昨夜、一緒に住んでいる先輩のボランティアから
「なぜそんなに実験を教えたいのか?」
と質問を受けた。鋭い質問、というより指摘だった。
同じことを教えるなら、実験をわざわざしないでも良いのではないかと.
準備も後片付けも面倒。研究ではなく、教育現場でなぜ教えるのか。
答えに窮した。一般論を語ろうとするとなかなか大事なことが見えない
こともある。実験器具の使い方を覚えるためなのか・・。
しかし、自分の体験を振り返ってみると本質が見えてきた。何が嬉しくて
学生時代勉強していたのか。
私は学生のとき火山について研究していた。なぜ火山を選んだのか・・
生きている対象を見て、学んだものを真に理解したかったからである。
生きている火山、噴火の瞬間、噴煙の上がるのを見たときの感動は
忘れられない。
実験も同じだ。高校生の時、アルデヒドによる銀鏡反応を見たときも
感動していたことを思い出す。中学生のときアンモニアを上方置換法で
集めたが、試験管を持つ手のさかむけががたまらなく染みたこと。
初めて腐乱臭を知ったこと。
そういう知識を越えた体験・感覚を伴う理解の喜び・・これを子どもらに
伝えたい、そう思った。
しかし、実験室にはガスも水道も通っていたようだが、今は使えなかった。
使ったままの試験管が溜まったまま。名の無い岩石サンプルが
眠っていた。
まだ二日目。焦る気持ちを剥き出しにしていることに気付いてしまった。
体の疲労を感じながら、今日一日を過ごした。寝不足だと思う。
しかし、熱心な生徒を見ると何かしたくなった。9年生から12年生の生徒
が居る高校だが、10年生の終わりと12年生の終わりに進級試験が存在する。
国の共通試験である。生徒も教師もこれに向けて必死だ。放課後も勉強している。
彼らの質問に答えていると気付く・・高校生が分数の計算が出来ないのだ。
学んだことが恐らく定着してない。基礎が無い。
問題は山積みだと感じた。自分は何をすればいいのかもう一度考えたい。
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