1.3.11

29/01/11 Madang

土曜日。マヌスに帰ってきてから一週間、まだ学校は始らないが、先にロケットスタートで働き始めた。学校に行くと自分のオフィスに入れないという状況、休みの間に当直を担当している教員と用務員の方々のみの学校に通った。

 

ハーゲンから、そのままマダンで開催されたJICAボランティア大集合の会議に出席した。首都のポートモレスビーは最近、外務省の渡航危険度に関する情報で危険度が上がったと発表されたからである。空港で発砲事件が相次いだためだ。

そして、変更された先のマダンも、ボランティアが集団暴行や投石を受けたり、と決して安全ではないとの情報を受けていた。

ここでとにかく男性しか派遣されていない中JICAボランティアは集まり、あれこれ話し合った。私は特に理数科教師として活動するボランティアのコミュニティの長であるため、あれこれ支度をした。年に2回しかない顔を合わせる機会。初参加、というよりPNGに来たばかりの参加者も居て、きっと右も左もわからない。理数科教師ボランティアの活動が歴史を持って良くなっていくにはどうしたらいいだろうか・・。間もなくこの国を去る人間の発想なのかもしれない。しかし、個々人でやっている活動を効率的に、効果的にするために協力できることがあるはずだ。今回からついにシニア、年配で経験豊かな理数科教師ボランティアもPNGに派遣されるようになった。それまではずっと教員経験のない若造の試行錯誤であった。これから、そんな新しい強力な助っ人と働けるボランティアがうらやましい。

マヌスへの飛行機が毎日無い都合で、自由な日があった。マダンの町を少し歩いた。お土産になりそうなものを漁った。バスケットボールの大会を見に行った。広場は人があふれ、私を見つけると「チャイコー」と叫んでくる人がいる。中国人に対する蔑称である。自分は日本人だ、ボランティアで来たんだ、ってわざわざ笑顔で近づいて話をする。すると、態度を180度変えて、「お前はすごい!」なんて言われて握手を迫られる。

バスケットボールのレベルは私の任地マヌスに比べてかなり高かった。やればできるんだな~と感動した。

それより、中国の人の嫌われ方に同情したくなった。たくさんの中国人がお店を構えて商売している。確かにすぐに壊れるラジオやイヤホン、名前だけの偽物のブランド物を売っていることがある。みな、中国製はすぐ壊れるという文句をよく聞く。逆に日本のモノはすごい!ってよく褒められる。中国もPNGに色々援助をしていて、文句を言われる筋合いは無いのかも知れない。ただ、同じ色の肌である、という理由で間違われて石を投げられる日本人は明らかに被害者なような気もする。モノづくりで尊敬される日本、私は自分で作っていないのに、すごく嬉しい気持ちになる。おしゃべりは下手かもしれない、でもいいものを作る。常に一目置かれている。日本は本気でこの国のために働いてくれている、とボランティアに感謝する人もいる。途上国の人だってバカではない。人が資源を目当てに来てるか、本当に人助けのために来ているか、触れていれば分かる。ある先進国は、PNGの資源を奪うだけ奪って、発展させる気は無いんだ、、、なんてぼやくのをハーゲンで聞いたのを思い出した。

 

誇りを持ちたい。日本を、誇りを持てるような国にしたい。

10.1.11

09/01/01 理数科分科会

日曜日。

昨年11月、ついにマヌスセカンダリースクール、私の配属先にて、PCMワークショップを開くことに成功した。

学校の抱える問題を、分析し、何かできることから解決していくためのプロジェクトを組み立てる、ワークショップ。上から指導するのではなく、共に考え、やっていこうという、ボランティアの姿勢がうまく活かせるのが強みである。

このとき、理数科教師として各地で活動するボランティア8名が集まって、ワークショップを運営した。全員にとって初めてのことだったため、不安を抱えながらであった。

言語の問題・・私たちボランティアはきちんと話し合いで意志疎通ができるだろうか。

文化の問題・・モチベーションの程度、参加者の積極性は?スケジュールのきつさなど。

私にとっては、全4日間朝9時から夕方4時までのこのワークショップに、現地教員がどこまで付き合うのか、それが一番心配ごとだった。参加者をわが校から6名決めたが、最後まで4名は積極的に参加した。もうひとつのグループ、パピタライセカンダリースクール、の教員も同様な具合であった。正直同僚の問題解決に向けるエネルギーの大きさに驚かされた。

中心問題として扱ったのは、偶然にも両校とも「生徒の出席率が低い」ことであった。この解決のために8人のボランティアは二つに分かれて、その学校の教員が問題を分析したり、対策をぎろんしたり、具体的なプロジェクトの立案をすることをサポートした。学校の状況は異なり、したがって、対策、ワークショップによって出来上がったプロジェクトも異なった。

ボランティアはみな自分の任地へ帰った。そのプロジェクトの面倒をみるのは、残された教員、そして私である。

我が校では、生徒の出席簿のきちんとした管理や同時に教員の出席を管理することをプロジェクトとした。2月から開始予定。

このワークショップ、開催まで色々な手順があった。開催は無理なのではないか、とさえ思った。その労力が報われたか否か、その判断はまだやってはいけない。開催して満足してはいけない。学校のプロジェクトは機能したか、なにか改善したか、ボランティアは何かを学んで活動を豊かにしたのか、これがなければ、骨折り損である。

じぶんの活動は骨折り損であった・・そう言いたくないのが、人間である。まだ、できることはある。

09/01/11 たくさんのこと

日曜日。

明けましておめでとうございました。

2か月日記を書かなかった。もう書かないかとも思った。でも、やはり書かなくては。明日首都に行くということもあり、なにか更新したかった。

書きたいことはずっと山ほどあった。しかし、このような公の場所で書くのに相応しいことばかりではない。そういうものが、自分の中で大切になってくるほど、この日記が空虚に感じられてしまった。大切な思い出が欠け落ちた日記。でも、自分はこのブログに託したもうひとつの使命を忘れていた。

「人に何か伝えること」

未だに見てくれる人が居るのか、分からない。でも、何か人に伝えたくて始めたことを忘れてはいけない。昨年8月からウェブに繋がれていない。その間にこれを読む人のことを忘れてしまっっていた。このブログがいつの間にか、ただの自分の記録になってしまった。

 

2か月を大雑把に振り返る。

学校のある期間は、学校行って働いて、週末はのんびり。バスケしたりなど。

・理数科教師ボランティア分科会(11月22~25日)

・2010年第4学期終了・クリスマスホリデー(12月10日)

・Lou Island滞在(12月10~17日)

・Kavieng旅行(12月27~31日)

そしてこれから首都に上がるのは、これからMt. Hagen(1月10~16日)への旅行のためだ。さらに、その後直接JICAボランティアの会議に出席する。

今年のクリスマスホリデーは、どちらかというと「外」に気持ちが向いていた。去年はマヌスにずっといた・・Louに長い滞在をしたが、今回は外の世界を見よう。お金も使って。現地生活費としてもらっているお金がかなり、余っていることもある。

28/09/10 CLUB

火曜日。1週間の休みが終わり、学校の第四学期が始まった。月曜日は保護者会があり、今日から正式に授業が始まった。しかし、来た生徒は三分の一以下。皆、故郷の村に帰ったはいいが、当日にちょうど街に戻ってこれない。交通手段の問題として、当たり前のように遅れてくる。この島、道はほとんど無いので、ボートで皆やってくる。ボートを運営しているひとは、気まぐれで村と街を往復しているから・・アレンジすることは実に難しい。

 

9月は色々楽しいことがあったが、そのひとつはクラブ・・ディスコである。週末の夜、そこに人々は集い、飲み、そして踊る。SHOW MANUSの最終日の夜、私と他日本人ボランティア2名、オランダ人ボランティアJと隣の高校の先生Mr.Kとははるばる海軍の基地まで車で40分かけていった。そこで、大きな資金集めを目的としたパーティーが開かれたからだ。PNGに来て初めて行ったクラブは首都だった。危険といわれながらで、お酒もほとんど飲めない自分にとっては全く楽しめなかった。踊るってなんだ?そんな感覚だった。一夜限りの女の子をひっかけに行くボランティアもいたようだが、自分は何か汚いものを見る感覚だった。マヌスでは、先輩のボランティアに連れられて行ったときも、いまいち乗りきれず、もやもやして帰った記憶がある。

しかし、例のデング以来か、何がきっかけか分からないが、今無性に踊るのが楽しい。フロアに一人になろうがお構いなしで乗りまくる。踊っていたら誰かが乗ってくる。自分の野性が放たれる感じ。昔、訓練期間中にサルサを少し教わったが、それとは違って自由なのがいい。ほんとはサルサも自由なのだろうが、自分は結構不自然に動くのが辛かった。今はただリズムに合わせて体を振るだけ。他ボランティアいわく、私は本当に気持ちよさそうに踊っている・・らしい。マヌスのクラブは、若者だけでなく、おじさん、おばさんが沢山いて、とてもアットホームな感じがする。ときどき喧嘩もあるが、首都みたいなピリピリした空気がなくてよい。娯楽のないこの田舎の唯一の遊び場かも。音楽が同じものかけっぱなしとか、ぶつっと切れたりと色々苦情はあるが、比較的安全なのが嬉しい。

海軍基地では10時ごろから結局朝の5時まで踊り続けた。アルコールなしで!飲んだのは清涼飲料水のみ。Mr.kのお酒は私持ち、彼はお金ないけどいつも、私がどこか行きたいとわがまま言うと必死にアレンジしてくれるし、悩みも聞いてくれるから、全然悪い気がしない。

日本に帰ったら多分、クラブに行くでしょう。同居人Aさん曰く、日本のクラブはもっとすごいということですから。

15/10/10 Fight

金曜日。第四学期の3週目が終わった。Gr.10の生徒が進学試験を終えた。彼らが学校から居なくなってしまうのはさびしい。

先週末はまたクラブに行ってきた。金曜と土曜の連夜で。

金曜はそれはそれは大変だった。クラブに着くとすぐに一人の可愛らしい女の子がそばに寄ってきた。一緒に踊ろうと。普段そういうことはないので少し嬉しくなって踊ったり、しゃべったりしていた。ビールをときどきお願いするので、あげていたら、お金がなくなってしまった。自分はお金を持っているのは事実で、断れなかった。お金なくなっちゃった。と、話すと彼女はそれきり私と踊ることなく、他の男性のもとへ行ってしまった。残念!さみしいなーと思いながら、一緒に来た仲間たち、ボランティアAさんの同僚の元へ戻った。その話をしたら、女性陣が憤慨した!私が驚くくらいに。「日本人の金を使うなんて!」と。まあ、そんなに怒らなくても・・と私がなだめていたらそのうちの一人が、例の可愛らしい子の後ろ髪を掴み引っ張った。待て待てと、私が仲裁に入る。変な気もするが。

帰り際、仲間たちが声を掛けてくれた。Aさんは楽しそうに踊っていた。それを見た見知らぬおじ様が「こんなに楽しそうに踊っているのを止めるのか!俺がこいつを送ってやるから、てめら帰っちまえ!」と、仲間たちに言い始める。当のAさんは、なぜ言い争っているか露知らず、踊り続けていた。そして、一緒に来た仲間の一人は若干酔っていることもあり、喧嘩が勃発。クラブ内が騒然とする。この喧嘩は、Aさんを外に出しさえすれば終わると判断し、Aさんに「帰りますよ、出ましょう」と促すと、喧嘩の舞台は外に移っただけだった。おじ様に「ありがとう、でも僕らはもう友達と帰るから大丈夫」、そう言ってももう通じない。なぜ喧嘩が始まったかももうどうでもいいかのようだ。なすすべなしと思っていたら、後ろでも喧嘩が始まった。また仲間が、例の可愛らしい子に殴りかかっているではないか、しかも二人がかりで。

帰宅は午前三時。日本人にはけが人なし。

 

土曜日はMr.Kと二人で。彼とは最近よくつるんでいる。彼の家に行ったり、ご飯を家で御馳走したり。しかし、彼にはいつもクラブへの車を手配してもらっている。一応夜は危ないといわれているからだ。彼はなんと彼女のいない僕のために、素敵な女性を紹介してくれると言っていたのだが、本当に電話番号を教えてくれた。しかし、彼女はケビエンというマヌス州の外で働いているということだった。いきなり付き合うとかそういうことはできないから、ペンフレンドとか、とにかくお友達から始められたらと思う、そう話した。彼女も僕が真剣かどうか気にしているということだった。

そして今週1週間、電話で話をしている。こっちの人は三角関係とか何かあると、結構ケンカで解決するらしい。実際に市場でケンカを目撃することがあるが多くは男女問題らしい。誠実に、きちんと自分の気持ちや状況を伝えて、相手にも分かってもらう。嫌なことは嫌という。Mr.K曰く、私のような外国人はお金を持っているからビールをねだろうとして、みんな親しく寄ってくると。誰を信じればいいのか・・と悲しくなるが、無理することなく、「自分で買いなよ」とか普通に接していればいいんだと思った。皆、もらえたらラッキーくらいの感覚であって、もらえなかったからといって怒ったりしない。それで終わる関係もあれば、続く関係もある。モノをねだられることは多い。別に自分が彼らの指導者や親でもないので、もっと素直になればいいんだと、気楽に思えるようになりたい。

土曜日もけがなし。

05/09/04 Birthday

日曜日。

昨日は土曜日。朝からバスケ。腰はまだ用心が必要だが快方に向かっている。

午後は、帰国後のために近所の子どもにインタビューをしてみた。将来学校の教員を志している。未来の自分の生徒にこの国ことを話す機会を作ると思う。子どもらが興味を持つことが大切。遠くにいる人たちも自分らと同じように色々感じながら、色々考えながら生きている。もちろん違うこともあるのだけれど。きっと、自分と同じ年ごろの子どもの考えていることに興味を持つと思って、普段見かける子どもを対象にしてみた。

初めは・・たまたま大きな木の下で、日陰で出店したり、たむろっている人たちの中でぼんやり座っていた。普段自分はそこに立ち止まらないから、みんな少し緊張していた。そんなとき、寄ってきた一人の子ども。5歳。少し小さ過ぎるが、練習だと思って色々話してみることに。どんな遊びするの?誰と?おっきくなったら何になりたい?

 

そんな調子で、八年生のいつも出店を家の前でやっている子、

好きな科目は理科と経済。嫌いな科目は英語。今はやりのビー玉遊び・・をこの子もやっていると思いきや、それはガキのすることだと一蹴した。自分の生徒に聞かせてやりたいものだ。もっと色々なことを知りたい。だから科学者になりたい、彼女はそう言った。とてもシンプル。

いつも何もせずふらふらしてる19歳の男の子(小学校卒)の話を聞いてみた。

家の草刈りをしたり、木の実を割ったりして過ごしたり、サッカーをしてみたり、なんとも一日がゆっくり過ぎているようにかんじられた。

 

誕生日は何もしなかったが、翌日に同居人、二人のボランティアが僕のために晩御飯を作ってくれた。なんだか、照れくさかった。でも自分は年をとった。二人の人生の先輩から様々な話を聞いた。24歳・・若いのか?24年間、自分は何をやってきただろうか。これから何をやっていこうか。

ネットにずっと繋がっていない。手紙もほとんど来なくなった。たとえ誰も今日、自分のことを思い出さなかったとしても、それでも自分の生は続いている。その意味を考えると、やはり今ここで何ができるか、それを考えたい。そんな中、見えない遠くの国の人たちのためにできることを考えたい。私はそこに大切な人々が生きているのを知っているから。自分にとって大切な人が、自分を思い出してくれた日、それが本当に大切な日のように思う。この世界に自分は何が残せるだろう。何を見て、触れて、変えられるだろうか。

31/08/10 バスケットマン

火曜日。膝の上にはコトーがいる。とっても人懐っこい。親バカならぬネコバカになりそうなくらいかわいい。テーブルには首都で買ったハーブティー。ネット接続はうまくいかないが、優雅な夜を過ごしている。

 

最近バスケットボールを持っている人を見る頻度が増えた気がする。去年は生徒が放課後にバスケットしている姿を見た記憶がない。でも今は違う。バスケが流行り始めた。そして、その火付け役は自分だと密かに思っている。授業の後には「今日はバスケットやる?」と生徒に聞かれることもある。

ゲームをするときは必ず、「ディフェンスは体を接触させてはいけない」と口を酸っぱくして言ってきた。ふざける生徒も居て、キリがないようだがファウルをとるように心掛けた。すると、最近少しバスケらしくなってきた気がする。自分はプレー前にフットワークしたりもする。笑う生徒もいるが、真似しようとする生徒もいる。部活動なんて作ったら面白いかも・・とこれまた密かに思っている。

3週間経って、首は良くなってきた。と思ったら今度は腰を痛めたようだ。しかし原因がまた分からない。怪我(?)が多い・・年なのかな?と思うと少しさびしい。

先週末、同居しているAさんと生徒と先生とバスケット。自分とAさんはシュートフォームを動画に記録した。私はPNGに居る間にシュートレンジを広げようと思っていて、そのためにシュートの打ち方を研究していた。自分のフォームを見て、思ったよりきれいだったことに感動した。昔あこがれたNBA選手を見よう見まねで作り上げたシュートフォームはお気に入り。しかし、飛距離が出ない。スリーポイントが入るようになるには、何か工夫が必要だ。という訳で、研究のために録画した。その時、Aさんのシュートについて指導してみたが、なかなか難しい。何か良くないのは分かるのだが、的確なことが言えない。コーチって難しいのだな、と改めて思った。生徒のシュートフォームも指導するのが難しい。

モデムが再び不調になった。回復の兆しがない。また日記をためることになりそうだ。