24.1.10

22/01/10 日本人、大集合

金曜日。

先週の金曜日から丸一週間、首都Port Moresby に滞在した。これは私が日本国際協力機構(JICA)の派遣するボランティアであるからで、年に2回、50人程度いるPNGで働くJICAボランティアが集って自らの問題や、活動における問題を共有する。

先週の金曜日。遅れる、ダブルブッキング。そんなことが平気で起こるPNGの飛行機らしいが、無事に乗れた、そして予定時刻に到着した。首都PoMには事務所、ボランティアのドミトリー、大使館など色々ある。私は離れた田舎から来る都合、毎日飛行機はないので、他のボランティアより一日早く首都にきて待つことになった。しかし、ドミトリーにはこの1月に来たばかりの新ボランティアが滞在していたため、全く退屈することはなかった。これからのPNGに希望や目標を持つ彼らに負けず、自分の夢を語った。彼らはなかなかハードスケジュールの中生活しているが、楽しそうにしていた。まだPNG三日目の夜だったようだ。

土曜日。事務所に行き報告書を提出。青年海外協力隊として活動するボランティアは2年間に5回ほど報告書を提出しなければならない。配属先の高校での活動をメインと考えがちになるような体裁が用意されていたが、私にとって、否、海外ボランティアにとって本当に大事なものは必ずしも配属先にあるとは限らない。私の場合、直前まで滞在したLou islandで見たものこそ「草の根」を謳う青年海外協力隊が注目しなければならないものだと考え、強調した。私たちが見たものが、国際協力に携わる人や日本に居る方々の知識となれば、私たちのここに居る意義がはっきりする。

この日からホテルに移った。ボランティアは50近く居るが、ドミには13しかベッドがないためである。高級感溢れる内装だが、金庫が使えなかったり、そのために荷物を預けたら二日間取り出せなかったりと、色々不便だった。他のボランティアと相部屋なのでひたすら話し続けた。

日曜日。懇親会ということで、パプアニューギニア大学のグランドを借りてソフトボール大会が行われた。集まったボランティア、JICA事務所で働く方々で和気藹藹と汗をかき、曇り空にもかかわらず皆さん顔を真っ赤に焼いていた。

 

月曜日。総会が開かれた。ボランティアの生活改善がテーマらしかった。ドミ管理委員の長になってしまった。みなさん、人の気持ちになってドミトリーを使って下さい。私は自分がPNGに来たばかりのときに、ドミの生活が辛かった記憶がある。右も左も分からない、買い物したくても危険だから出るなと言われ、先輩隊員が来ると、居場所が無い・・。しかも事務所でひたすらオリエンテーションで時間も無い。そんな訳で、後輩隊員に愛を持って接して欲しいという願いがずっとあった。

 

火曜日。ボランティアの活動の報告会も開かれた。PNGに来て大体一年経過したボランティアが現状を報告した。ボランティアには私のような若い人、青年海外協力隊もいればシニアボランティアと呼ばれる別枠でボランティアに来ている方々の居て、同じ職種の人たちの中でも貴重な情報交換が行われた。全く違う職種でもこの国の状況理解の助けになった。病院や保険、医療関係の省庁で働く人の話は、豊かだと思っていたPNGの影を感じた。乳児死亡率が高い(U5MRが65%)こと、マラリア(540万人、全体の87%が汚染地域に住む)、結核の被害が深刻であることは開発途上国であることを改めて認識するに十分だった。マラリアによる死者の数が、PNGの報告(約630人)と赤十字の報告(約3000人)で大きく違うことも、調査が出来ていない現状があると考えられる。

私の居る国パプアニューギニアはJICAがボランティアを派遣している国の中で最も危険な国とされている。それはJICA関係者の犯罪被害件数、犯罪遭遇率ともに最も高いというデータに基づいている。要するに治安が悪いということだ。実際現在いるボランティアから犯罪被害の報告を聞いた。顔面や後頭部に怪我をされて、見るからにとても痛々しい方にお会いした。訳も分からず集団暴行を受けたという実例や真夜中に家に侵入されたという実例を聞いた。私の島に居ると分からないが、この国は間違いなく危険なのだ。50人のボランティアが全員男という他国に例がないこの状況からもそれはうかがえる。

この安全対策の会議の翌日、水曜日。朝に私ともう一人で人通りの多い道を歩いていた。すると突然すれ違った男に腕を強く掴まれ、停車中の車に後ろから押しつけられた。

Bag, bag.

人生で初めて強盗にあった。周りにこんなに人が居るのに誰も反応しない。3人に後ろから囲まれた。私は肩にかけていたバッグから財布いを出し、速やかに渡した。しかしもう一人のボランティアは殴られた上で、パソコンや電子辞書など貴重品の入ったバッグを丸ごと奪われた。周りは「何があった?」「怪我はないか」「かわいそうに」「警察に行きな」・・などなど様々な言葉をかけてくれた。しかし、後の祭り。とりあえず事務所に行って報告。警察署に行って報告。銀行のカードを止めた。幸運にも生きている。だから言えることだが、私は学んだ。もっと気をつければこのような被害は減る。私は明らかに用心が足りなかったと思うのだ。もっと周りを見る。早足で歩く。この街は危険だと自覚して、それらを実践していれば違ったと思う。自分の居る田舎の島とも、日本とも違うのだ。自分のポジティブな考え方に驚くが、次から気をつければいいと思う。死ぬような大事件に巻き込まれる前に貴重な体験をしたのだ。実際現場のすぐ近くの中華料理屋に銃を持った強盗団が入って警察と銃撃戦を繰り広げたばかりなのだから。つい数日前に12人の凶悪犯が脱獄したばかりなのだから・・不幸中の幸いなのだ。

銀行に行った後、気を取り直して、分科会に出席した。分科会とは同じ分野で働くボランティアの集まりである。私の場合、理数科教師の分科会に参加した。毎年どこかの学校に行って行う勉強会的なものについて話し合った。かつて私の配属先のManus Secondary Schoolはこれのホストだったことがあり、その報告書を読んだことがある。私は強い反感を持っていた。授業参観、理科実験の紹介、日本文化の紹介を行ったようだった。主な目的が「ボランティア同士が学び合うこと」であるということであった。理科実験はただの見世物であり、どうやって授業に取り入れるのかという考えなしのものであった。日本文化はウケた。その結果、同僚や生徒の記憶は「面白かった」「ジャパニーズダンスは最高だ!」に終始する。だが、彼らの勉強、仕事に何も変化を残せていないのだ。・・このようなものに自分の全力投球しているものを邪魔されたくなかった。今回の会議では、そのような話に本気でぶつかれた。現地の教師の方に「学んでもらう」ようなものを目指すことでまとまった。それならば、と思い私は今年の「勉強会」を自分の任地でやることを提案した。これはとてもエネルギーがいることだと、常々言われてきた。出来れば自分の学校は避けたいという空気が蔓延していた。私の学校は経験がある、誰かがさせられるよりも負担は小さいだろうと思った。そしてなにより、自分一人での活動の限界を感じていたからだ。これを機会に配属先に何かもたらすことが出来ないか、という淡い期待からである。

私のことを「何でも積極的にやる人」と思う人がいるかもしれない。実際、そんなことはない。私は変わったと思う。みんなが「みんなのために」働く場所に出会えたからだ。自信はまるでなくても、周りが自分を支えてくれた。そのような場所なら仕事を引き受けることが恐くないということを経験してきた。今それを確信しつつある。大学時代、日本での訓練期間に私を支えてくれた人が、私を走らせているのが分かる。

夜は大使官邸に食事に招待された。立派な家、玄関には大きな菊の御紋が。美味しい料理を沢山御馳走になった。しかし、帰ってから頭痛腹痛とひどい下痢に襲われた。夜1時間おきに目を覚ましお手洗いに駆け込んだ。コレラを疑った。翌朝熱を測ると37.8度。そんななか健康診断に行き、5時間待ちを食らった。マラリアもチェックされたが陰性。抗生剤を処方されたが、様子を見るうちに回復した。

こうして、気が付けばもう金曜日。任地マヌスへ帰る日だ。同任地の隣の高校のYさんはオーストラリアへ行く。彼に2通の手紙の投函を頼んだ。青年海外協力隊は2年間の間に、特別な理由がない限り日本に帰れない、隣国など限られた国への出国は認められているが20日まで。その制度が変わって、日本に帰れるようになった。任国外の旅行も年間20日、つまり2倍になった。

日本が近くなった。沢山の日本人に久しぶりに会って・・・恋しくなった。帰りたい、でも2年間必死に頑張ってみたい。心が渦巻いている。

PNGが嫌いなわけではない、でも将来住むなら絶対日本がいい。今は豊かだが、日本が貧しくなるかもしれない。それでも日本に住み、日本を見捨てたりはしないだろう。好きなんだ。これが愛国心というのだろうか。

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