18.12.09

18/12/09 Lou islandへ

金曜日。先週の金曜日、この前の日記を付けた後にLou島上陸に成功した。今日は一週間のステイから帰ってきたところだ。

自分の行動力というか無謀さに驚いた。日記を付けた後、午後3時まで待った。しかし連絡はなかった。忘れられたかな・・いや、ボートが無くてタウンまで戻ってこれないのかも。色々考えた。

行ってしまえばどうにかなるだろう、と自分の中で声がする。この一週間を無為に過ごしてしまったと悔いている。早く村に行きたかった。今日はもうJはタウンに来ていないのは明らかだった。来ているとしたらそれは必ず朝で、連絡が既にあるはずだからだ。その日、思いついて自分一人でLouまで行くことにした。

まずタウンからボート乗り場Loniu橋まで行く。マヌスの各地から人々はボートでここまで来る。通常朝早く来て、市場で売り買いして、夕方帰る。そのボートが今日、Louから来ていれば私の勝ちだ。しかしタウンではそれを確かめることはできない。バスでLoniuまで行けないと話にならない。まずバス探しからだ。

その日、数か月振りにスーパーに牛乳が並んでいた、という話をSさんに聞いた。これは逃せない!急いで買い込んで、飲めるだけ飲んで、後は冷蔵庫にしまって出発した。冷蔵庫様に感謝。4時に出発。決断が遅すぎたか・・。

Sさんがバス停まで見送って下さった。Loniuで少し本でも読んで帰ってこよう、あまり期待してはいけない。どうせ帰ってきますから。気持ちはもう大冒険だったがガッカリしないように自分を落ち着かせた。バスはあるだろうか・・なんとすぐ見つかった。何時間も待ちぼうけをしている現地の人をいつも見ているだけに、興奮してしまった。いいスタートを切った。

30分ほど走って、Loniu橋。10台弱のボートが止まっていた。今にも出そうなものもある。若干焦った。Louへのボートはもう出たよ!という声も聞こえた。聞いて周った。Louに行くボートを見つけた。見つけてしまった!船頭はバスケの知り合いだった。しかし、金曜の夕方酔っ払いが多くて嫌な予感がした。何処に行くの?Solangという村に生徒が居ます。Jからは片道20キナと聞いていた。しかし船頭は40キナを要求した。高い。理由を聞くと、ボートの行先はLou島だがReiという別の村らしい。その往復のためだという。20キナ・・日本ではわずか800円程度。しかし、こっちでは2000円くらいに感じる。予想外だった。往復このお金を払ったら自分の所持金が持たない・・。

船頭の人に、今日泊めて!ってお願いした。OKされた。自分もReiに行くことにした。こんなんでいいのかな・・と思いながらボートに乗った。酔っ払いたち8人程度とすぐ出発した。Sさんに電話を入れた。行ってきますと。こうして先週の金曜日、無事にLou Islandに向けて旅立てた。

1週間のステイは非常に収穫があった。ノートに日記を書きまくった。紹介できたらと思う。しかし、実はステイはまだ終わっていない。タウンで2泊して日曜にまたLouに戻ってそこでクリスマスを迎え、年を越す。年越し前に皆さまに挨拶しないと・・・。そう思って少し慌てている。

メリークリスマス!そして良いお年を。私は元気です。

11/12/09 待ちながら(冷戦)

金曜日。今週中に生徒(J)がロウ島までのボートをアレンジして、連れて行ってくれることになっている。しかし、全く音沙汰無く最後の日がやってきた。土日はボートが無い。

最近隣の世帯との関係が良くない。

同居人Sさんの使うバイクの工具が盗まれた。畑からもチンゲン菜とパパイヤが盗まれた。目撃はしていないが、よく我が家の下に隣の子どもらやその連れが理由もなくやってくる。そしてSさんはその子ども、さらには隣世帯を良く思っていない。証拠はないが隣世帯の誰かを疑っている。実際彼らは、私たちの家はフェンスで囲まれているが、それを開けたままにしている。・・こっちが一生懸命防犯に努めても意味がない。

そう言う訳でSさんは実験的にビニールひもで隣との間にフェンスを作った。しかし、何者かに切られた。切るな!という張り紙をした。今度はその紙を破られた。自分は隣と話し合いした方が良いのでは?と提案した。私はまだ何も被害がないし、子どもらは時に面倒に思うが、それでも隣人にも良くしてもらっているつもりだったからだ。この冷戦状態は非常に住み心地が悪い。

そんな中、昨日。事件は起きた。昼ご飯を作ろうとしたら・・水が出ない。困った。最近雨が少ないから断水してるのかな・・と。隣が気になった。しかし、今日は暇だし、川に水汲みにでも行こうと思った。日が少し傾いて、涼しくなって近くの小川にバケツ二つもって向かうと、通勤路でいつも挨拶してくれる家族が今日も座っていた。どうしたの、と聞いてくれたので訳を話すと、断水なんてしてないという。そうして水を分けてくれた。川の水は汚いらしい。こっちのバケツは飲み水、こっちのバケツはワスワス、水浴び。ありがたや。サッカー仲間にもすれ違った。トレーニング終わったら水届けてやるよ!と。嬉しい。

バケツ二つ、腕がちぎれるかと思いながら帰ると、Sさんが仕事から帰ってきていた。「水の元栓が閉められていただけ」らしい。しかし、今日の朝も閉まっていたらしい。普段はそういうことはない。この元栓は隣世帯の後ろにある。誰かが意図的にやっている・・。

今週毎日夕方5時からお客様が来ている。6Wという彼は我が家の庭の掃除を自ら買って出てくれた。芝を刈ってくれている。かつてのボランティアも世話したんだ、と言っている。この前はお金を払ったが、今度ご飯を御馳走しようとSさんと話している。彼は60歳を超えているが、たぶん私よりいい筋肉を持っている。信仰に厚い。かつて無造作に目の前に置かれてあったお金、それを盗まなかったことを誇りにしている。6Wという名はかつてのボランティアが付けたらしい。お金は要らない、ヒマだから、神様が働けというから来たんだという。

彼と仕事の後、少し歓談し、シャワー浴びようとした。水が出ない。またか?しびれを切らしたSさんはついに隣に乗り込んだ。誰がやったんだ!と怒鳴りはしないが強い調子で。隣は眠っていたようだ。もちろん証拠はないので問い詰めることはできない。とりあえずSさんは用もなく我が家の下に来ないように言った。特に少年Rに。しかしその夜は彼はいなかった。その後家にあった錠と鎖で水の元栓を閉められないようにした。

今後どうなるのか・・。

09/12/09 現地の人々とは?

水曜日。続ける。

土曜日、市長杯はリーグの上位4チームによる決勝トーナメントを今週末に行う予定だったが、土曜は雨で延期。ネットは不調。奇跡が終わりを告げようとしている。無くて当然、そう思いながら手紙を書いた。一人でクラシックギターを弾いた。もっぱらギターは自分一人の時間に使われている。音楽は人を繋ぐものになると言われることはよくあるし、それは事実なのだ。しかし、一人の時間、自分の世界の構築を助けるのもまた事実だと思う。平日の仕事から離れて一人でゆっくりしたいときに私はギターを弾いている。キラキラ汗が輝く海外ボランティア像から私は逸脱している。こちらの国の人は私のようなことはしない。一人で、歌う事もなく黙々とギターを弾くことはないだろう。真夏のクリスマス、バリオスという南米の作曲家の「クリスマスの歌」という曲がピッタリだ。学生時代、雪の舞う日本の東北でこの曲と出会った。日本の南で育った私にとって厳しい冬だったが、それを好きになれそうな温かい曲だった。それが実は夏のクリスマスを迎える場所で書かれたと知って驚いたが、それでも曲に対する愛情は変わらなかった。また、日本から唯一持ってきた楽譜集はバロック音楽の曲集である。PNGの人も音楽が大好きだ。街中でもイヤホンやヘッドホンをしている人がいる。また爆音で夜中にラジオやCDを聞く家もある。伝統的な楽器と言えば打楽器、リズミカルな曲に溢れているPNGの人が静かにバロック音楽を聞いているところを想像できない。それでもPNGでウケそうな曲をわざわざ弾く気にはならない。

手紙やハガキも習慣になってきた。筆まめになった。郵便局員には私の顔とPO.BOXの番号を覚えられている。私がPNGに居る、それだけで何か日本の知人に伝わっている気がする。「海外ボランティアに行っていた人の話」というとなんだか遠いところにあるもの聞こえるが、「友人の日記・手紙」だとかなり身近に感じられると思う。伝えてどうしたいのか、はっきりビジョンがある訳ではない。しかし、知ろうとすることが自分たち先進国に生きる人の義務のように感じられるのだ。知らなかったでは済まされない事態が自分の知り得る場所で起こっている可能性に私は怯えている。

こうやって自分を見ると、全く日本から心が離れていない。日本のこと、帰国後のことをよく考える。きちんと目の前の途上国の人々に向き合ってないのではないか。そうだろうか?向き合うこととは彼らに気に入られることなのか?ギターを弾く、手紙やらブログ書く時間があるなら現地の人と話をした方が良いのでは?とも思う。それらは自分の逃げる場所になっているのではないか。PNGの人に認められなくたってきっと日本で誰かが認めてくれる、そんなことを考えたりもする。自分たちボランティアは存在し何かすることが大事なのであって、仕事の成果は期待されていない・・とも感じる。そう思うと、2年間取り敢えず何とか生きて帰れたらよし、なんて思ってしまう。そんな意識では決して得られないもの、それは現地の方々の目線かもしれない。

現地の方々の目線に立って仕事をする・・というのはどういう意味なのか。

おそらく求められているのは彼らを外からでなく内側から理解すること。その集団の一員とみなされ、その集団の意見を代弁できるような人間になること。それは彼らと同じことすることとか、彼らにイイやつだと言われることとは違う。それらは知るための手段である。しかし、現地の人にとって海外からやってくるボランティアは外から援助してくれる人。感謝され、同時に仕事することを求められる。自分たちとは違うと思われている。周りの家には無いようなフェンスに囲まれた家に住み、パソコンを使う。専門的な知識もある。2年間でいなくなることも知っている。私から見ても本当に内側に入ることは、とても非合理的に見える。この数か月では私から見た悪習はとても受け入れることができなかった。自分の中に湧いてくる発想、何故か自分だけに見えてしまう犠牲者、それらをただ見過ごすことが出来ない。短気なのだろう。目の前の一つのクラスを救うよりも、同僚の考え方を理解することが大事なのか?

土曜日、夜に先生方の懇親会があった。ごちそうが振る舞われた。クリスマスを祝った。プレゼント交換をしたり、一部の酔っ払いは音楽をかけて踊ったり。クリスマスは家族と過ごしましょう!高らかに言う。ここにひとり、どうやっても家族とは過ごせない外国人が居ることは誰も気に留めなかった。誰も会費は取られていない。政府の援助や学費で賄われている。この学校の運営費は、ときにこのような形で使われる。かつて日本で研修を受けた教師と話をした。時刻の正確さとスケジュールの細かさに驚いたという。PNGもそうなれば、もっと一日に色々なことが出来るのに・・と言う。たとえその同僚一人が日本流の生き方を実践しても疲れるだけだろう。私のように工夫しなければ。特殊な一人の人間が社会を変えることはできないだろう。一人の人間がそのような痛みに耐えられると思えない。まわりと同じような平凡な人間が少しずつでも何かを変えていくように仕向けないと。

分からない・・現地の方々とは誰なのか?自分にとって教師ではなく、もっと多数の人だと思っている。生徒。村に住む人々。弱者。そういうわけで今週から村に行く。今自分には見えない、無言で私を待っている人のもとへ。

8.12.09

06/12/09 graduation

日曜日。

金曜日に卒業式が予定通り(?)行われた。朝学校に来てみると綺麗に飾り付けされていた。看板も立っている。

バンドも練習していた。最後の打ち合わせといったところだろう。卒業生は白いワイシャツを着て、黒のスラックス。ネクタイもしめている。女子生徒も多くが白黒を基調にした服を着ていた。grade10はその格好だが、12はその上にガウンを羽織る。司会を任せられている教員はずっと落ち着かない様子だった

学校の式典用の広場、サンシェルと呼ばれる扇型の広場が使われた。客席からステージを見下ろせる。ステージが一番低くなっているが、そこには屋根がある。ここで司会がスタンバっている。そのステージ上に来賓席があり、客席に相い対するようになっている。客席は卒業生が座る。在校生は・・席が無い。保護者も。周りを囲むように立ったり座ったりしていた。

来賓は近所の会社のお偉い方(ロッジ経営者、水道局、銀行など)、ボード(教育委員会)の方、市長、そしてなんと国の大臣まで!マヌスから当選した議員だ。各州に一つずつ大臣の枠があり、選挙で当選すれば議員になると同時に自動的に大臣になる。つまりどの州にも一人必ず大臣がいることになっている。この大臣は来賓で最も早く学校に来た。そして私に話しかけた「あなたの国ではこうではないでしょう」と。自分は彼が来賓、まして大臣とも気付かず、普通に会話していた。名前も聞かないし尋ねない。初めはイライラしていましたが、今は適応しようとしています。と素直に答えた。

学校全体でこの式を盛り上げようと必死だった。私にも仕事が回ってきた。「カメラ係」だ。そう言う訳で、大体ここから撮ろうなどという下調べをしていた。と同時に式直前の卒業生の友達との様子を写真におさめた。

卒業生の入場が、伝統的な打楽器による音楽、それに合わせた踊りとともに行われた。音楽・踊りは在校生の練習の成果があって、普段よりすごくキレのあるように聞こえた。打楽器はガラムッドと呼ばれるもので、木の幹、長い円柱状のものを側面からくり抜いて作ったものだ。5つ程度の大小の異なるもので音楽を作る。楽譜はなく、部族によって違うらしい。原始的と思っていたが実は叩く位置を変えることで固い音、丸い音など音色を作ったりしている。踊りは伝統的な服装・・を模した布で行われた。かつては自然の植物や羽、貝殻などをまとっていたのだろうが、買ってきた布など使っていた。時代の流れだろう。

さて、入場し終えたところで、バンドによる国歌斉唱。バンドボーカルの熱唱とバンドの演奏が響くが、他の人は歌っていない。普段の朝礼の時もそうだが、なんか日本に似ている。そして祈り。キリスト教の国なので。

ここから来賓方・校長の有難い話が怒涛のように続いた。委員会の長、校長、最後に大臣だ。校長の話は卒業生に向けたというより、学校の関心事を述べまくったという具合だった。これが一番辛かった。客席には屋根が無い。強い日差しがあったかと思うと曇り、雨が降った。卒業生には周りから傘が手渡された。私も常時携帯している日本から持ってきた折り畳み傘を渡した。せっかくの晴れ舞台だから、綺麗でいて欲しかった。彼ら全員の写真を撮ろうと必死になった。

そんな中、大臣の話は聞きごたえがあった。彼だけだと思う、目の前の人のために話をしたのは。彼は飾ることなく、真実を話した。現実を捉えた上で、希望を託した。

君らは卒業して、ここで喋るような人間になるのだ。親になり、教師になるのだ。残念ながらこの国は君ら全てを進学させるほどの容量を持っていない。でも、それぞれの場所で次なるステップへ挑んでほしい。卒業は次なるステップへの始まりなのだ。セカンダリースクールを卒業したことを誇りにして欲しい。この国は知識層が乏しいのだ、人材が不足している。だから外国に頼ってばかりだ。今朝、一人の教師と話をした。Mr.T(私の名)だ。彼の国では時間通りに電車がやってきて、人々もそれに遅れまいと必死に走っているのだ。しかし、君ら卒業生、今はこの学校の生徒だが、今日の午後にはそこらの道に座ってるおっさんと何も違わなくなっているのではないか?それが現実なんだろう・・・。

私に人にケチつけるような資格はないが、この大臣に私はとても好感が持てた。自分の考えを持ち、エネルギーを持っているようだった。その後の卒業証書授与も、彼はただ渡すのではなく、声を掛けていた。他の来賓はそのようなことはしなかった。

サンシェルの周りは続々と人が集まり、カメラマンは動きづらくなった。汗をだらだらにかきながら授与の瞬間を一人一人写真に収めた。しかし人だかりがどんどん前に迫り、通路をふさぐ。さらに卒業生は受け取るときに恥ずかしいからか、来賓者の顔も見ずに立ち去る。シャッターチャンスが短い。おめでとうに対するありがとうも無い。まだまだ子どもなんだな。この式典では同時に成績優秀者も表彰された。grade12では1人の生徒が4科目で最優秀だった。それは何とMasobuのチームメイト。あいつ勉強してたんだ・・。他のチームメイトも何人か卒業する。中盤でチームをよく引っ張ったJも。彼は表彰されなかったが、生徒の中でも大人びていて、私は彼の態度、チームの中で果たしてきた責任には敬意を払っている。居なくなるのが寂しい。

結局この会で300枚の写真を撮った。初めてネクタイをして仕事をしたこともあってひどく疲れた。

昼はスタッフと来賓にご飯が振る舞われた。卒業式のあとで会議をすると聞いていたが、校長も疲れた様子で、休まないと・・と言っていた。来年はどうするの?と思っていたら、翌日、土曜にお疲れさん会があるから来るように言われた。

食事会の途中、一人の生徒が私のところに来た。彼は木曜日、卒業式前日にたまたま話しこんだ生徒だ。なんと今度休暇で行こうと考えていたLou島出身の生徒だったのだ。自分の教え子Bにホームステイを打診したが、反応があまり良くなかったのでどうしようか考えていたところだった。話を聞くとBと同じ村出身。断られたわけではないので、もしBとこのまま話が進まなければ・・という条件で木曜日にアレンジをお願いしたいと話したのだ。この生徒Jは直接の教え子ではないため、初めての会話だった。でも日本のことにとても興味があるようで色々話をした。受け答えもしっかりしていて、素直だったので、信頼することにした。金曜日、最後の登校日ということで、Bを探したが会えず、Jはわざわざ私を探してくれた。そう言う訳で彼にお世話になることにした。

03/12/09 学期末

木曜日。学校はweek10、月曜日はperiod7,8はなくなった。せっかく反省を踏まえて少しずつでも改善していこうと意気込んでいただけに残念だった。学校はもう卒業式に全力投球という感じだ。一応最後の日まで授業だなんて言ってはいたが、それは言葉だけであった。アセスメント(評価)が終わり、授業に対する気持ちが小さくなっていく。生徒は教師が授業に来ないと言い、教師は生徒が授業に来ないと言う。

卒業式は始めは来週と聞かされていた。それが今週に変更した。卒業式は木曜だと月曜日に聞かされた。まずいな・・単元終わらないよ。先週の金曜Mr.Nは無断欠勤。代わりに授業した。月曜なにくわぬ顔でやってきた。むしろ笑顔で。二日後にManusを去ると言った。は?もう呆れるしかなかった。まだ学校は終わっていませんが。この人には自分しかない。自分が去る時はこういうことだけはしないようにしよう、そう誓った。

火曜日には卒業式の予定日は金曜になっていた。なんでも隣の高校と重なっていたらしい。それくらい調べてから予定は決めよう。この予定はいちいちラジオで放送して学校にはいない、村に居るgrade10.12の生徒・保護者に知らされる。彼らも混乱するだろうに・・。火曜日が最後の授業になった。授業を終わらせ、自分は早急に病院に行った。ボイルの薬をもらうためだ。被害が拡大する前に先手を打つ、今週末の市長杯はぜひ出たいがためだ。なんと我がチームward6はリーグ一位。今週末で上位4チームのトーナメントで優勝を決める。関係ないが・・この日は世界エイズデー。赤いリボンを胸に付けた。市場ではバンドが出ていた。この国、世界何とかの日をすごく大事にしている。世界食糧の日、世界水の日・・何かイベントが行われる。

病院は込んでいた。黙々と読書に励んだ。待っていると、病院で働くMasobuの監督に会った。彼は見つけるといつも声をかけてくれる。ボイルのことをとても心配してくれた。野菜を食べないとだめだ!うちに来てご飯食べな!と誘ってくれた。嬉しかった。7時ね。ということで、お宅に伺った。最近はずっとMasobuでサッカーをしてないので、監督の家は久しぶりだった。雷が激しく鳴るなか、行くべきか迷いながら行った。雨だったら約束に来ない、こちらの人はそんなものだから、彼らも私が来ないと思っていることだろう・・。しかし行った。行ったらやはり驚かれた。もう食事も終わらせてしまったらしかった。・・でも大丈夫私の為にわざわざ一匹の魚を用意していた、というのだ。

監督自ら料理してくれた。魚を炒めてくれた。ボートで釣ってきたらしい。そしてサクサク。セゴだ。しかし・・どこにも野菜が無いが、気にしない。してはいけない。美味しく頂いた。サッカー、市長杯の話、次の大会・・マヌスリーグが始まるらしい。これはマヌスをいくつかの地区で分けて、各地区で選抜チームを作るそれらが集まって大会が開かれるのだ。ロレンガウは1チームだ。それにぜひ加わって欲しいということだった。しかし、この長期休みは予定が色々あるからダメかもと、素直に言ったら理解してくれた。というか、自分はロレンガウ代表としてプレーするような実力は無い。そう言うと、そんなことは無いと言うが、本当は宣伝効果を期待しているらしい。、利用されている、とかそういう悪い気持ちはしていない。私は監督が好きだ、だからできることなら協力したいということを伝えた。

水曜、木曜日は卒業式準備に当てられた。実際掃除くらいのものだ・・一部の生徒は歌や踊りの練習をしていた。寮生は朝6時から掃除。忙しいというが、多くの生徒、教師がただぶらぶらしていた。自分もせっせと草を抜いていたが、生徒は集中力が無い。すぐどこかにいく。座ってお喋りをする。ヒマそうな教師に聞くと作業は夜までかかって行われるらしい・・今必死にやればいいのに、なんて思ってしまう自分がいた。

待つことはかなり疲れる、これに適応するのは辛い。こちらの人はただお喋りしながら、バス、人、試合、会議を待つ。何時に来るか分からないもの、もしかしたら来ないかもしれないものを待つ。日本では比較的だらしない部類だったと思うが、こっちではだから、自分も始まるタイミングを大体見計らっている。しかし、自分も落ち着かないし、気持ち悪い。無理にPNGタイムを自分が使う必要は無い。約束通りに行って、待ち続けよう。しかし、ただ待つだけでは自分が続かない。だから常に暇つぶしの道具を持ち歩く。文庫本とか、書きかけの手紙とか。これなら、大丈夫。誰かを恨むことをせずに、しかも落ち着いて過ごせる。自分は日本に戻るんだ。将来日本に帰ってからもこの習慣はきっと自分を助けるだろう。こちらの人は本気か分からないが、私の時間に対する態度を見習いたいと言っている。私は見せつけたい。この国で、周りはPNGタイムで動く中で私がいかに苦しみ、時間という資源を有効に使おうと努力しているかを。

逆カルチャーショックという話がある。途上国で2年間過ごして、その国の価値観を意識・無意識的に持つが故に、日本に帰国したときに派遣前までは当たり前に出来ていた暮らしに適応できないことがあるらしい。もし本当に途上国のことだけ考えていたらそうなるだろう。そのときそのとき、未来を見据えて自分が正しいと思うことを一生懸命やる。途上国生活の楽しみが半減しているような気がする・・。