24.1.10

24/01/10 帰任

日曜日。帰ってきた。落ち着く。

首都から帰ってきたのは金曜日。留守の間、Sさんの友人であるLに家のことを頼んでいた。変わらない我が家があった。初めはそう思えた。

しかし、バケツが一つないことにSさんは気付いた。Lは今朝使ってここに置いたというが、そこに無い。あらま・・と思っていると。Sさんはさらに靴が無い、シャツが無いなど、おかしいことに気付き始めた。私もよくよく探してみるとバスタオル2枚が紛失していることに気が付いた。この日、空き巣に入られたようだ。

カバン×2、靴、バスタオル×2、シーツ、シャツ、バケツ

さらに床下のバイクも荒らされた。かつて2回工具が盗まれている。

また犯罪被害だ。警察に報告しなければ。警察は来てくれない。自ら出向いた。現場を彼らは決して見ない。

犯行はLが家を出た10時から帰ってきた夕方4時の間である。我が家はフェンスに囲まれている。上にはトゲが付いている。このフェンスの入り口は2か所。我が家の前と現地人の隣人の家の前。隣人のほうの入口はいつも開いている。つまり私たちボランティアが施錠してもフェンスの中に入れるのだ。その次の防衛線は我が家の玄関。我が家は高床式。階段を上ると鍵のついたドアがあるが、このドア金属の格子なので、格子の隙間に手を入れれば内側からドアノブを回せてしまうのだ。普通の人にはこの格子の隙間に手は入らないが、子どもには可能。実際過去に近所の少年に入られたことがある。そういうわけで玄関に入られた。その結果そのスペースにあるものを持っていかれたというわけだ。幸運にも各寝室やキッチンなどは鍵をしていたため侵入されなかった。

報告後、家の周りを歩いてみると、フェンスの外に盗まれたもの全てが藪の中で、わざわざビニル袋に入った状態で見つかった。暗くなってから取りにくるつもりだったのだろうか。

「ダミー置いたら取りに来ますかね?」

そう言うとSさんはすごくやる気になって罠を作ろうと言い出した。靴などを入れたビニル袋を置き、それにブザーを仕掛けた。鳴ったら素早く作戦開始。SさんとLは戦うというが、私は弱いのでライトを焚いて写真を取る。

結局来なかった。

土日はゆっくり過ごした。庭の中の木々を隣人Pと切りまくった。外からよく見えるようにと。腕が痛い。夜は帰国が近いSさんの活動、村落開発普及のこと、それに用いる手法について話を聞いた。これは、学校でも使えないだろうか・・学んでみようと思う。「人間の安全保障」に関する本を読んでいる。紹介したいLou日記もまだ溜まっている。明らかに飽和状態だが、ギターを弾くことも忘れない。

明日から学校。長いクリスマスホリデーは終わってしまった。生徒はその1週間後からやってくる。この1年、モチベーションを維持するのに苦労しそうだが、人生にまたとない機会、やるだけやってみようと思う。きっと世界中の仲間たちも色々感じ、考え、活動しているんだろう。自分だけ停まっている訳にはいかない。

日本に帰って胸張って、「やるだけやった」と言いたい。

22/01/10 日本人、大集合

金曜日。

先週の金曜日から丸一週間、首都Port Moresby に滞在した。これは私が日本国際協力機構(JICA)の派遣するボランティアであるからで、年に2回、50人程度いるPNGで働くJICAボランティアが集って自らの問題や、活動における問題を共有する。

先週の金曜日。遅れる、ダブルブッキング。そんなことが平気で起こるPNGの飛行機らしいが、無事に乗れた、そして予定時刻に到着した。首都PoMには事務所、ボランティアのドミトリー、大使館など色々ある。私は離れた田舎から来る都合、毎日飛行機はないので、他のボランティアより一日早く首都にきて待つことになった。しかし、ドミトリーにはこの1月に来たばかりの新ボランティアが滞在していたため、全く退屈することはなかった。これからのPNGに希望や目標を持つ彼らに負けず、自分の夢を語った。彼らはなかなかハードスケジュールの中生活しているが、楽しそうにしていた。まだPNG三日目の夜だったようだ。

土曜日。事務所に行き報告書を提出。青年海外協力隊として活動するボランティアは2年間に5回ほど報告書を提出しなければならない。配属先の高校での活動をメインと考えがちになるような体裁が用意されていたが、私にとって、否、海外ボランティアにとって本当に大事なものは必ずしも配属先にあるとは限らない。私の場合、直前まで滞在したLou islandで見たものこそ「草の根」を謳う青年海外協力隊が注目しなければならないものだと考え、強調した。私たちが見たものが、国際協力に携わる人や日本に居る方々の知識となれば、私たちのここに居る意義がはっきりする。

この日からホテルに移った。ボランティアは50近く居るが、ドミには13しかベッドがないためである。高級感溢れる内装だが、金庫が使えなかったり、そのために荷物を預けたら二日間取り出せなかったりと、色々不便だった。他のボランティアと相部屋なのでひたすら話し続けた。

日曜日。懇親会ということで、パプアニューギニア大学のグランドを借りてソフトボール大会が行われた。集まったボランティア、JICA事務所で働く方々で和気藹藹と汗をかき、曇り空にもかかわらず皆さん顔を真っ赤に焼いていた。

 

月曜日。総会が開かれた。ボランティアの生活改善がテーマらしかった。ドミ管理委員の長になってしまった。みなさん、人の気持ちになってドミトリーを使って下さい。私は自分がPNGに来たばかりのときに、ドミの生活が辛かった記憶がある。右も左も分からない、買い物したくても危険だから出るなと言われ、先輩隊員が来ると、居場所が無い・・。しかも事務所でひたすらオリエンテーションで時間も無い。そんな訳で、後輩隊員に愛を持って接して欲しいという願いがずっとあった。

 

火曜日。ボランティアの活動の報告会も開かれた。PNGに来て大体一年経過したボランティアが現状を報告した。ボランティアには私のような若い人、青年海外協力隊もいればシニアボランティアと呼ばれる別枠でボランティアに来ている方々の居て、同じ職種の人たちの中でも貴重な情報交換が行われた。全く違う職種でもこの国の状況理解の助けになった。病院や保険、医療関係の省庁で働く人の話は、豊かだと思っていたPNGの影を感じた。乳児死亡率が高い(U5MRが65%)こと、マラリア(540万人、全体の87%が汚染地域に住む)、結核の被害が深刻であることは開発途上国であることを改めて認識するに十分だった。マラリアによる死者の数が、PNGの報告(約630人)と赤十字の報告(約3000人)で大きく違うことも、調査が出来ていない現状があると考えられる。

私の居る国パプアニューギニアはJICAがボランティアを派遣している国の中で最も危険な国とされている。それはJICA関係者の犯罪被害件数、犯罪遭遇率ともに最も高いというデータに基づいている。要するに治安が悪いということだ。実際現在いるボランティアから犯罪被害の報告を聞いた。顔面や後頭部に怪我をされて、見るからにとても痛々しい方にお会いした。訳も分からず集団暴行を受けたという実例や真夜中に家に侵入されたという実例を聞いた。私の島に居ると分からないが、この国は間違いなく危険なのだ。50人のボランティアが全員男という他国に例がないこの状況からもそれはうかがえる。

この安全対策の会議の翌日、水曜日。朝に私ともう一人で人通りの多い道を歩いていた。すると突然すれ違った男に腕を強く掴まれ、停車中の車に後ろから押しつけられた。

Bag, bag.

人生で初めて強盗にあった。周りにこんなに人が居るのに誰も反応しない。3人に後ろから囲まれた。私は肩にかけていたバッグから財布いを出し、速やかに渡した。しかしもう一人のボランティアは殴られた上で、パソコンや電子辞書など貴重品の入ったバッグを丸ごと奪われた。周りは「何があった?」「怪我はないか」「かわいそうに」「警察に行きな」・・などなど様々な言葉をかけてくれた。しかし、後の祭り。とりあえず事務所に行って報告。警察署に行って報告。銀行のカードを止めた。幸運にも生きている。だから言えることだが、私は学んだ。もっと気をつければこのような被害は減る。私は明らかに用心が足りなかったと思うのだ。もっと周りを見る。早足で歩く。この街は危険だと自覚して、それらを実践していれば違ったと思う。自分の居る田舎の島とも、日本とも違うのだ。自分のポジティブな考え方に驚くが、次から気をつければいいと思う。死ぬような大事件に巻き込まれる前に貴重な体験をしたのだ。実際現場のすぐ近くの中華料理屋に銃を持った強盗団が入って警察と銃撃戦を繰り広げたばかりなのだから。つい数日前に12人の凶悪犯が脱獄したばかりなのだから・・不幸中の幸いなのだ。

銀行に行った後、気を取り直して、分科会に出席した。分科会とは同じ分野で働くボランティアの集まりである。私の場合、理数科教師の分科会に参加した。毎年どこかの学校に行って行う勉強会的なものについて話し合った。かつて私の配属先のManus Secondary Schoolはこれのホストだったことがあり、その報告書を読んだことがある。私は強い反感を持っていた。授業参観、理科実験の紹介、日本文化の紹介を行ったようだった。主な目的が「ボランティア同士が学び合うこと」であるということであった。理科実験はただの見世物であり、どうやって授業に取り入れるのかという考えなしのものであった。日本文化はウケた。その結果、同僚や生徒の記憶は「面白かった」「ジャパニーズダンスは最高だ!」に終始する。だが、彼らの勉強、仕事に何も変化を残せていないのだ。・・このようなものに自分の全力投球しているものを邪魔されたくなかった。今回の会議では、そのような話に本気でぶつかれた。現地の教師の方に「学んでもらう」ようなものを目指すことでまとまった。それならば、と思い私は今年の「勉強会」を自分の任地でやることを提案した。これはとてもエネルギーがいることだと、常々言われてきた。出来れば自分の学校は避けたいという空気が蔓延していた。私の学校は経験がある、誰かがさせられるよりも負担は小さいだろうと思った。そしてなにより、自分一人での活動の限界を感じていたからだ。これを機会に配属先に何かもたらすことが出来ないか、という淡い期待からである。

私のことを「何でも積極的にやる人」と思う人がいるかもしれない。実際、そんなことはない。私は変わったと思う。みんなが「みんなのために」働く場所に出会えたからだ。自信はまるでなくても、周りが自分を支えてくれた。そのような場所なら仕事を引き受けることが恐くないということを経験してきた。今それを確信しつつある。大学時代、日本での訓練期間に私を支えてくれた人が、私を走らせているのが分かる。

夜は大使官邸に食事に招待された。立派な家、玄関には大きな菊の御紋が。美味しい料理を沢山御馳走になった。しかし、帰ってから頭痛腹痛とひどい下痢に襲われた。夜1時間おきに目を覚ましお手洗いに駆け込んだ。コレラを疑った。翌朝熱を測ると37.8度。そんななか健康診断に行き、5時間待ちを食らった。マラリアもチェックされたが陰性。抗生剤を処方されたが、様子を見るうちに回復した。

こうして、気が付けばもう金曜日。任地マヌスへ帰る日だ。同任地の隣の高校のYさんはオーストラリアへ行く。彼に2通の手紙の投函を頼んだ。青年海外協力隊は2年間の間に、特別な理由がない限り日本に帰れない、隣国など限られた国への出国は認められているが20日まで。その制度が変わって、日本に帰れるようになった。任国外の旅行も年間20日、つまり2倍になった。

日本が近くなった。沢山の日本人に久しぶりに会って・・・恋しくなった。帰りたい、でも2年間必死に頑張ってみたい。心が渦巻いている。

PNGが嫌いなわけではない、でも将来住むなら絶対日本がいい。今は豊かだが、日本が貧しくなるかもしれない。それでも日本に住み、日本を見捨てたりはしないだろう。好きなんだ。これが愛国心というのだろうか。

21.1.10

21/01/10 上京

木曜日。現在首都、Port Moresbyにて日本のボランティアが会議や健康診断を行っている。

首都の事務所のネット環境は非常に良い。

多くの人が集まって様々な情報交換が出来る。

首都でしか買えないものを買う。

やりたいことは沢山あって忙しい。今回、このブログに写真をアップしてみる。

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上の3つはマヌス本島、私の住むLorengauの街。左上は学校から海を眺めた風景。小さな街だ。

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これはハワイ島の海。きれいな海、以外に何もないのだ。

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Lou island の写真。左上は村と村の間、ハイウェイと呼ばれている道(?)。右上は新年のパーティーのために放し飼いの鶏を捕まえるところ。左下はおばあちゃんがムームーという伝統的な焼石で行う蒸し焼き料理が完成したところ。右上は地熱ふ化を行う鳥の卵を掘りまくっているところ。大きな穴。

paradiseと呼べるか否か、それは今後の生き方に懸かっている。写真を通してみせるPNGの一端である。もちろん、全てのPNGがこんな感じという訳でもない。

書かなければならないことがとても溜まっている。忙しい。

10.1.10

13/12/09 LRTの準備

日曜日。Lou Island Ragby Touch (LRT) なる大きなイベントが控えていた。PNGはオーストラリア領だった歴史もあり、ラグビーが盛んである。オーストラリアのプロリーグの中継もやっている。もちろん、この村にはテレビは無いが。Touchとはタックルの代わりにタッチで済ませるラグビーで、ケガをせずに済む。そして何故かこの辺境の地で、ラグビーの大きな大会が催されるのだ。それはわざわざ首都や他州の都市からチームが集まるというのだから、驚きである。この村Solangからもチームを出す。ここにはこの島唯一のラグビー場がある。つまり、Solangが会場になる。男らは朝5時に起きて練習開始。自分は何度も鶏に起こされながら6時半まで眠った。

朝起きて洗濯させてもらった。街では水浴びは一日2回する習慣が付いていたが、水が少ない今、そんな贅沢は言えない。朝は歯磨きだけ。PNGの人が歯磨きするのを見たことがない。その代り彼らは、ブアイの実の皮や、木の枝、はたまた一度は包丁で歯をきれいに磨いたり、削ったりしている。ブアイは噛んだ瞬間は歯がシャキッとして歯磨きの後みたいな感じになる、たった2回やっただけだが、一応分かる。でも、こっちの人の歯は真っ赤になっていたり、ボロボロだったりする。Jのおじいさんは歯がほとんど無い。

口内炎ができた。臀部にはれものも。靴ずれも。しかし、一番困ったことはサンドフライと呼ばれる1mm程度の小さなハエ。こいつが噛む、吸血するととても痒い。たまらない。足首と腕が集中的に、肢体に40か所以上。寒いより暑いほうがいい。きちんと水を飲んで、影に逃げれば死ぬことはない。そう思っていた。しかし、こういう虫たちのせいで肌がぼろぼろになり、汗もかき、膿みやすい。病人みたくなってしまう。暑いのも困りものなのだということを理解した。しかし、タウンでは被害が無かったのはなぜだろう。とにかくJに見せると赤ちゃんの肌だと言われた。練習後朝ごはんを食べた。

Jの祖父母の家は海から100m位離れた少し高台にある。おじいちゃんはサンドフライが大嫌いで、こいつから逃れるために砂浜に行く。砂浜は北西に向いており、この季節は強い西風が海から村に吹く。この風をおじいちゃんは受けて、ハエから解放されるのだ。

日曜日は普通に働ける。Solang村は砂浜とジャングルに囲まれている。そのジャングルは10m以上もあるココやしに覆われている。その中で男らは木を切っていた。LRTのオフィシャル用の建物を作るための木材を切りだしていた。2台のチェーンソーがけたたましい。20人弱の男が居たが座っているだけの者も居た。耳の聞こえないJの叔父、Tは周りに指示を出していた。Tともう一人の伯父であるDはこの島で初めてチェーンソー使いになった人間らしい。もう一人耳の聞こえない男性が居たが、彼も上手にチェーンソーを使い、指示を出していた。他の男らは交代しつつ木を切る。中には慣れない手付きの男の子も結構いて、指導を受けていた。「まっすぐ、傾けるな!」 Tはジェスチャーで右だ左だと示す。座っている男らは騒音の中でジェスチャー混じりで喋っている。陰口が大好きだ。まさに汗だくになりながら、真剣に木を切っている男の子が上手にできなかったりすると「アイツはダメだ、マリファナの吸いすぎだ。」と後ろで話している。くるくるパーと頭がおかしい、とでも言うように。ときにそれは悪口の応酬、口喧嘩になる。なんだかな~。自分も何か手伝いたかったが、周りも必死に私に怪我させないようにしてくれる。とりあえず、チェーンソーは難しそうだ。観察していると、Jは自分にできる仕事をやっていた。木を測って印をつけたり、切り口に溜まる木屑を掃いたり。座ってだべっている人たちより賢そうだった。少し嬉しくなった。そして私もそれを手伝った。チェーンソーが線を見失わないように掃いて助ける。邪魔しないように。なんか餅つきを2人でやるときの感じだ。チェーンソーの動きも近くで見れる、こうやって観察して、Jも木が切れるようになるのだろうか。途中で見ていた人が代わってくれた。私は休憩。周りの座ってる男の中には小学生低学年のような子どももいる。ただ見にきている。彼に私のノートをちぎって折り鶴を作って見せた。すごく驚いていた。プレゼントすると、彼は鶴のしっぽをつまんでジャングルを歩きまわった。鶴がジャングルを飛んでいる・・とても新鮮な風景だった。鶴は少年とともにTのところまで飛んだ。Tはその少年が見せる鶴を首をかしげながらみつめた。少年は私を指さす。「鳥だよ」と両手を広げて羽ばたかせてTに示した。彼は理解したが、不思議そうに折り鶴のしっぽをつまんで眺めていた。熱帯林のなかで。

その後、男らは午後のトレーニングをした。私はその横で少年らとサッカーをした。日本で教わった技をみせたらサッカースターと言われてしまった。楽しかった。そして、暗くなり、水浴びをした。エイドポスト(薬剤庫)にあるタンクの水を使った。共用タンクになっていた。ここにかつて日本人のドクターが居たらしい。長居したというよりは何度も来ては帰ったということだが、何かの調査だったらしい。しかし、医者として人を助け、さらに彼は村のみんなの名前を覚えていたらしい。やはり、名前を覚えるというのは大切なことだ。

こちらの島のトクプレス、英語が来る以前からある言語、は当然よく使われる。私は共通語ピジン英語を使っているが、ここは村。そういう訳でいくつかのトクプレスのフレーズを教わった。

トクプレス = 日本語 =ピジン語

ウロ=ありがとう =テンキュ

ピヤン=いいね!=グッペラ

ウロ エ コン ファンゲ=私の食事に感謝します

=テンキュ ロン カイカイ ビロング ミー

パリベン=おはよう=モニン

プウェップ=こんにちは=アピヌン

キャリベン=こんばんは=グッナイ

チョンギシム=おなかいっぱいです。=ミー プル アップ

ティーベン ウォンガビエーン ジム =明日ジム(産卵場所)に行きます

=トゥモラ バイ ミー ゴー ロン ジム

ワ メ=来なさい=ユー カム

カタカナだが、RとLは使い分けているし、-nと-ngも使い分けている。祖父母の家は基本これで会話しているので、聞き取れない。最初にウロ エ コン タピオク というフレーズを男の子らに言わされたが、J曰くこれには卑猥な意味があるらしい。私がこれを言うと老若男女が喜ぶ。

5.1.10

12/12/09 火山とLouの人々

土曜日早朝三時・・目が覚めた。鶏が鳴く。early bird。早い・・早すぎる。辛かった。何度も寝起きを繰り返した。6時に明るくなり始め、起床。Kは眠っていたが父親はもう居なかった。少し散歩した。崩れた崖、見える火山噴出物の地層を見た。この島は黒曜石の産地として有名なのだ。ここの黒曜石が南太平洋の離れた島々の古い文明の痕跡からみつかるそうだ。黒曜石、それは天然のガラス。かつてその鋭利さから槍の頭や矢尻として使われていたらしい。かつては武器商人とでもいったところだろうか。

歩いているとあちこちに落ちているのを目にする。しかし、その崖が見せる降下軽石堆積物に黒曜石は入っていなかった。火山噴火とザックリ言ってもその様子は様々。ある時は噴煙をあげ、高温のガスと塵と共に大量の軽石を大空にまき散らす。小さな灰は漂い続け、比較的重たい軽石が先に地面に落ちる。地層の中で同じ重さの粒子が仲良く一緒に居る。地層をみるとこういう物語が編める。これらが空から降ってきたというのが分かるのだ。これが淘汰だ。そして黒曜石は噴火すれば必ず出る、というものではないということが分かった。ある特定の噴火で大量に噴出したのだろう。

散歩を終えてKの家に戻るとKは起きていた。朝、Kとその友人二人とともにSolang村へ出発した。自分が首都で買った地形図にもはっきり道があった上、村人も「ハイウェイ」があるから問題ないというので安心しきっていた。彼らは私の荷物を手伝ってくれた。ハイウェイ・・舗装はもちろんされてない。しかしかつて車が通ったのではないか、という轍のあとのようなものが見えた。Reiの中では。話によるとかつて車が走ったらしいが、現在この島にはもう車を持つものはなく、道は何十年も前に歩行者専用になったようだ。村からでるとけもの道だった。しかし、畑がところどころ広がっている。実はこの島ほとんど開拓され畑になっているのでは、というくらいだ。畑、自給自足。と思いきや、カカオを栽培している。この島、火山の恩恵らしいが、土壌がかなり良いらしくManus本島では育たない様々な作物が立派に育つらしい。カカオは栽培して業者に売るらしい。本島の土は貧弱赤い粘土だと人は言うがLouは特別らしい。SさんもLouの農作物は本島より立派だと言っていた。

しかし30分あるくとジャングルになった。そして一時間歩いてSolangに到着。最初に聞こえたのは教会からという発電機、モーターの動く音だった。今日、土曜は礼拝の日なのだ。SDAというキリスト教の一派の特徴だ。LouはSDAの島なのだ。そう言う訳で、村人の多くが礼拝に行き、ほとんど人が居ない。若い男らだけが残っていた。不良グループといったところか・・そういう話を聞くなかでJに出会った。彼は礼拝に行ってなかった。驚いていた。

Kは少し休んですぐReiに帰った。雨が降りそうだからと。非常にタフな奴らだ。感謝感謝だ。さて、Jはボートが無かったために私をタウンまで迎えに来れなかったことを詫びた。私は良い経験が出来たと少しも気にしなかった。

この日の午後は、散歩という名目で地面で水が沸騰しているという沼へ連れて行ってくれた。土曜は信仰の日で、働くこと、魚を釣ること、畑で芋を掘ること、料理することが禁止されているのだ。Jの友達八人前後と向かった。途中、Wild fowlと呼ばれている鳥の産卵場所に連れて行ってくれた。30分くらい歩いた。地面が穴だらけだ。それにココやしの葉が人為的に柵がしてある。穴を人々が所有しているのだ。そこにわざわざその鳥は産卵する。ただ産卵しない。親鳥は1メートル近く掘って産み、また埋めるのだ。親鳥は温めない。なんと地熱でふ化させるのだ!なんという怠け癖。そういうわけで卵が地中に放置されるのだ。火山ならでは。それを人々が掘り返すというわけだが、今日は土曜。残念だが、説明だけ。

その後沼へ。ボコボコ音を立てて沸騰したお湯がガスとともに噴き出している。地面は酸のために変質し、赤色白色の粘土に覆われている。その部分には植物が育たない。沼の水と混ざるところには酸や高温に耐性のある生物が繁茂する。コケのようについている。男の子たちも危険であることを知り、列を作ってあるいていた。地面が抜けたら最後、100度近いお湯に足を突っ込むことになる。・・彼らは素足だが。

帰り道、昼食を食べていない私を心配して道(と言ってもジャングルの中だが)になっている果物を取ってくれた。みかんと大きなピンクグレープフルーツ。みなで美味しく頂いたが、本当は禁止されているのだ。土曜だから生ってる果物も採ることができない。SDA・・たばこ、酒、ブアイがだめ。不自由に聞こえる。仏教と神道が混在しているという話をした。寺と神社があり、多くの人がどちらにも通うことはしないと。・・日本は10年くらい前に週休二日になったがそれまで土曜は働く日だった。PNGは?と聞くとずっと週休二日制だったそうだ。理由は簡単、ある人(SDA)は土曜、ある人(その他、主にカトリック)は日曜に教会に行くからと。教会。SolangでもReiでも一番立派な建物は教会だった。ブアイやたばこを悪しきものと思っているのは私も同じだ。しかしそれは、宗教によって語られないとやめられないのか。学校教育もこの国はキリスト教道徳に依っている。

帰ってから学校を見た。学校は休暇。私は自分が学校で働くかぎり、他校の生きた姿を見ることが出来ないのだ。そこに小さな人だかりが出来た。私が珍しいのだ。そこにその学校の教師も生徒もいた。色々聞いてみた。エレメンタリースクールではGrade1,2が学ぶ。それは植物を編んで作った家で、中に机が無い。プライマリースクールはGrade3から8までが学ぶ現在4・5・7・8が学んでいるらしい。Grade3と7は、今年は無いらしい。つまり3年に一回、生徒は入学できないのだ。教室が足りないかららしい。なぜ自分の学校で年齢と学年が一致しないのか、謎が解けた。不運な子どもは一年待たなければならないのだ。一つの教室で2つの学年が授業するようだ。教師には年配の人もいるようだし、かつて私の勤めるセカンダリースクール(高校)を3年前卒業し、教員養成校で学び、今年から新人として働いている教師もいた。彼は別のかつていた日本人ボランティアの教師を知っていた。全科目教えるのは大変だ。この国、小学校の教師は高校教師に比べて格下というイメージが蔓延している。資格の面でもそういう扱いを受けている。残念なことだ。とにかくこの村の教育に関して問題があることは間違いないのだ。教師の人数なのか、教室の数なのか・・州政府の方針なのか、国の政策なのか・・原因は分からない。

その後浜辺のハンモックでゆっくりした。歩きまわったのと寝不足のため眠ることに努めたが、常に話しかけられるためそれは阻まれた。日本のこと、私のこと。日本の森は同じか?言葉は?都市は?自分自身日本人でありながら無知であることに気付く。砂浜には木が生えている。波が木の根を削り半分浮いていたりする。波打ち際にココやしの木の根の跡だけが残っている。かつて、10年前は浜は10メートル先にあったらしい。今ハンモックでくつろいでいるところは小さな森だったらしい。海が迫ってきている。波とはそういうものだ、浸食するものなのだ、それをどこかに堆積させる。日本の砂浜も同じ危機に面しているのかもしれない。しかし、こんなに強いのか?私は現在詳しいことが分からない。私の頭の中で気候変動という言葉が頭をかすめた。早急ではあるが、まず影響が及ぶのはこういうところなのだろう。工業に代表される人為的な活動が原因だと認められつつある環境変動の影響が、それと全く無縁の生活をしている村の浜辺を直撃するのは、非常に不条理なことだと私は考える。村人、特に高校に行くような人は環境変動という言葉を知っている。しかし、彼らがどうするべきか知らないし、知ってもどうすることもできないと思っている。もしこの島の人が環境変動に加担した人々を訴えることが出来るのならば、そのような裁判所が存在するならば、賠償を要求できる場所が存在するならば、と思ったが、現在夢物語である。この砂浜でぼーっとする、ゆっくり暮らすこと。それは一つの幸福の形だと思う。しかし、それは外から脅かされうる、とても繊細でもろく、何の保障もされていないものなのだ。この暮らしを守りたければ、自衛するための力が必要だ。外の世界は思っているほど親切でないのだ。自ら守るしかない。別に国のためでなくてもいい、男の子たちが、この砂浜を守るために勉強してくれたらいいと思う。ペンは剣よりも強し。

夕方Jの家へ。両親は他州で働いていて居ない。そのためおばさんと同居している。しかし、実際祖父母の家に多くお世話になっている。祖父母は5人の子供を持ち、そのうち3人が出稼ぎに出ている。残りの2人がSolangに残っている。残った二人、両方とも耳が聞こえない。この村、たぶん200人もいないと思うが、6人は聴覚障害者がいる。タウンに比べて明らかに遭遇率が高い。タウンには障害者の居場所は無いのだろうか。

晩御飯は茹でたカウカウ(サツマイモ)、タピオク(キャッサバ)、さらにタピオクのケーキ、マリタという植物の種からとれるクリームを混ぜたもので、真っ赤だった。

 

2週間近く雨がなく、水不足らしい。

11/12/09 Rei village

金曜日。夕方4時半、私はボートに乗った。波のせいでボートが跳ねる。お尻が痛い。酔っ払いが隣に居て絶えず話しかけてくる。風もあるので聞き取りずらいがお構いなし、耳元で大声で喋ってくれた。ボートの人間が全員Louの人間。当然、皆私のことを不思議がる、興味を持つ。日本からボランティアで来ていること、村の暮らしに興味があってきていることなど話した。

酔っ払いはかつてLouにも日本兵が来たことを教えてくれた。そして彼は日本兵が村を壊したからお金をよこさないといけないと主張した。

日本の軍隊がかつて太平洋戦争時にPNGにきたことは知っていた。そういうことに向き合いたくて私はボランティアする国を選んだ。しかし、私は相変わらず無知だった。日本は賠償したのか、したならどのように。しなかったならどのような事情で。そして、どうあるべきか自分の意見を持たなくてはいけない。村の人々も当然知らない。ただ日本兵が来たことは語り継がれているし、学校でも教わる。

ボランティアは村を知らないといけないんだ。自分の身の上とともにそう言う話をすると、彼は理解した。本当にボランティアが必要なのは村かもしれない。そう話していたら、ふとかつて関係者が話していたことを思い出した。

タウンを歩いているとよく声をかけられる。そしてときに、相談を受ける。助けが、ボランティアが必要だと。このような「たかり」にどのように対応するかを、その関係者が教えてくれた。「手紙を書いて持ってきてくれ。」というのだ。大体が適当な思い付きの声だから、それきりになるということだ。

私は納得できなかった。本当に助けが必要な人は英語が使えないかもしれない。そしてその酔っ払いも同じことを分かっていた。自分は村の人間だから知識が無いのだと・・ホームメイドの酒(一応違法)を飲みながらそう話す。その後ろに若者が居た。彼は酔っていなかった。残念ながら記憶は無かったが、どうもかつて私が教えたGrade11の生徒らしい。K、落ち着きのある好青年であった。Rei村出身、かつ酔っていない彼にぜひ宿をお願いしたかった。彼は快諾してくれた。そして翌朝私をJが居ると思われるSolangまで送るとまで言ってくれた。

2時間せずボートは島についた。海岸の崖には立派な火山噴火の歴史が幾重の噴出物の地層となって残されていた。火山灰、軽石・・火山島に来たのだ。ボート人々が迎えた。その中にKの父親が居た。挨拶をした。すぐに家まで案内してくれた。感じのいい人だった。道々、近年大きな洪水があったとかで、崖が崩れたあとがみられた。彼らの家は海岸から少し離れた高いところにあった。コンクリートの土台の上に立つパーマネントハウス。横に森で木を切って作ったような小さな家もある。キッチンだ。別のもの木の家は・・ハウスボーイズ。今はメンズハウスと呼んでいるが、これは男らが寝る部屋。習慣ではある程度の年齢になると男の子は家族と寝るのではなく、ハウスボーイズという女人禁制の建物で寝なくてはならないらしい。それは、かつては学校として機能し、男の子は村の男のルールや仕事を年長者から教わっていたのだ。そしてハウスボーイズで過ごし、大きくなり、自分の家を建て、嫁をもらうと卒業という仕組みだ。現在この制度は機能せず、西洋の制度の学校が整っている。しかし、このメンズハウスがこの家にまだ存在し、家の男らだけが入るというものになっている。

Kの家に彼を含めて、学生、生徒の年頃の子どもが6人いた。全員クリスマスホリデーということで帰ってきたのだ。一人は他州から。家は賑やかだった。夜はソーラーパネルの電気を使った。当然、パネルの無い家は暗闇だ。水は雨水のタンク。200ガロン(約900リットル)のタンクが二つあった。水不足の心配は無いらしい。凄く裕福な家庭であることが分かる。洗濯機、トイレは水洗。Kの父親はNGOで働いているようだ。はじめLouの発展のために立ち上げたらしい。その後Manus州全体に活動を広げ、方向性もかえたようだった。海外のNGOと協力して働いているらしい。例えば台湾のあるNGOはここの近代化の過程を調査しているらしい。NGOで働いてそんなに裕福な暮らしが出来るものなのか・・。

Lou、初日はRei村で、疲れていたためかすぐに眠った。

4.1.10

04/01/10 新年の挨拶

月曜日。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。自分の日記で誰に挨拶しているのかよく分からないが、この日記をタイムリーに見る方々に挨拶申し上げます。元気でやっています。

今朝、Louから帰ってきた。3週間になる大きなビレッジステイだった。96ページのノートを一冊と半分終わらせるくらい、色々書いた。少しずつ紹介したい。けれど、今日はとりあえず帰宅した、という報告にとどめておこうと思う。

別れのあとで感傷的になっている。村に感謝の手紙を書こうと思う。

19/12/09 サッカー仲間

我が草サッカーチームは市長杯で決勝進出。決勝戦の相手は既に6-0でボコボコにしたチーム。予選でも既に勝っている。

このチームメイトの一人Aが昨日の昼間、家のお向かいさんの家に居て、大声で声掛けてきた。

「今夜ご飯を食わせろ」

確かにそう言った。聞き直した。そう言っている。Aはかつて私をクラブに連れて行き、自分は酔ってしまった男だ。根はいいやつだ。帰宅後で疲れていたし、料理に自信がない。全然気が進まなかったが、大した言い訳も思いつかなかったので承諾した。7時半ということだった。

「ただし、まずくても文句言ったらダメよ」

夕方彼が来るのを待った。伝家の宝刀、カレーライス。昨日は珍しく売っていた茄子が入った。しかし、彼は来なかった。負けシェフは独りで食べた。来ない気はしていた、金曜日の夜、彼が飲まないはずはない。実は昼、気付かなかったが既に酔っていたのかも・・。

今日、決勝戦は雨で延期。仲間らがキャンプしている学校に行ってみた。挨拶しに。仲間らはすごく喜んでくれた。Smile(私)が帰ってきたぞ!と。明日Louに戻るから、試合は出られない。でも一緒にプレー出来て幸せでした。いい仲間たちだった。Sさんのバイクの部品が盗まれた話をしたら、犯人見つけてぶん殴ってやると意気込む、ちょっと恐い兄さんもいる。Smileは忙しいから無理するな、って練習も配慮してくれた。水のこともすぐ助けようとしてくれた。サッカープレイヤーであることが、誇りだった。街の人は私がチームの一員だと知るといいね!と言ってくれる。子どもらも日本でプロチームの選手を言うように「K知ってる!?T知ってる?」とか聞くのだ・・憧れの的なんだ。Louの子どもでも知ってる子がいた。少しサッカーして遊んだらサッカースターと呼ばれる始末。このチームに入っていい経験をした。感謝感謝だ。

昨日のAとも会った。全く覚えていないようだった。・・自分の聞き間違いかと疑いたくなるような爽やかさ。私からは何も話さなかった。

かつてにMasobu(前に居たチーム)の監督からご飯に誘われて行ったときのことを思い出した。7時と言われて7時5分に行った。雨、雷で行くのを迷いながら行った。こちらの人なら絶対行かない・・だから行かないほうがいい気もしたが、迷った末に行ったのだ。監督は来たことに驚いていた。そして来ないと思ったからご飯を済ませてしまったと言っていた。

・・・実は社交辞令?そのうち遊びに行くね・・という意味?監督の様子とAの言動の意向が一致する。奥が深い・・。