9.8.09

海外に来た理由

私は現在ボランティアとして海外で働いている。2年というそれなりの長さここに住むのだ。その前に私の感じていること考えていることについて書く。

不条理さ・・・みたいなものを生活しながら感じることがある。誰でもあると思う。それがまかり通ったり、それが仕方がないと諦められる現実に出会うと痛みを感じる。もっと全ての人間が生きやすい世界を作ることが出来ないかと、私は考える。それは私は誰にでも成り得るからである。誰にでも難民キャンプで生活する可能性はあるのだ。誰かがいじめられていれば、それは次は自分かもしれないと考えることは自然である。

この状態の打開に向けて生きることが私の喜びになると気付いた。そして、打開策として日本で教師になり道徳教育に精を出すという道を選んだ。道徳というと煙たく聞こえるが、人々の満足を大きくするために心にもつルールである。隣人を愛せよ、という徳目も道徳に成り得る。現在、人によっては法律、世間の目、宗教教義、親の言うことが道徳になっている現状がある。この道徳をどのように作り、どのように人に伝えるのか、そういうことを大学院で学び、実践できるようになりたいと思っている。

こういう道を選んだのは、この方法が遅くとも確実だと私が評価したからである。国際機関に務めたり、政治家になるよりもである。私の教え子がその問題に様々な問題に、道徳的な観点で向き合ってくれたら一番だと。また、私の特性上、この形が私の努力が続くであろうからである。理想に対して私のエネルギーをもって最も成果が出ると思ったからである。人と関わって、その関わった人のために働ける喜びを持ちたいからである。そして、生き方に対して真剣に向き合うことが私の喜びであると気付いたからである。

誰にとっても生きやすい世界が何なのか、それを細かく述べることは私には出来ない。それがどのような前提で定義されるのかも私には分からない。定義されて良いのかも分からない。だから学びたい。言えることは、私が世界の人々のことも、私のいる「世界」そのものも良く知らないことである。だから私はもっと知ろうと思った。日本の報道さえも偏見に満ちていると感じたとき、私は自分で見ることを大事にしようと決めた。旅行もときに良い。しかし住んで、生活して初めて分かることがあると思い。2年間のお客様でない、海外生活を経験することにした。

 

実際、このPNGには絶対的に究極の貧困は無い。富裕層が貧困層の面倒を個人、親戚、tok ples スケールでいちいち見ているからだと思われる。2年間の海外生活で全てを知れると言ったら間違いである。国によって、地域によって、個人間でも様々だろう。見なければならない世界は広い、常にそれにアンテナを広げていたい。

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