12.7.10

09/07/10 一年

金曜日。

また首都にいる。任地の電話線は切れてしまっているので、久しぶりの更新になった。

病後マヌスに帰って働いた。そしてterm2を無事に終えた。少し疲れるとすぐ頭痛がする。一か月程度続くらしい。・・復職してから学期末の生徒の評価のために、遅れていた授業をまくために働いた。ボランティアの集まり、隊員総会。

私は、ボランティアが首都に上がった時に宿泊できるドミトリーの管理委員の長を務めている。これがくせもので、私を大いに悩ませた。電話線がいつ切れるかも分からない場所にいるのに、自分がメールで苦情を受けたり、利用の許可を出したりしなければならなかったからである。きちんと自分の任地の状況を説明したにも関わらず、「大丈夫!」と無責任にも役職を押しつけられた。これは良くないということで、規約の改正、全ボランティアがドミの管理委員、長の仕事が良く分かるように明文化することなどを提案したりした。これまたメールでやり取りをしていた。もちろん電話線が切れたらストップ。規約や委員長の役割を変えるべきだと言うと、無責任だとか、社会人失格と散々に言われてしまった。・・結局ドミの規約の一部の変更を議題にして、討論した。一部だけでも、ドミが公平に、皆に喜ばれるようになればいいと思う。

今年で三十周年の協力隊を祝う式典。ボランティアの企画でないので乗っかるだけだった。日本語、ピジンの歌を歌った。ギターを持って行って弾いた。

ボランティアの安全のために開かれる安全対策協議会。凶悪な事件が後を絶たない。やはり首都が危ないようだ。自分も一月に強盗にあっている。気軽に歩ける場所なんてどこにもない。

活動中間発表会、自分が今までやってきたことを10分にまとめてプレゼンした。活動風景の映像や写真を流す人もいるし、任地の問題点を取り上げる人も。自分の同期や他の職種、同職種の人の様子を聞くとヒントを得られることもある。

自分がPNGに来たのは、去年の6月。一年が経った

日本で訓練を受けたときの仲間からメールをもらっていた。勝手に企画した近況報告会をほったらかしにして叱られた。でも叱ってくれるだけありがたい。いい仲間を持った。

大学時代の仲間が手紙をくれた。デング熱だったことを聞いて心配してくれた。就職活動も無事終わったらしい。本当に良かった。

いつの間にかボランティアの中でも古株になっていた。頼られることも多い。皆はじめは何も分からない。自分も未だ分かっているのか怪しいが、それでも少しは経験がある。それをもとに何か後輩にいい影響を残せれば、その思いでドミの制度改善や分科会の改善を試みた。なかなか思うようにはいかないし、疲れて投げ出したくもなる。それでも、なんとかこうして少しずつでも前進している感覚、一緒に頑張ろうと言ってくれる人がいると、まだやろうと思える。

残り半分を切った。ブログも更新できる回数も限られている。細々とでも止めずに続けられたらと思う。

みなさん、心配かけてごめんなさい。それでは!

09/07/10 一年

金曜日。

また首都にいる。任地の電話線は切れてしまっているので、久しぶりの更新になった。

病後マヌスに帰って働いた。そしてterm2を無事に終えた。少し疲れるとすぐ頭痛がする。一か月程度続くらしい。・・復職してから学期末の生徒の評価のために、遅れていた授業をまくために働いた。ボランティアの集まり、隊員総会。

私は、ボランティアが首都に上がった時に宿泊できるドミトリーの管理委員の長を務めている。これがくせもので、私を大いに悩ませた。電話線がいつ切れるかも分からない場所にいるのに、自分がメールで苦情を受けたり、利用の許可を出したりしなければならなかったからである。きちんと自分の任地の状況を説明したにも関わらず、「大丈夫!」と無責任にも役職を押しつけられた。これは良くないということで、規約の改正、全ボランティアがドミの管理委員、長の仕事が良く分かるように明文化することなどを提案したりした。これまたメールでやり取りをしていた。もちろん電話線が切れたらストップ。規約や委員長の役割を変えるべきだと言うと、無責任だとか、社会人失格と散々に言われてしまった。・・結局ドミの規約の一部の変更を議題にして、討論した。一部だけでも、ドミが公平に、皆に喜ばれるようになればいいと思う。

今年で三十周年の協力隊を祝う式典。ボランティアの企画でないので乗っかるだけだった。日本語、ピジンの歌を歌った。ギターを持って行って弾いた。

ボランティアの安全のために開かれる安全対策協議会。凶悪な事件が後を絶たない。やはり首都が危ないようだ。自分も一月に強盗にあっている。気軽に歩ける場所なんてどこにもない。

活動中間発表会、自分が今までやってきたことを10分にまとめてプレゼンした。活動風景の映像や写真を流す人もいるし、任地の問題点を取り上げる人も。自分の同期や他の職種、同職種の人の様子を聞くとヒントを得られることもある。

自分がPNGに来たのは、去年の6月。一年が経った

日本で訓練を受けたときの仲間からメールをもらっていた。勝手に企画した近況報告会をほったらかしにして叱られた。でも叱ってくれるだけありがたい。いい仲間を持った。

大学時代の仲間が手紙をくれた。デング熱だったことを聞いて心配してくれた。就職活動も無事終わったらしい。本当に良かった。

いつの間にかボランティアの中でも古株になっていた。頼られることも多い。皆はじめは何も分からない。自分も未だ分かっているのか怪しいが、それでも少しは経験がある。それをもとに何か後輩にいい影響を残せれば、その思いでドミの制度改善や分科会の改善を試みた。なかなか思うようにはいかないし、疲れて投げ出したくもなる。それでも、なんとかこうして少しずつでも前進している感覚、一緒に頑張ろうと言ってくれる人がいると、まだやろうと思える。

残り半分を切った。ブログも更新できる回数も限られている。細々とでも止めずに続けられたらと思う。

心配かけてごめんなさい。それでは!

15.6.10

16/05/10 小さな世界

日曜日

土曜日。同居しているKさんに誘われ、Aさんも一緒に3人でホテルのレストランに昼食を食べに行った。そこでYさんにも会った。皆さん、毎週ホテルで食事をされているらしい。私は普段そこに行く習慣がなく、家で適当に済ませてしまう。引きこもり体質なのかもしれない。レストランで、ホーランド(?)から今年新しく来たという若いボランティアにあった。現在家が無く、ホテル住まいのようだ。一人でさみしかろ・・。電話番号を聞いたので、今度我が家に招いてあげようと思う。外国人同士、ボランティア同士、何か通じることもあるだろう。

昼はYさんとグランドに行った。我が学校とYさんの学校の交流戦が行われた。Yさんの生徒を見る眼差しは、温かかった。自分はすぐ退屈になってしまった。バレーとサッカーをやっていた。これらのスポーツがうまい人はいいけど、出れるのは一握り。自分の教え子も沢山いた。ツルツルになったスパイクを持ってきている生徒が居た。「ただ持ってきただけ」と言う。観戦してるが、本当はプレイしたくて仕方ないんだ。こんなこと書いている自分も密かにスパイクとストッキングとすね当てをちゃっかり持ってきていた(笑)。でも生徒の試合だから、彼らに出て欲しかったから自粛した。家に帰ってバスケボールを学校に持って行った。幸運にも空気入れを持っている教員が居たので空気を入れてもらって、近くにいたそのツルツルのスパイクを持ってる子どもらと、バスケをした。彼らはルールを知らないので教えてあげた。シュートの打ち方、ドリブルの仕方。ドリブルは叩くんじゃなくて、押すんだよと。指と付け根でしっかり触るように。素足でアスファルトの上でやって、皮がむけていた。

 

日曜日。今日は高校時代の友人Hの結婚式が日本で行われた。おめでとう!

この日に電報が届くように、また別の友人Mにお願いしておいた。今まで結婚式というものに参加したことが無いので、いまいち想像しにくい。高校の同級生もきっと一部集まって祝ったのだろう。

その夜、代打を頼んだ友人に電話した。彼は私のメッセージをわざわざ伝えてくれたらしい。喜んでもらえたなら何よりだ。そして何もできない自分に代わって面倒を引き受けてくれたMに感謝した。結婚式に出席した後、夜に新幹線で彼の本拠地に帰るという切り替えの感じが日本を漂わせた。

結婚式があったその日、私は家の草刈りをして、ネットに接続を試み、しかしうまくいかず諦めた。Mr.Kが我が家に来た。彼は我が家に来て、なんと海外に職を探している。彼の職場にそうやってフィリピンから来た人がいるそうだ。募集しているウェブページを紹介してもらい、一緒に探して、応募した。現在その返信待ちなのだ。しかし、接続できなかった。

そんなときに日本から、電話がかかってきた。かつてマヌスのMr.Kの故郷で彼と一緒に働いていたボランティア、Fさんから突然の電話だった。初めてのことで驚いた。彼は6Wが亡くなったことを聞き、確認するために私に電話した。その場にMr.Kが居たのは奇跡だった。6Wを父親と呼ぶ、Fさんはきっと濃い人間関係をこの地で作ったのだろう。6WともMr.Kとも私もお世話になったし、これからもなるだろう。

いろんなところで世界は繋がっている。本当に世界って狭いと思った。

09/05/10 6W

日曜日。ブログを書くペースが落ちている。

先週の火曜日。カレーを振る舞った日。夕方に近所に住む小学生の女の子が我が家に来た。また理科の質問かな・・と思ったら、思いもよらないことを言われた。

「6が死んだ。」

6、6Wは、我が家によく遊びに来てたおじさんだった。マヌスに来た日本人ボランティアの世話をしてきたと豪語していた。実際私はお世話になった。彼は結構年を取っていた、おそらく60歳くらい。しかし肌はツヤがあって、そのブッシュナイフ(刃渡り50cm以上ある刀のようなナイフ)で我が家の草刈りをやってくれたときなどは、喧嘩したらこの人には勝てない、そう思ったほどたくましかった。

小学生、Sは当日、ハウスクライ(お通夜的なもの)が行われることを伝えに来てくれた。初めてのことで、少し不安だったが、彼のことを思い出すと行かずにはいられなかった。

お隣さん、Pおばさんに事情を話して、何を準備すればいいか聞いた。ここの文化では、そう言うときは食べ物を持っていくのだそうだ。現金ではなく。夜になり、お店もほとんどしまっている。しかし、外国人、バングラデシュの人が経営してる小さな商店は開いているということで、Pおばさん、その姉Mは一緒についてきてくれた。食パン20切れ入りを5袋、バター、砂糖1キロ、お茶を買って、そのまま向かった。マヌスは比較的安全と言っても、周りの人たちは夜に日本人が歩くことをとても心配する。女性2人は、ハウスクライの家まで連れていってくれた。

小さな家の中には15人くらいが、横たわった人間を囲んでいた。家の外にも人が居た。彼らは泣き叫んでいた。娘か、関係は不明だが、その横たわった身体にしがみついて、ずっと叫び続けた。式というより、ただ皆、集まり、囲み、泣く。自分はどうして良いか分からなかった。その身体はスラックを履き、白いシャツにネクタイをしめていた。首にはいつも付けてた黒い十字架のネックレスが。顔の鼻と口には包帯が巻いてあって、それが6Wなのか、良く分からなかった。6Wの脂ぎった感じの皮膚とはまるで別物で・・目もしわくちゃで、自分には信じられなかった。その十字架だけが、6Wの死を私に説得力を持たせていた。泣いていた娘が私のために場所を譲ってくれた。近くで見れば見るほど、彼が痩せこけたことが分かる。何か病気で亡くなったのだろう。蠅がたかりはじめていた。恐る恐る額に触れた。これが、本当にアイツなのか?触ったところで何も分からなかった。

周りの人々からはとても感謝された。来てくれてありがとうと。「残念です、彼はいつも十字架と一緒でした。だからきっと今もそうでしょう。彼をお願いします。」そう残して去った。帰り道も男の子が送ってくれた。話しを聞くと、2週間前から病気になったらしい。片腕、片足が動かなくなり、そのうち、話すこともできなくなったと。食事や水浴びも自分でできなかったらしい。言葉を失った彼はただ、微笑んでうなずくだけだったらしい。病院に行っても、何も分からなかったようだ。どのような病か特定されなかったらしい。

信仰の無い私にも、彼が神様にすがっていたのが分かった。何かあるとすぐに、神の名を出していた。他人のお金が無造作に机に置いてあったとき、彼は神の存在を自分に言い聞かせて、それをくすねることを拒んだ。これはある日本人ボランティアの家に彼が訪ねたときのことらしく、誇らしげににそれを話したのを思い出す。芝刈りも、神がこの日本人を助けなさいというからそうしたらしい。彼は今、どうしているだろうか。うちの猫と出会ったろうか。

私は泣きもせず、叫びもせず。ハウスクライにお邪魔した。6Wは翌日彼の村に運ばれて、葬式が行われたそうだ。そうしてこの週末にはその村では、6Wの娘の結婚式が盛大に行われることになっている。何か終わり、また始まる。

9.5.10

04/05/10 新生活

火曜日。

新しいボランティア、KさんとAさんと同居を初めて一週間が経った。良く言えば新鮮、悪く言えば落ち着かない感じ。それまでとは当然勝手が違う。

 

彼らは住環境の改善にとても積極的だ。自分がどこまでできるのか試したいとKさんは言っていた。州政府の持ち物である我が家の改善に最適な職場、州政府に派遣されていることもあって、住居の改善を要求した。かつて、そのような要求をしてきたが州政府は動かなかったと聞いていた。無いなら無いなりの生活を送ってきた。何もせずその生活を受け入れてきた。しかし、彼らは違った。自ら積極的に動いた。その甲斐あって、州政府の家の修繕を担当する人が我が家までやってきて、視察した。その結果、傷んだ屋根や床などの修繕にとどまらず、壊れた洗濯機の代わりに新しいものを置くことや、エアコンを付けることなど・・様々なことを約束したらしい。

昨日、月曜日。KさんはD社のツナ缶を食べた。私がかつて三度食べ、三度ボイルに罹ったことも伝えたが。その結果、今日彼の足にボイルの赤ちゃん、小さなニキビのようなものが足に出来ていた。私は調理せず食べていたが、彼は加熱して食べた。それでもダメだった。

今日、火曜日。カレーを作ったが、初めて中にバナナ、それも日本で食べるような甘いバナナを沢山入れてみた。処理する為に。バナナが大量に庭になって、お隣さんと分けて、さらに日本人3人で分けてもまだ余るほど。カレーは美味しかった。KさんもAさんもまだ慣れないのもあって帰宅後ぐったりして、料理する元気がないようだ。一度はカレーを作ると言ったら、ぜひ食べたいということで振る舞った。とても喜んでもらった。次カレーを作るときもぜひと。

でも・・かつてはほぼ毎日カレーを食べていた自分。料理をするのは自分も元気があるとき、帰ってすぐ、シャワーを浴びたいのをぐっとこらえてちゃちゃっと適当に作る。勢い、その場の心持ちで決めて作っている・・。大掛かりなことをするほど自分も、準備しているわけでない・・傍から見ると多分すごく簡単に、要領良くやっているように見えるのだと思う。かつて同居していたSさんから見たら相当要領悪そうに見えただろうが・・。何故か、そういうときに料理の頻度が増える。変な自信でも付けてしまったのかもしれない。

28/04/10 新隊員着任

水曜日。

月曜日。2学期の始業開始の日。その日に、新たなボランティア2人が、マヌスに、我が家にやってきた。これから残りの任期、来年の6月まで彼らと共に暮らすことになる。嬉しくも悲しくも一か月の一人暮らしは終わった。

空港まで出迎え。私の提案とYさんのセンスで段ボールで小さな看板「ようこそマヌスへ!」を作り、掲げた。自分がPNG、任地に来たときと他の任国の話の間のギャップに少し悲しみを覚えた記憶があったから。PNGでは特に歓迎会もボランティアは企画する習慣もなく、それどころかボランティア同士の仕事さえも適切に説明されない。PNGのボランティア事情は特殊で、JICAの協力隊派遣国で唯一男性限定の国なのだ。それはその国の治安の悪さが故である。そう言う訳で、今回来るのも当然男性なのだが、私はしっかり歓迎したかった。来てよかったと思って欲しかった。たとえ不器用でも。

その後昼食は唯一のレストランがあるホテルで。このような接待にYさんも私も全く不慣れでであったが。Aさんと、Kさん。お二人とも私より年上で、社会人経験もあり、大人だった。その後、Yさんは帰った。そして、街・・と言ってもとても小さいものだが簡単に案内した。この国のことだって分からない、そんな中で暮らしを始めるのだから大変に決まっている。それでも、二人が働くことになる州政府の人は、「明日7時半ね」と当たり前のように言った。私のときもそうだった。引っ越してきて落ち着くのに数日つかっても良いだろうにな、と思った。それを彼らも気付いたようだが、要求しないあたりが、日本人らしい気もした。買い物にマヌス唯一のスーパーマーケット、中心の市場、先月グランドオープンした薬局に案内した。しかし、スーパーは荷が無いらしく、米も小麦もマーガリンも売っていなかった。2人はさぞ行く末が不安だと思う。貧弱な料理だが、私の日常食、炊き込みご飯を振る舞った。

 

火曜日。授業が始まった。まだ、休みから学校に戻ってきていない生徒も多かった。しかし、授業を進めた。近所の小学校の教員向け理科講習会の日程を話し合って、再来週に決まった。少しづつ、でも確実にできること、したいことが出来ていることがすごくうれしい。自分の能力で、自信を持って、人を幸せにできること。

 

水曜日。AさんもKさんも住居の改善にすごく積極的である。私は、一年弱過ごしたせいか、様々不満があっただろうが、適応してしまっている。雨漏り、ドアが閉まらない、床が抜けていること、洗濯機が壊れていること・・エネルギーがあるときにしか、人はやらない。これは真実だと思った。今の私は、それらが改善されたらいいなと思いながら、簡単に妥協してしまっている。むしろ、二人に満足のできる家を見せられなかったことが残念だったくらいだ。

彼らは州政府で働くという特権を活かして、苦情を伝えている。我が家を管理することになっているのは州政府のなのだ。自分はすぐに、とてもいい家に住んでいるよ、なんて言ってしまう。不満無きところに改善は無いということだ。

学校の音楽の先生に、バロック音楽のギター用の楽譜を見せたらとても喜んでくれた。バロック音楽がカリキュラムにあって、教材が無いから。しかし彼は、必要なときにコピーさせてもらいに行くからそれまで、持っていてくれと言った。自分の部屋は生徒が頻繁に入って物が無くなるからということだ。

 

2人はまだ何もしていないのに疲れてしまう、と言っていた。痛いほど分かる。何故か自分でもわからない。気候のせいか、言葉のせいか、価値観の違いのせいか・・とにかく私も食が大きくなったし、睡眠時間も増えたし、それでも体調が万全でないことも頻繁にあって・・・馬鹿にされるかもしれないが、2年間生き抜いただけでも立派なんじゃないかなと私は思う。

23/04/10 お喋り

金曜日。

昨日、木曜日。小学校の校長Mr.Wには約束はすっぽかされた。これを文化と言って納得していいものではないような気がする。

約束って守られないと不自由な思いをする。

昨日、PaitalaiからYさんが街にきた。久しい。現在マヌス島に日本人は二人。私と彼。

たくさん話すべきことがあった。

分科会のこと。

結局中止になってしまったが、まだ未来がある。これからどうやっていくか。年に2回の上京の機会のうち1回が7月にある。その時、理数科教師ボランティアは何ができるのだろうか。

 

活動全般のこと。

この島には飢餓なんてない。ストリートチルドレンもいない。皆が日本みたいになりたいと思っている訳でもない。責任も無く、のんびり暮らしたい人もいる。世界中にあると言われている発展途上国の中で、このPNGにやってきて・・ささやかな幸せを与える。モチベーションを保つのが容易ではないのだ。日本を離れて、頑張ろう!って思えるのは、自分の仕事が価値があると信じているからである。既に満足だと思っている人たちを、大満足にすることよりも・・今日生きるのにも苦労している人たちに手を差し伸べるべきだと思う。JICAの募集にはそう言う思想が見られない。「発展途上国」をひとまとめにして、同じ様に扱っているがそれでよいのだろうか?

Papitalaiの生徒が近年無かったような荒れっぷりらしい。生徒が授業に来ず、ドミトリーに籠ったり、ほっつき歩いたりしていると言うのだ。教師はいつも通り頑張っているらしいのだが・・。学ぶことを拒んでいる生徒に学ばせなければならない理由は存在するのだろうか。これは学校の在り方を問う、根本的な問題だ。教員志望の身としては、教師の質について考えを巡らせる。「いつも通り」でない生徒に対して、対策を取り、生徒に必要な資質(これが難しい)をつけてやるのが仕事。しかし、村に居る保護者は教育に全く関わろうとしていないのかもしれない。と言うか、寮生の場合は普段その場にいない。これは、日本の高校よりも教師の負担が大きいと言える。教育に対する責任が大きい。家庭や地域の関わりが無い。日本と比べて見えることもあるかもしれない。

 

その他

Yさんのウェブでの調査によって、私たちの今いるマヌスはアドミラルティ諸島と呼ばれるが、太平洋戦争時になんと3000人以上の日本人が亡くなった大きな戦場であったことが分かった。PNGの戦場と言えばラバウルと皆いうが、悲劇は至る所にあったのだ。この島にきた日本人の大多数は観光客でも、ボランティアでもなく、兵士だったのだ。しかもその大半がここで死んだというのが事実だ。だから、マヌスの人、特に年配の方にとっての日本、日本人のイメージは兵士になるのはものすごく自然なことなのだ。

 

 

Yさんは最近、体調を崩したりしたことも重なって、今しんどい思いをしている。ボランティア間の交流はほとんど無いため、他の国のボランティアがやっているように仲良しで集まって息抜きすることもできず、活動の意義も見出せなくなってしまったら・・。彼自身、少し中休み、と自覚しているようだった。

 

 

ずっと書けなかったが、猫、我が家でSさんが飼っていた猫が死んでしまった。その子は新隊員が猫好きか否か判明するまで、Yさんの家に引き取られていた。Papitalaiで彼は果ててしまった。私はまだ、どこかで好き勝手にはしゃいでいるんじゃないかと・・なかなか受け入れられないでいる。SさんにはYさんから伝えたということだった。私は猫をペットとして飼うことに初め抵抗があった。そんな私でも、その子はなつき、可愛く思えた。Sさんの居ないときは一緒に寝たりしたものだ。人の死以外は安っぽいものだから、人以外は何でも食べられるし、悲しむべきものでもない、それを悲しむのは本来日常であった動物の死に不慣れであるが故だと。頭でそれを理解したが、その子の死は、それまで音楽を作ろうにも、途中で必ず挫折していた自分を最後まで追い込むほどのものであった。彼の死は、私の中でずっと生きている。生命の価値というものが、考えれば考えるほど分からない。猫の死にうろたえながら、カスカスを食べる自分。気持ち悪い。でも、誰が何と言おうと、それを愛しく思い、それを失って悲しいと思える対象になり得る。それだけ、ただ生きるということが、劇的なものだということなのかもしれない。

まだ何も私の中で答えは無い。それでも今日も死の上に立って生きていく。