5.1.10

11/12/09 Rei village

金曜日。夕方4時半、私はボートに乗った。波のせいでボートが跳ねる。お尻が痛い。酔っ払いが隣に居て絶えず話しかけてくる。風もあるので聞き取りずらいがお構いなし、耳元で大声で喋ってくれた。ボートの人間が全員Louの人間。当然、皆私のことを不思議がる、興味を持つ。日本からボランティアで来ていること、村の暮らしに興味があってきていることなど話した。

酔っ払いはかつてLouにも日本兵が来たことを教えてくれた。そして彼は日本兵が村を壊したからお金をよこさないといけないと主張した。

日本の軍隊がかつて太平洋戦争時にPNGにきたことは知っていた。そういうことに向き合いたくて私はボランティアする国を選んだ。しかし、私は相変わらず無知だった。日本は賠償したのか、したならどのように。しなかったならどのような事情で。そして、どうあるべきか自分の意見を持たなくてはいけない。村の人々も当然知らない。ただ日本兵が来たことは語り継がれているし、学校でも教わる。

ボランティアは村を知らないといけないんだ。自分の身の上とともにそう言う話をすると、彼は理解した。本当にボランティアが必要なのは村かもしれない。そう話していたら、ふとかつて関係者が話していたことを思い出した。

タウンを歩いているとよく声をかけられる。そしてときに、相談を受ける。助けが、ボランティアが必要だと。このような「たかり」にどのように対応するかを、その関係者が教えてくれた。「手紙を書いて持ってきてくれ。」というのだ。大体が適当な思い付きの声だから、それきりになるということだ。

私は納得できなかった。本当に助けが必要な人は英語が使えないかもしれない。そしてその酔っ払いも同じことを分かっていた。自分は村の人間だから知識が無いのだと・・ホームメイドの酒(一応違法)を飲みながらそう話す。その後ろに若者が居た。彼は酔っていなかった。残念ながら記憶は無かったが、どうもかつて私が教えたGrade11の生徒らしい。K、落ち着きのある好青年であった。Rei村出身、かつ酔っていない彼にぜひ宿をお願いしたかった。彼は快諾してくれた。そして翌朝私をJが居ると思われるSolangまで送るとまで言ってくれた。

2時間せずボートは島についた。海岸の崖には立派な火山噴火の歴史が幾重の噴出物の地層となって残されていた。火山灰、軽石・・火山島に来たのだ。ボート人々が迎えた。その中にKの父親が居た。挨拶をした。すぐに家まで案内してくれた。感じのいい人だった。道々、近年大きな洪水があったとかで、崖が崩れたあとがみられた。彼らの家は海岸から少し離れた高いところにあった。コンクリートの土台の上に立つパーマネントハウス。横に森で木を切って作ったような小さな家もある。キッチンだ。別のもの木の家は・・ハウスボーイズ。今はメンズハウスと呼んでいるが、これは男らが寝る部屋。習慣ではある程度の年齢になると男の子は家族と寝るのではなく、ハウスボーイズという女人禁制の建物で寝なくてはならないらしい。それは、かつては学校として機能し、男の子は村の男のルールや仕事を年長者から教わっていたのだ。そしてハウスボーイズで過ごし、大きくなり、自分の家を建て、嫁をもらうと卒業という仕組みだ。現在この制度は機能せず、西洋の制度の学校が整っている。しかし、このメンズハウスがこの家にまだ存在し、家の男らだけが入るというものになっている。

Kの家に彼を含めて、学生、生徒の年頃の子どもが6人いた。全員クリスマスホリデーということで帰ってきたのだ。一人は他州から。家は賑やかだった。夜はソーラーパネルの電気を使った。当然、パネルの無い家は暗闇だ。水は雨水のタンク。200ガロン(約900リットル)のタンクが二つあった。水不足の心配は無いらしい。凄く裕福な家庭であることが分かる。洗濯機、トイレは水洗。Kの父親はNGOで働いているようだ。はじめLouの発展のために立ち上げたらしい。その後Manus州全体に活動を広げ、方向性もかえたようだった。海外のNGOと協力して働いているらしい。例えば台湾のあるNGOはここの近代化の過程を調査しているらしい。NGOで働いてそんなに裕福な暮らしが出来るものなのか・・。

Lou、初日はRei村で、疲れていたためかすぐに眠った。

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