自由な思いをする。

昨日、PaitalaiからYさんが街にきた。久しい。現在マヌス島に日本人は二人。私と彼。

たくさん話すべきことがあった。

分科会のこと。

結局中止になってしまったが、まだ未来がある。これからどうやっていくか。年に2回の上京の機会のうち1回が7月にある。その時、理数科教師ボランティアは何ができるのだろうか。

 

活動全般のこと。

この島には飢餓なんてない。ストリートチルドレンもいない。皆が日本みたいになりたいと思っている訳でもない。責任も無く、のんびり暮らしたい人もいる。世界中にあると言われている発展途上国の中で、このPNGにやってきて・・ささやかな幸せを与える。モチベーションを保つのが容易ではないのだ。日本を離れて、頑張ろう!って思えるのは、自分の仕事が価値があると信じているからである。既に満足だと思っている人たちを、大満足にすることよりも・・今日生きるのにも苦労している人たちに手を差し伸べるべきだと思う。JICAの募集にはそう言う思想が見られない。「発展途上国」をひとまとめにして、同じ様に扱っているがそれでよいのだろうか?

Papitalaiの生徒が近年無かったような荒れっぷりらしい。生徒が授業に来ず、ドミトリーに籠ったり、ほっつき歩いたりしていると言うのだ。教師はいつも通り頑張っているらしいのだが・・。学ぶことを拒んでいる生徒に学ばせなければならない理由は存在するのだろうか。これは学校の在り方を問う、根本的な問題だ。教員志望の身としては、教師の質について考えを巡らせる。「いつも通り」でない生徒に対して、対策を取り、生徒に必要な資質(これが難しい)をつけてやるのが仕事。しかし、村に居る保護者は教育に全く関わろうとしていないのかもしれない。と言うか、寮生の場合は普段その場にいない。これは、日本の高校よりも教師の負担が大きいと言える。教育に対する責任が大きい。家庭や地域の関わりが無い。日本と比べて見えることもあるかもしれない。

 

その他

Yさんのウェブでの調査によって、私たちの今いるマヌスはアドミラルティ諸島と呼ばれるが、太平洋戦争時になんと3000人以上の日本人が亡くなった大きな戦場であったことが分かった。PNGの戦場と言えばラバウルと皆いうが、悲劇は至る所にあったのだ。この島にきた日本人の大多数は観光客でも、ボランティアでもなく、兵士だったのだ。しかもその大半がここで死んだというのが事実だ。だから、マヌスの人、特に年配の方にとっての日本、日本人のイメージは兵士になるのはものすごく自然なことなのだ。

 

 

Yさんは最近、体調を崩したりしたことも重なって、今しんどい思いをしている。ボランティア間の交流はほとんど無いため、他の国のボランティアがやっているように仲良しで集まって息抜きすることもできず、活動の意義も見出せなくなってしまったら・・。彼自身、少し中休み、と自覚しているようだった。

 

 

ずっと書けなかったが、猫、我が家でSさんが飼っていた猫が死んでしまった。その子は新隊員が猫好きか否か判明するまで、Yさんの家に引き取られていた。Papitalaiで彼は果ててしまった。私はまだ、どこかで好き勝手にはしゃいでいるんじゃないかと・・なかなか受け入れられないでいる。SさんにはYさんから伝えたということだった。私は猫をペットとして飼うことに初め抵抗があった。そんな私でも、その子はなつき、可愛く思えた。Sさんの居ないときは一緒に寝たりしたものだ。人の死以外は安っぽいものだから、人以外は何でも食べられるし、悲しむべきものでもない、それを悲しむのは本来日常であった動物の死に不慣れであるが故だと。頭でそれを理解したが、その子の死は、それまで音楽を作ろうにも、途中で必ず挫折していた自分を最後まで追い込むほどのものであった。彼の死は、私の中でずっと生きている。生命の価値というものが、考えれば考えるほど分からない。猫の死にうろたえながら、カスカスを食べる自分。気持ち悪い。でも、誰が何と言おうと、それを愛しく思い、それを失って悲しいと思える対象になり得る。それだけ、ただ生きるということが、劇的なものだということなのかもしれない。

まだ何も私の中で答えは無い。それでも今日も死の上に立って生きていく。

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